花咲く森のから騒ぎ
3
「マイラ!」
過去についてツラツラと思い返しているとケイティがヒステリックに告げた。
「あんたもいらっしゃいよ! チェルシーと、あんたの今後について一緒に話し合いましょう!」
実は、生前の叔母は私の面倒も見るつもりでいたのである。
『マイラ、うちに来て暮らさない? チェルシーもケイティも、あなたのこと心配しているのよ』
何度か、そんなことを言われたけれど、私は都会で暮らしたくないからここにいる。
ケイティは、若い娘がこんな辺鄙な所に一人で住むべきではないと思っているので、私を説得する気で別荘に呼んだのだろう。
チェルシーとケイティは二頭立ての馬車に乗って前を進んでいる。
私も一緒に馬車に乗るように言われたけれど断ったのだ。
ケイテイ達の姉妹喧嘩のキンキンした言い争いを聞きたくないんだもの。
それに、久しぶりに会ったジョシュアの近況も知りたくて、ジョシュアの愛馬に一緒に乗ることにした。
「マイラ、ちゃんとつかまっていろよ」
彼の腰に手をまわしながらも妙な気分になる。ジョシュアって、こんなに肩幅が広かったかしら? こんなリーダーシップをとるような人だったかしら。
おばぁちゃんのことを、『ばばぁ』と呼んでいた時のジョシュアに戻ったみたいに見える。
「マイラと乗馬するなんて久しぶりだな。おまえの黒髪は艶々していて綺麗だな」
「ありがとう。そんなこと言ってくれるのは、あなただけよ」
「マイラ……」
私に対して、彼は、何か言いたげに振り向こうとしたけれど、その時、前方にお屋敷の門柱が見えてきた。私は、思わず目を輝かせて道の向こうの景色を指差した。
「お花が満開ね! 綺麗ね!」
アルベール公爵の御屋敷に今は誰も住んでいない。季節を彩る花々が見事に咲き誇っている。私達は、ちょうど柵沿いの小路を進んでいたのだ。ジョシュアが言った。
「公爵様の屋敷を見ようぜ」
私は近くに住んでいるけど中に入ったことはない。管理人に見学料を払えば一階のギャラリーを見せてくれるという。王都の宮殿も、たまに民衆に公開しているらしい。といっても、入館料を払わなければならないらしい。
でも、私は、そういう事にお金を使った事がない。
勿忘草。それが、アルベール家の紋章である。正面玄関から貴族の館に入るなんて想像したこともなかった。しかし、ジョシュアは何度かここに来ているらしい。
「ここのギャラリーに素敵な絵があるんだよ」
ジョシュアに手を引かれて玄関ホールを歩いている。私は、大理石の床や煌びやかなシャンデリアに目を奪われた。すごいわ。窓も大きい。
「すっごぉーい。別世界だわ!」
応接室のテーブルが特に素晴らしかった。黒檀に貴石や貝殻が細かく嵌め込まれている。絵画、彫像、タペストリー。立派な衝立や銀の燭台。どこもかしこも、壮麗な調度品で溢れている。
「クッションが金糸で飾られているのね。綺麗だわ」
鼈甲の飾り扇子が。翡翠の宝石箱もある。貴族ってやっぱり違うのねと感動した。
「アルベール公爵様は、今でも、村人から慕われているのよね……」
「だが、十四年前に公爵が本を出版したことで王から目をつけられたんだよ」
王は宮殿の庭を改装する事に国費を費やしており国庫は枯渇寸前だった。アルベール公爵様は財務報告書を出版した。それによって収支のすべてが暴露されることになった。
国庫の危機を知った国民は怒り狂った。アルベール公爵は貴族にも税を課そうと提案した。だけど、それが、アルベール公爵を窮地に陥れる結果になったという訳なのだ。
ジョシュアは遠い昔の出来事を振り返るようにして呟いている。
「財務大臣だった公爵は負債を食い止めようとしていたんだ」
絶対王政の構造に問題点がある。
「王様が一人で政治を行うことにはリスクを伴う。廷臣の意見も取り入れるべきなのだが、当時の王はアルベール公爵の言葉を煩わしいと感じていたのさ」
しかも、アルベール公爵は立憲君主制を導入しようとする貴族と交流していたのである。それ故に、謀反の疑いをかけられてしまう。
『アルベール公爵はどこだ』
私達がジョシュアと出会った十二年前の夏、憲兵達が村にやって来た。王家への謀反の疑いで公爵は捕まった。領土も財産も没収された。
憲兵が探し回っていると、数日後、なぜか、アルベール公爵は鶏小屋に身を潜めているところを発見されたのである。
『ピヨピヨ』
公爵は鳥の鳴き真似をして惚けていたというのだから、みんな、ぶったまげたようである。
投獄されたアルベール公爵は、なぜか鳥の言葉しか話せなくなっていたのである。まさか、アルベール様も赤の森に入ったのだろうか。
あの森に入った者には呪いがかかることを公爵様も知っているはずなのに……。
いや、知っているからこそ逃げ込んだのかもしれない。
