ココロホームへようこそ
結局、夏休みの予定を立てるのに時間を費やしたせいで、その日の勉強時間は一時間もなかった。
勉強も真面目にしていたのはカイジくんだけだ。
私はすっかり考えることを放棄して解答集を見ながら空欄をなぞるだけの作業に没頭し、心乃ちゃんは五分と経たずに飽きたのか部屋の隅にあるピアノで気の抜けたメロディをぽろんと弾いている。
清次郎くんに至っては、数学のワークを完全に枕代わりにして、本棚にあった漫画をパラパラとめくりながら「ははっ」と間の抜けた笑い声を上げていた。

そんな、いつもと変わらない穏やかな日々が続いていたある日。
週に二回ある定期診察の席で、主治医の先生からとある提案をされた。
「小野村さん、もし良かったら、明日から学校に行ってみませんか?」
「え?」
​机の向こうからの言葉に、思わず間抜けな声が出た。
「……学校、ですか?」
恐る恐る聞き返すと、お医者さんはカルテから顔を上げ、眼鏡の奥の目を穏やかに細めて頷いた。
「はい。毎日でなくても構いません。短い時間だけでも、あるいは保健室に顔を出すだけでも。なんなら制服を着るだけでも、通学路を歩くだけでも良いんですよ」
「……」
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
学校。
その言葉だけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる気がした。
「もちろん、無理にとは言いませんよ」
お医者さんは私の表情を見て、少しだけ声のトーンを落とす。
「ただ、許可証も取りやすくなりますし、外に出る練習としては良い機会かもしれません」
外に出る、練習。
診察室から重い足取りでロビーの長椅子に座りながら、ぼんやりと天井を見上げた。
そういえば、ここに来てから一度もお母さんに連絡を入れていなかったことに気づく。ロビーの壁に寄り掛かりながら、ポケットからスマホを取り出した。
お母さんの連絡先をタップして耳に当てると、呼び出し音が二回鳴っただけで、すぐに出てくれた。
『もしもし、理世。どうしたの?』
「あ、お母さん……元気?」
『元気よ。理世は?調子どう?』
スマホ越しに聞こえるお母さんの声は、私が勝手に想像していたよりもずっと優しくて、温かかった。
学校をめちゃくちゃにしてしまった私を責めるような響きは微塵(みじん)もなくて、なんだか胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……うん、まぁまぁ」
少しだけ間を空けて答えると、お母さんは「そっか」と安心したように息を吐いた。
お母さん、ごめんね。心配かけてごめんね。ホームでの生活のこと、新しい友達のこと、本当は話したいことが沢山あったのに、すべての言葉が喉の奥につっかえて形になってくれない。
「うん……。じゃあね」
一方的に通話を切ったあと、私はしばらくその場から一歩も動けなかった。
スマホを握ったまま、天井を見上げる。
学校には行きたくないけど、外には出たい。
自分でも我儘だなぁと笑ってしまう。
「理世、こんなとこで何してるん?」
聞き慣れた声に、びくっと肩が揺れる。
振り返ると、いつものラフな格好のまま、椅子に座ってこちらを見ていた。
「心乃ちゃん」
「なんぞ?」
「さっき診察で学校行ってみないかって言われたんだけど……」
「うむ」
下校途中に買ってきてくれたらしい団子を貰ったので、もぐもぐと口に運ぶ。
みたらし団子で美味しい。
「で、どうするん?」
もぐもぐと団子を頬張りながら、心乃ちゃんは気軽に聞いてくる。
その軽さが、ちょっと羨ましい。
「……分かんない」
正直にそう答えると、心乃ちゃんは「行かなくても良いんじゃない?」とあっさり頷いた。
「無理して行っても、余計に悪化するだけ」
「そうなのかな……?」
不安げに聞き返すと、心乃ちゃんは串をくるくる回しながら、少しだけ視線を上げた。
「うーん……人による、かな」
さっきまでの即答とは違って、少しだけ考えるような口調だった。
「無理して行って、しんどくなるタイプもいる。逆に、ちょっと無理してでも行った方が楽になる人もいるよね。ちなみにウチは前者」
彼女はそう自嘲気味に笑うと、空になった串をゴミ箱に放り込み、近くの自販機で炭酸ジュースを買った。
「理世の学校はいつ終業式?終業式だけ行って、さっさと外出許可証を貰おう」
なるほど、修了式だけ行くという手もあるのか。
「……それなら、まだマシかも」