ジョシュアが、アルベール様の肖像画の前でしみじみと呟いている。
「大きな声では言えないけど、アルベール公爵様のような人が王様なら良かったんだけどな」
「ヘンリー王は、今、お体の具合が悪くて伏せてるのよね」
「ああ、王が弱ってるのをいい事に、地方の貴族どもは農民達に高い税を課してるようだぜ。王が死んだら、後を継ぐのは王子だが、あいつじゃ頼りにならない」
「だけど、革命でもしない限り王政は続くわよ」
「そうなんだよな。隣国のように革命をしたところで、新しく権力を握った奴が暴利を貪ったら意味が無い」
隣国では血生臭い抗争の末に共和国が生まれたのだが、権力を握った貴族が軍部を牛耳って、敵対する貴族を粛清したのだ。
結局は、新たな権力者が王のように我侭に振舞っているだけだもの。そんな革命ならしない方がマシというものだ。
「本当は、とても賢い王が強権をふるって、税収の改革をしてくれるのが一番いいわ。この村の徴税官は、まぁまぁいい人だから助かってるの。わたしは葦を納めているんだけど刈り取るのが大変なのよ」
森番の仕事だけでは食べて生けないので、副業として、葦を狩ったり、薬草を積んだりしているのだ。時には、羊の毛刈りを手伝いに行く事もある。
「まぁ、今のところ、何とかやってるわ。ケイティ達が小麦や芋を送ってくれるから、ほんとうに助かってるの」
なぜか、少し哀しげに目を絞るようにして私を見つめ始めた。
「おまえ、相変わらず痩せてるな。去年、ばぁちゃんが死んだ時、うちで暮せよって言ったのに。なんで来なかったんだよ。森での生活は寂しくないのか?」
私は肩をすくめる。
「わたし、都会での生活が苦手なの。何をすればいいのか分からないわ」
「捨て子の俺が何不自由なく暮しているのにさ、マイラが森で苦労しているなんておかしいよ」
「ううん。何もおかしくないわよ。こう見えて幸せよ。それにしても、しばらく見ないうちに大きくなったわね。チェルシーとはよく会ってたけど、あなたは寄宿学校にいたものね」
前は、私と同じくらいの背丈だったのに、たった四年で別人のように高身長になっている。しかも、骨格が逞しくなっていて精悍そのものだ。
「ガキの頃は、おまえが俺を見下ろしていたもんな。色々と屈辱的だったぜ」
「えっ、屈辱?」
「心は男なのに女の子扱いされていたからな」
ニヤリと笑う。その口許がちょっと色っぽくて、何だか、見知らぬ殿方と会話しているみたいな気持ちになり、急に照れ臭くなってきた。おかしいわ。どぎまぎしてしまっている。でも、そんな私の動揺など知らない彼は楽しげに話している。
「この人が第十七代アルベール公爵様の奥様のイヴォンヌ様だよ」
「とても綺麗な方ね。特に目元が愛らしいわ!」
アルべール公爵は謀反の罪で殺されたのだが、王族と縁の深い美しいイヴォンヌ様は公爵と離婚することを条件に恩赦を受けている。
そして、イヴォンヌヘンリー王の公式寵妃となり、娘のアンを産んでいるのだ。
獄中のアルベール公爵は妻が王のものになったことさえ分からず、鳥のように腕を羽ばたかせて惚けていたようだが、投獄された四年後に亡くなっている。
「アルベール様の御一家がいなくなった後も、ここは綺麗に保たれているのね」
「ここはイヴォンヌ様の持ち物として登録されているからな。イヴォンヌ様が亡き後はアン王女の私財となったようだ」
主がいない館だというのに、サロンのテーブルに置かれた花瓶には季節を彩る色とりどりの花が綺麗に生けられている。
「王の妻が亡くなった後、正式に後妻となったのよね。でも、本当は結婚したくなかったでしょうね」
これは、あくまでも噂だが、どうしてもイヴォンヌと結婚したかった王は妻を毒殺したというふうに囁かれている。
「だが、結婚すればアンは王女として認められるから、結婚するしかなかったのさ」
そんな話をしていると、私達の背後に人が来た。管理人の女性は丸顔の穏やかな雰囲気の御婦人だった。
「あのう……、お茶をお持ちしましょうか?」
「いや、もう帰るよ。マイラも腹ペコだろう?」
「そう言えば、朝から何も食べてないわね」
「マイラ、おまえ、今日は腹いっぱい食えよ。御馳走を用意してあるぜ」
言いながら、優しい目で笑いながら手を引いてくれている。
「さぁ、行こうぜ」
☆
半時間ほどかけて馬で移動すると辿り着く。先刻のアルベール邸に比べると規模が小さいが、この別荘も綺麗で立派で調度品も上品だ。これは、叔母と叔父が生きていた頃に建てられたものである。
貧しい村娘だった叔母の出世ぶりを村人達に知らしめる為に、わざわざ、この村に建てたらしい。いかにも叔母らしいエピソードだ。
おばぁちゃんは、若い頃に夫を亡くして苦労している。本当は、ここでおばぁちゃんが暮らせるようにと願っていたのだが、おばぁちゃんは住み慣れた小屋での生活を好んだのである。
実は、あたしも、この館の管理人をしてくれと頼まれたけれど断っている。だって、ここの管理人は子持ちの寡婦で、ここでの住み込みの仕事がなくなると、彼等が困るんだもの。
ダイニングテーブルの席に着くなり、ジョシュアが勧めてきた。
「さぁ、マイラ、どんどん食ってくれ」
樫の木のテーブルの上に素朴で温かみのある家庭料理がズラリと並べられている。
「鴨のコンフィは私の大好物よ。とても美味しい」
気の毒な事に、ケイテイは偏頭痛のせいで鎮痛剤を飲んで休んでいるという。
「ねぇ、あなた達はどうなってるの? まるで本当に入れ替わったみたいに見えるんだけど」
やけに男らしくなったジョシュア。やけに女々しくなったチェルシー。
私が視線を向けると二人は神妙な面持ちで頷き合った。すると、チェルシーが訥々と語り出した。
「あたしは昨日までジョシュアだったの。でも、また魂が入れ替わったの」
半信半疑の状態のまま、二人を交互に見つめ返しているとジョシュアが言った。
「マイラ、赤の森に行こうぜ! 説明してやるよ」
「駄目よ。鳥の年には絶対に入ってはいけないのよ」
「平気よ。マイラお姉ちゃんも一緒に森に行きましょう。赤い花の樹の下に行けば、すべてが分かるわ」
チェルシーが熱心にこちらを見つめている。
ジュシュアも、私を説得しようとしているみたいだ。
「ていうか、そこに行かない限り、おまえは何を聞いても信じないさ。真実が知りたいのなら、騙されたと思ってついて来いよ」
そこまで言われると見に行くしかない。私達は馬に乗って移動することにした。鬱蒼とした森はどこかしら不気味な空気が立ちこめている。私は一人なら絶対にこんな所に来ないわ。チェルシーが大木を見上げている
「見て……。ここが七色の鳥の聖地なのよ」
昼間でも、この森は薄暗い。ボォーッと鳥肌が立ちそうになる。幻想的な光景だった。蝋燭に照らされた神秘の樹の枝に大粒の赤い花が咲き乱れている。
「十二年前、夕刻、七色の鳥が樹に帰ってきた。あたしとジョシュアはパンを分け合って飢えをしのいだの。その時、鳥がパンを狙って襲ってきたの。あたしは驚いてジョシュアに抱きついたの。その時、どさっと倒れて、偶然、唇が触れたの」
予想外の展開に言葉をなくしていると、チェルシーが私の頬に手を当てて顔を引き寄せてきた。そのまま、大胆に自分の唇で私の唇を塞いでしまったのだ。
えっ、何なの。
身体の中で未知なる光りが炸裂しているような、そんな感覚が弾けている。
「うそっ。そんな、馬鹿な……」
私は、膝をついた。次の瞬間、目の前の景色が変わった。
「この手……」
水仕事を知らない手。これは、誰の手? 私はハッとなる。なんで目の前に私自身が立っているの。どういうこと?
私そっくりの、黒髪の貧しげな娘がこちらを見つめて微笑んでいる。
「分かったでしょう? こうやって入れ替わったのよ。子供の頃は理屈が分からなかったの。だけど、今は分かる。花が満開になると魔法が使えるのよ」
「俺は、前からこのカラクリに気付いていたぜ。実践することが出来るのは十二年に一度だけだ。口に触れることで魂が移る。今度は俺とやってみるか?」
「なななななっ! 何を言うのよ!」
「マイラ、照れすぎだぜ」
「いいから、わたしを元に戻してよ」
元に戻りたいのに、近寄ろうとしたらチェルシーが頑なに首を振った。
「あたしには好きな人がいるの。寄宿学校で知り合った少尉が好きなの。あたしを助けて、あたしは王子の愛人になりたくない」
ムキになってチェルシーが絶叫している。といっても、その顔は、私なんだけどね……
「あたし、男の子として暮らしている間、ずっと夢見ていたのよ。普通の女の子として静かに暮らしたい! 昔、人さらいに遭ったことがあったわよね。あの時と同じよ! あたしは、王子に連れ去られるなんて嫌なのよ!」
「はぁ?」
いくらなんでも、公式寵姫の件と人さらいを一緒にしてはいけないだろう。
誘拐事件なんてずいぶんと前のことだわ。今となっては懐かしいぐらいよ。
あの当時、異国の貴族が自分の領土での働き手を必要としていた。だから、ならず者が誘拐まがいのことをして、ちいさな男の子を連れ去る事件が頻発していたようである。
ここから五十里ほど離れた町では十人もの子供が一晩で消えているという。
遠い夏の日。私は十三歳だった。チェルシーとジョシュアの三人で川遊びに出かけたのである。
私は木登り。ジョシュアは花摘み。チェルシーは釣りをしていた。
あの時、泣き虫で内気なジョシュアはルンルンと鼻歌を口ずさんでいた。その姿はまるで女の子のように愛らしかった。一人で花冠を編んでいたジョシュアを強引に荷馬車に乗せようとした男がいたのである。