という訳で終業式の日、ガタガタ震える足をなんとか動かし、学校の門をくぐる。
終業式では全校生徒が体育祭に集まるので、久々に見るクラスメイトがちらほらいた。
壇上に上がる校長先生の話を、私は入り口付近で膝を抱えながら聞いていた。
話の内容なんて、ほとんど頭に入ってこない。
ただ、ざわざわとした人の気配と、体育館特有のむわっとした空気だけが、やけに重く感じる。
(……無理かも)
喉の奥がきゅっと狭くなる。
少しでも気を抜いたら、このまま引き返してしまいそうだった。
(あと、ちょっと……)
自分に言い聞かせるように、ぎゅっと膝を抱えた。
壇上から拍手が起こる。
びくっと肩が跳ねて、思わず顔を上げた。
「……」
周りを見渡す。
知らない顔と、少しだけ見覚えのある顔。
みんな退屈そうに欠伸をしたり、早く帰りたいのかソワソワと足を動かしたりしている。
当たり前のことだけれど、世界は私を中心に回っているわけではないという事実が、今の私には何よりも救いだった。
(……あれ)
ふと、視線の端に見覚えのある後ろ姿が映る。
同じクラスの子だ。
名前は――思い出せないけど、確か前の席の子。
その子は、隣にいる友達と顔を見合わせ、楽しそうに小さく笑い合っていた。
夏の計画でも話しているのだろうか。それはあまりにも普通で、あまりにもどこにでもある、いつもの日常の光景だった。
私が教室から消え、学校にいなかった数ヶ月間なんて、最初から存在しなかったみたいに。
(……そっか)
胸の奥に、少しだけチクっとした感覚が走る。
でも同時に――
(私がいなくても、回るんだ)
どこか、ほっとした自分もいた。
また拍手が起こる。
終業式は、思っていたよりもあっけなく進んでいく。
「――以上で終業式を終わります」
その言葉が聞こえた瞬間、肩の力が一気に抜けた。
本当に、終わった。
気づけば、呼吸が少しだけ楽になっていた。
周りの生徒たちが立ち上がり、ざわざわと動き出す。
その流れに逆らうように、私はそっと立ち上がった。
(……帰ろ)
それ以上いる理由も、勇気もなかった。
せめて担任の先生にだけは挨拶をしてから帰ろうと職員室の前で声をかけた時、先生は一瞬、幽霊でも見たかのように少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、私の肩をポンと叩いて呼び止めた。
「おお、小野村!よく来たな。あ、そうだ、夏休みにクラスのみんなで遠出してバーベーキューするらしくてな、良ければ小野村も―――」
「……すみません、無理です」
私は先生の言葉を遮るように、被せるようにして小さく首を振った。
先生はそれ以上無理強いすることはせず、少し寂しそうに「そうか、まぁ、無理はするな。気をつけて帰れよ」とだけ言って、向こうから走ってきた他の生徒の方へ向かって行ってしまった。
校舎を出ると、外の空気は、学校の中にいた時よりもずっと軽くて清々しかった。
ポケットの中のスマホが、微かに震える。
取り出してみると、ホームの仲間達で作ったグループメッセージの通知だった。
―――どや、みんな生きてる?
―――お疲れ様でした。こっちは少しかかりそうです
―――オレは丁度終わったところだ!
私もポチポチと文字を打ち込んだ。
―――こっちも終わった〜!
そう返すと、すぐに既読がついた。
心乃ちゃんの提案で、近くの喫茶店に集まってお昼ご飯を食べようということになった。
そういえば今日はみんな外出の手続きをしていたから、ホームのお昼ご飯の配膳を止めたんだっけ。

メッセージに添付された喫茶店の地図を頼りに歩いていくと、住宅街の半地下に辿り着いた。
喫茶店のドアを押し開けると、それに気づいた店員さんが店の奥から「いらっしゃいませー」と出迎えに来る。
落ち着いた声と一緒に、ひんやりとした空気が頬に触れる。 さっきまでいた体育館の重たい空気とは、まるで別の世界みたいだった。
「お、理世くん!こっちだ!」
​店の奥の、少し広めのボックス席から大きく手を振っているのは、見慣れた、でもいつもと違う学ラン姿の清次郎くんだ。その向かいには、これまた新鮮なブレザー姿の心乃ちゃんが座っている。
「おつかれー、よく頑張ったじゃん」
席に近づくと、心乃ちゃんがお冷やのグラスを持ったまま、ひらひらと軽く手を上げた。
「……うう、本当に疲れたぁ」
そう返しながら、椅子のフカフカとしたクッションに体重を預けると、どっと全身の力が抜ける。
カイジくんの通う進学校はここから少し離れた隣町にあるみたいで、まだ到着していない。
「みんなの制服姿、なんか新鮮」
「それな」
平日の昼前という時間帯もあってか、お客さんは誰もいないみたい。
店内にはゆったりとしたクラシック音楽が流れ、インテリアは落ち着いた雰囲気で統一されていて、なんだか心地良い空間だ。
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