『ほほう、こいつは高く売れそうだな』
ジョシュアの口を塞ぐと恐ろしげな声で脅かしていた。
『おい、坊主、大声を出すな。おとなくしねぇと、てめぇの顔をぶん殴るぞ』
三十路の赤毛の男が、そんなふうに怒鳴り散らしながらジョシュアの身体を縄で縛り上げている。
木の上からそれを見ていた私は、すぐさま夢中になって駆け出していた。
『やめなさいよ! ジョシュアを放しなさいよ!』
あの時は私も必死だった。十三歳の子供だったのだけれど大人相手に闘って何とか追い払おうとしたのだ。
『おまえも可愛い顔しているな! 売春宿に売り飛ばしてやるぜ』
私は棒切れを振り回して抵抗する。その最中、私は転んで腕を骨折した。痛みに顔をしかめながらも、ジョシュアを救おうとして歯を食いしばる。
『ふふっ、おめぇが、おとなしくしねぇから悪いんだぜ』
『マイラに手を出すな!』
その時、小川で釣りをしていたチェルシーが、すぐさま駆け寄った。怖い顔で相手を睨みつけると腕を振り上げた。
『これでも喰らえ』
チェルシーが投石すると、顔に命中した。男は、額を押さえたまま悪人は呻き声を上げて痛みに悶絶した。その男の股間をチェルシーは蹴りあげた。
『……ぐほっ。このクソガキ!』
悪人は、それでも歯を剥き出しにして襲いかかろうとする。しかし、その時、バルモア家の下男がやって来たのである。
大人に見付かっては太刀打ちできないと判断したようである。
悪人は土手に停めていた馬車を飛ばしてと消えていった。
『マイラ! 大丈夫か!』
チェルシーは、転んだ私の傷の手当てをしながら悔しそうに呟いた。私とジョシュアは抱き合って泣いていた。私は怖くて足に力が入らなかった。涙が止まらなくなるくらいに震えていた。
あの時、ジョシュアの中味はチェルシーで、私を助けようと奮闘してくれたチェルシーはジョシュアだったのね。
「あの時だって、チェルシーを救ったのはジョシュアなのよ! わたしは無力だわ」
私は、ジョシュアに訴えていく。
「ジョシュア! 王子が惚れたのはジョシュアの心を持つチェルシーなのよ。あなたじゃないと王子に対応できないわよ」
すると、ジョシュアは重々しく頷いたのだ。
「そうなんだよ。こうなったのは全て俺の責任なんだ。チェルシーの外見と俺の知性の組み合わせって奇跡の賜物なんだよ。類まれな魅力が王子を虜にしたのさ」
「こんな時に、よくも、そんな自慢が出来るわね! わたしはね、王子がどんな人なのかも知らないのよ。チェルシーもそうよ!」
「そのことだけどな、一応、考えたんだ。俺が、王子の前でチェルシーと抱き合えばいいんじゃないのかな?」
「なっ! なんですって! 二人は義理の兄妹なのよ! そんなの不謹慎だわ」
「いやいや、たから、そういうフリをするだけだ。血がつながらない兄妹が、いつのまにか結ばれていたっていうことにしておけば、王子の周囲の者達が反対するんじゃないかな」
「そんなことをして、王子の怒りをかったらどうするのよ!」
「心配ないさ。あの王子は残酷なことはしないよ。父親のヘンリーとは違う。それは保証する」
言いながら、ジョシュアがこちらに手を伸ばして私の頬を撫でた。いや、正確にはチェルシーの顔だ。ふざけて口付けの真似事をしようとしている。鼻先が迫る。と、その時、人の気配がして、ガサッゴソッという草を踏みしめる音がした。
「見つけたわよ。あんた達、みんな揃ってここにいたのね!」
キーンと響く声だ。振り向かなくてもケイテイが、怖い顔で目を吊り上げているのか分かる。
「チェルシー、あんた、ジョシュアと付き合っているのね。だから、王子のもとに行く事を拒むのね!」
ケイティと下男のテイラーがジョシュアを見据えていた。これはマズイ。
「やめて! 乱暴なことはしないで!」
そう言ったけれども遅かった。ジョシュアは、使用人の男によって顔を殴られていたのである。
「ジョシュア! お。おまえ! なんということを! 大切なお嬢様を誘惑しようなんて、なんと恩知らずな奴なのじゃ!」
生真面目で忠実な初老の下男のテイラースが本気で怒っている。私も、ケイティに平手打ちされて頬に赤みが走った。
「チェルシー、あんた、恥を知りなさい!」
「おい、やめろよ。そいつは悪くない」
ジョシュアは鼻血を出しながら気丈に立ち上がっている。
「ケイティ、その娘はチェルシーじゃなくてマイラなんよだ」
「訳の分からないことを言わないでよ」
私は仲裁するかのように割り込み、ケイティを睨んだ。
「ケイティ、何も、そんなふうにいきなり殴らなくてもいいじゃないの。これには訳があるのよ。わたしはマイラよ」
決して悪い人ではないけれど、ケイティは少し短気なところがある。
「チェルシー、また人格を変えたのね! 頭がおかしいフリをすれば宮廷に行かなくて済むと思っているのね!」
ケイティは怒り心頭である。
「もう騙されないわよ!」
「ケイティ様、少しは落ち着いてくださいまし。チェルシー様は子供の頃の事故のせいで混乱しておいでなのかもしれません。ここは呪いの森ですぞ。早く出ましょう」
信仰深くて律儀な白髪のテイラーが声を潜めながら周囲を窺っている。ケイティはまるで睨むような表情で言い放った。
「馬鹿な娘をきっちり叱るのは姉としての義務だわ。チェルシー! 二度と、こんなことしたら許さないからね!」
「ここを離れる訳にはいかないのよ……。だって、わたしは……」
私とチェルシーの魂は入れ替わったままなのだと説明したい。それなのに、ジョシュアは目を細めている。言うなという顔なのね。
分かったと、私は目で合図する。そして、仕方なくバルモア家の湖畔の別荘に戻ったのだ。罰として、ジョシュアだけが地下室に閉じ込められている。
チェルシーはマイラ(つまり、わたし)の身体なので、マイラとして二階の部屋に籠っている。
私は、扉の向こうにいるジョシュアに話しかけた。
「ジョシュア、わたし、こっそり鍵を盗んでこようか?」
「やめとけ。テイラーは頑固なじじぃだ。股間に鍵を隠している。それを、おまえが盗むなんて無理だ」
ふうーっと疲れたように溜息をついている。
「どうするの? わたし、チェルシーだと思われているのよ」
「チェルシーの身体は今まで俺が管理してきたんだ。色んな男の子から求愛されて大変だったぜ。こんな綺麗な女の子、めったにいないからな」
「そうよ。チェルシーは美人よ。言われなくても分かっているわ」
「王子の愛情を冷まさせる妙案があれば苦労はしない。俺にとって、チェルシーは大切な家族だ。巻き込んで申し訳ないと思っている」
ジョシュアも切羽詰ったように言う。
「誰も傷つけることなく、すべてを丸く治める方法をみつけたいもんだな」
過去についてツラツラと思い返しているとケイティがヒステリックに告げた。
「あんたもいらっしゃいよ! チェルシーと、あんたの今後について一緒に話し合いましょう!」
実は、生前の叔母は私の面倒も見るつもりでいたのである。
『マイラ、うちに来て暮らさない? チェルシーもケイティも、あなたのこと心配しているのよ』
何度か、そんなことを言われたけれど、私は都会で暮らしたくないからここにいる。
ケイティは、若い娘がこんな辺鄙な所に一人で住むべきではないと思っているので、私を説得する気で別荘に呼んだのだろう。
チェルシーとケイティは二頭立ての馬車に乗って前を進んでいる。
私も一緒に馬車に乗るように言われたけれど断ったのだ。
ケイテイ達の姉妹喧嘩のキンキンした言い争いを聞きたくないんだもの。
それに、久しぶりに会ったジョシュアの近況も知りたくて、ジョシュアの愛馬に一緒に乗ることにした。
「マイラ、ちゃんとつかまっていろよ」
彼の腰に手をまわしながらも妙な気分になる。ジョシュアって、こんなに肩幅が広かったかしら? こんなリーダーシップをとるような人だったかしら。
おばぁちゃんのことを、『ばばぁ』と呼んでいた時のジョシュアに戻ったみたいに見える。
「マイラと乗馬するなんて久しぶりだな。おまえの黒髪は艶々していて綺麗だな」
「ありがとう。そんなこと言ってくれるのは、あなただけよ」
「マイラ……」
私に対して、彼は、何か言いたげに振り向こうとしたけれど、その時、前方にお屋敷の門柱が見えてきた。私は、思わず目を輝かせて道の向こうの景色を指差した。
「お花が満開ね! 綺麗ね!」
アルベール公爵の御屋敷に今は誰も住んでいない。季節を彩る花々が見事に咲き誇っている。私達は、ちょうど柵沿いの小路を進んでいたのだ。ジョシュアが言った。
「公爵様の屋敷を見ようぜ」
私は近くに住んでいるけど中に入ったことはない。管理人に見学料を払えば一階のギャラリーを見せてくれるという。王都の宮殿も、たまに民衆に公開しているらしい。といっても、入館料を払わなければならないらしい。
でも、私は、そういう事にお金を使った事がない。
勿忘草。それが、アルベール家の紋章である。正面玄関から貴族の館に入るなんて想像したこともなかった。しかし、ジョシュアは何度かここに来ているらしい。
「ここのギャラリーに素敵な絵があるんだよ」
ジョシュアに手を引かれて玄関ホールを歩いている。私は、大理石の床や煌びやかなシャンデリアに目を奪われた。すごいわ。窓も大きい。
「すっごぉーい。別世界だわ!」
応接室のテーブルが特に素晴らしかった。黒檀に貴石や貝殻が細かく嵌め込まれている。絵画、彫像、タペストリー。立派な衝立や銀の燭台。どこもかしこも、壮麗な調度品で溢れている。
「クッションが金糸で飾られているのね。綺麗だわ」
鼈甲の飾り扇子が。翡翠の宝石箱もある。貴族ってやっぱり違うのねと感動した。
「アルベール公爵様は、今でも、村人から慕われているのよね……」
「だが、十四年前に公爵が本を出版したことで王から目をつけられたんだよ」
王は宮殿の庭を改装する事に国費を費やしており国庫は枯渇寸前だった。アルベール公爵様は財務報告書を出版した。それによって収支のすべてが暴露されることになった。
国庫の危機を知った国民は怒り狂った。アルベール公爵は貴族にも税を課そうと提案した。だけど、それが、アルベール公爵を窮地に陥れる結果になったという訳なのだ。
ジョシュアは遠い昔の出来事を振り返るようにして呟いている。
「財務大臣だった公爵は負債を食い止めようとしていたんだ」
絶対王政の構造に問題点がある。
「王様が一人で政治を行うことにはリスクを伴う。廷臣の意見も取り入れるべきなのだが、当時の王はアルベール公爵の言葉を煩わしいと感じていたのさ」
しかも、アルベール公爵は立憲君主制を導入しようとする貴族と交流していたのである。それ故に、謀反の疑いをかけられてしまう。
『アルベール公爵はどこだ』
私達がジョシュアと出会った十二年前の夏、憲兵達が村にやって来た。王家への謀反の疑いで公爵は捕まった。領土も財産も没収された。
憲兵が探し回っていると、数日後、なぜか、アルベール公爵は鶏小屋に身を潜めているところを発見されたのである。
『ピヨピヨ』
公爵は鳥の鳴き真似をして惚けていたというのだから、みんな、ぶったまげたようである。
投獄されたアルベール公爵は、なぜか鳥の言葉しか話せなくなっていたのである。まさか、アルベール様も赤の森に入ったのだろうか。
あの森に入った者には呪いがかかることを公爵様も知っているはずなのに……。
いや、知っているからこそ逃げ込んだのかもしれない。
ジョシュアが、アルベール様の肖像画の前でしみじみと呟いている。
「大きな声では言えないけど、アルベール公爵様のような人が王様なら良かったんだけどな」
「ヘンリー王は、今、お体の具合が悪くて伏せてるのよね」
「ああ、王が弱ってるのをいい事に、地方の貴族どもは農民達に高い税を課してるようだぜ。王が死んだら、後を継ぐのは王子だが、あいつじゃ頼りにならない」
「だけど、革命でもしない限り王政は続くわよ」
「そうなんだよな。隣国のように革命をしたところで、新しく権力を握った奴が暴利を貪ったら意味が無い」
隣国では血生臭い抗争の末に共和国が生まれたのだが、権力を握った貴族が軍部を牛耳って、敵対する貴族を粛清したのだ。
結局は、新たな権力者が王のように我侭に振舞っているだけだもの。そんな革命ならしない方がマシというものだ。
「本当は、とても賢い王が強権をふるって、税収の改革をしてくれるのが一番いいわ。この村の徴税官は、まぁまぁいい人だから助かってるの。わたしは葦を納めているんだけど刈り取るのが大変なのよ」
森番の仕事だけでは食べて生けないので、副業として、葦を狩ったり、薬草を積んだりしているのだ。時には、羊の毛刈りを手伝いに行く事もある。
「まぁ、今のところ、何とかやってるわ。ケイティ達が小麦や芋を送ってくれるから、ほんとうに助かってるの」
なぜか、少し哀しげに目を絞るようにして私を見つめ始めた。
「おまえ、相変わらず痩せてるな。去年、ばぁちゃんが死んだ時、うちで暮せよって言ったのに。なんで来なかったんだよ。森での生活は寂しくないのか?」
私は肩をすくめる。
「わたし、都会での生活が苦手なの。何をすればいいのか分からないわ」
「捨て子の俺が何不自由なく暮しているのにさ、マイラが森で苦労しているなんておかしいよ」
「ううん。何もおかしくないわよ。こう見えて幸せよ。それにしても、しばらく見ないうちに大きくなったわね。チェルシーとはよく会ってたけど、あなたは寄宿学校にいたものね」
前は、私と同じくらいの背丈だったのに、たった四年で別人のように高身長になっている。しかも、骨格が逞しくなっていて精悍そのものだ。
「ガキの頃は、おまえが俺を見下ろしていたもんな。色々と屈辱的だったぜ」
「えっ、屈辱?」
「心は男なのに女の子扱いされていたからな」
ニヤリと笑う。その口許がちょっと色っぽくて、何だか、見知らぬ殿方と会話しているみたいな気持ちになり、急に照れ臭くなってきた。おかしいわ。どぎまぎしてしまっている。でも、そんな私の動揺など知らない彼は楽しげに話している。
「この人が第十七代アルベール公爵様の奥様のイヴォンヌ様だよ」
「とても綺麗な方ね。特に目元が愛らしいわ!」
アルべール公爵は謀反の罪で殺されたのだが、王族と縁の深い美しいイヴォンヌ様は公爵と離婚することを条件に恩赦を受けている。
そして、イヴォンヌヘンリー王の公式寵妃となり、娘のアンを産んでいるのだ。
獄中のアルベール公爵は妻が王のものになったことさえ分からず、鳥のように腕を羽ばたかせて惚けていたようだが、投獄された四年後に亡くなっている。
「アルベール様の御一家がいなくなった後も、ここは綺麗に保たれているのね」
「ここはイヴォンヌ様の持ち物として登録されているからな。イヴォンヌ様が亡き後はアン王女の私財となったようだ」
主がいない館だというのに、サロンのテーブルに置かれた花瓶には季節を彩る色とりどりの花が綺麗に生けられている。
「王の妻が亡くなった後、正式に後妻となったのよね。でも、本当は結婚したくなかったでしょうね」
これは、あくまでも噂だが、どうしてもイヴォンヌと結婚したかった王は妻を毒殺したというふうに囁かれている。
「だが、結婚すればアンは王女として認められるから、結婚するしかなかったのさ」
そんな話をしていると、私達の背後に人が来た。管理人の女性は丸顔の穏やかな雰囲気の御婦人だった。
「あのう……、お茶をお持ちしましょうか?」
「いや、もう帰るよ。マイラも腹ペコだろう?」
「そう言えば、朝から何も食べてないわね」
「マイラ、おまえ、今日は腹いっぱい食えよ。御馳走を用意してあるぜ」
言いながら、優しい目で笑いながら手を引いてくれている。
「さぁ、行こうぜ」
☆
半時間ほどかけて馬で移動すると辿り着く。先刻のアルベール邸に比べると規模が小さいが、この別荘も綺麗で立派で調度品も上品だ。これは、叔母と叔父が生きていた頃に建てられたものである。
貧しい村娘だった叔母の出世ぶりを村人達に知らしめる為に、わざわざ、この村に建てたらしい。いかにも叔母らしいエピソードだ。
おばぁちゃんは、若い頃に夫を亡くして苦労している。本当は、ここでおばぁちゃんが暮らせるようにと願っていたのだが、おばぁちゃんは住み慣れた小屋での生活を好んだのである。
実は、あたしも、この館の管理人をしてくれと頼まれたけれど断っている。だって、ここの管理人は子持ちの寡婦で、ここでの住み込みの仕事がなくなると、彼等が困るんだもの。
ダイニングテーブルの席に着くなり、ジョシュアが勧めてきた。
「さぁ、マイラ、どんどん食ってくれ」
樫の木のテーブルの上に素朴で温かみのある家庭料理がズラリと並べられている。
「鴨のコンフィは私の大好物よ。とても美味しい」
気の毒な事に、ケイテイは偏頭痛のせいで鎮痛剤を飲んで休んでいるという。
「ねぇ、あなた達はどうなってるの? まるで本当に入れ替わったみたいに見えるんだけど」
やけに男らしくなったジョシュア。やけに女々しくなったチェルシー。
私が視線を向けると二人は神妙な面持ちで頷き合った。すると、チェルシーが訥々と語り出した。
「あたしは昨日までジョシュアだったの。でも、また魂が入れ替わったの」
半信半疑の状態のまま、二人を交互に見つめ返しているとジョシュアが言った。
「マイラ、赤の森に行こうぜ! 説明してやるよ」
「駄目よ。鳥の年には絶対に入ってはいけないのよ」
「平気よ。マイラお姉ちゃんも一緒に森に行きましょう。赤い花の樹の下に行けば、すべてが分かるわ」
チェルシーが熱心にこちらを見つめている。
ジュシュアも、私を説得しようとしているみたいだ。
「ていうか、そこに行かない限り、おまえは何を聞いても信じないさ。真実が知りたいのなら、騙されたと思ってついて来いよ」
そこまで言われると見に行くしかない。私達は馬に乗って移動することにした。鬱蒼とした森はどこかしら不気味な空気が立ちこめている。私は一人なら絶対にこんな所に来ないわ。チェルシーが大木を見上げている
「見て……。ここが七色の鳥の聖地なのよ」
昼間でも、この森は薄暗い。ボォーッと鳥肌が立ちそうになる。幻想的な光景だった。蝋燭に照らされた神秘の樹の枝に大粒の赤い花が咲き乱れている。
「十二年前、夕刻、七色の鳥が樹に帰ってきた。あたしとジョシュアはパンを分け合って飢えをしのいだの。その時、鳥がパンを狙って襲ってきたの。あたしは驚いてジョシュアに抱きついたの。その時、どさっと倒れて、偶然、唇が触れたの」
予想外の展開に言葉をなくしていると、チェルシーが私の頬に手を当てて顔を引き寄せてきた。そのまま、大胆に自分の唇で私の唇を塞いでしまったのだ。
えっ、何なの。
身体の中で未知なる光りが炸裂しているような、そんな感覚が弾けている。
「うそっ。そんな、馬鹿な……」
私は、膝をついた。次の瞬間、目の前の景色が変わった。
「この手……」
水仕事を知らない手。これは、誰の手? 私はハッとなる。なんで目の前に私自身が立っているの。どういうこと?
私そっくりの、黒髪の貧しげな娘がこちらを見つめて微笑んでいる。
「分かったでしょう? こうやって入れ替わったのよ。子供の頃は理屈が分からなかったの。だけど、今は分かる。花が満開になると魔法が使えるのよ」
「俺は、前からこのカラクリに気付いていたぜ。実践することが出来るのは十二年に一度だけだ。口に触れることで魂が移る。今度は俺とやってみるか?」
「なななななっ! 何を言うのよ!」
「マイラ、照れすぎだぜ」
「いいから、わたしを元に戻してよ」
元に戻りたいのに、近寄ろうとしたらチェルシーが頑なに首を振った。
「あたしには好きな人がいるの。寄宿学校で知り合った少尉が好きなの。あたしを助けて、あたしは王子の愛人になりたくない」
ムキになってチェルシーが絶叫している。といっても、その顔は、私なんだけどね……
「あたし、男の子として暮らしている間、ずっと夢見ていたのよ。普通の女の子として静かに暮らしたい! 昔、人さらいに遭ったことがあったわよね。あの時と同じよ! あたしは、王子に連れ去られるなんて嫌なのよ!」
「はぁ?」
いくらなんでも、公式寵姫の件と人さらいを一緒にしてはいけないだろう。
誘拐事件なんてずいぶんと前のことだわ。今となっては懐かしいぐらいよ。
あの当時、異国の貴族が自分の領土での働き手を必要としていた。だから、ならず者が誘拐まがいのことをして、ちいさな男の子を連れ去る事件が頻発していたようである。
ここから五十里ほど離れた町では十人もの子供が一晩で消えているという。
遠い夏の日。私は十三歳だった。チェルシーとジョシュアの三人で川遊びに出かけたのである。
私は木登り。ジョシュアは花摘み。チェルシーは釣りをしていた。
あの時、泣き虫で内気なジョシュアはルンルンと鼻歌を口ずさんでいた。その姿はまるで女の子のように愛らしかった。一人で花冠を編んでいたジョシュアを強引に荷馬車に乗せようとした男がいたのである。
『ほほう、こいつは高く売れそうだな』
ジョシュアの口を塞ぐと恐ろしげな声で脅かしていた。
『おい、坊主、大声を出すな。おとなくしねぇと、てめぇの顔をぶん殴るぞ』
三十路の赤毛の男が、そんなふうに怒鳴り散らしながらジョシュアの身体を縄で縛り上げている。
木の上からそれを見ていた私は、すぐさま夢中になって駆け出していた。
『やめなさいよ! ジョシュアを放しなさいよ!』
あの時は私も必死だった。十三歳の子供だったのだけれど大人相手に闘って何とか追い払おうとしたのだ。
『おまえも可愛い顔しているな! 売春宿に売り飛ばしてやるぜ』
私は棒切れを振り回して抵抗する。その最中、私は転んで腕を骨折した。痛みに顔をしかめながらも、ジョシュアを救おうとして歯を食いしばる。
『ふふっ、おめぇが、おとなしくしねぇから悪いんだぜ』
『マイラに手を出すな!』
その時、小川で釣りをしていたチェルシーが、すぐさま駆け寄った。怖い顔で相手を睨みつけると腕を振り上げた。
『これでも喰らえ』
チェルシーが投石すると、顔に命中した。男は、額を押さえたまま悪人は呻き声を上げて痛みに悶絶した。その男の股間をチェルシーは蹴りあげた。
『……ぐほっ。このクソガキ!』
悪人は、それでも歯を剥き出しにして襲いかかろうとする。しかし、その時、バルモア家の下男がやって来たのである。
大人に見付かっては太刀打ちできないと判断したようである。
悪人は土手に停めていた馬車を飛ばしてと消えていった。
『マイラ! 大丈夫か!』
チェルシーは、転んだ私の傷の手当てをしながら悔しそうに呟いた。私とジョシュアは抱き合って泣いていた。私は怖くて足に力が入らなかった。涙が止まらなくなるくらいに震えていた。
あの時、ジョシュアの中味はチェルシーで、私を助けようと奮闘してくれたチェルシーはジョシュアだったのね。
「あの時だって、チェルシーを救ったのはジョシュアなのよ! わたしは無力だわ」
私は、ジョシュアに訴えていく。
「ジョシュア! 王子が惚れたのはジョシュアの心を持つチェルシーなのよ。あなたじゃないと王子に対応できないわよ」
すると、ジョシュアは重々しく頷いたのだ。
「そうなんだよ。こうなったのは全て俺の責任なんだ。チェルシーの外見と俺の知性の組み合わせって奇跡の賜物なんだよ。類まれな魅力が王子を虜にしたのさ」
「こんな時に、よくも、そんな自慢が出来るわね! わたしはね、王子がどんな人なのかも知らないのよ。チェルシーもそうよ!」
「そのことだけどな、一応、考えたんだ。俺が、王子の前でチェルシーと抱き合えばいいんじゃないのかな?」
「なっ! なんですって! 二人は義理の兄妹なのよ! そんなの不謹慎だわ」
「いやいや、たから、そういうフリをするだけだ。血がつながらない兄妹が、いつのまにか結ばれていたっていうことにしておけば、王子の周囲の者達が反対するんじゃないかな」
「そんなことをして、王子の怒りをかったらどうするのよ!」
「心配ないさ。あの王子は残酷なことはしないよ。父親のヘンリーとは違う。それは保証する」
言いながら、ジョシュアがこちらに手を伸ばして私の頬を撫でた。いや、正確にはチェルシーの顔だ。ふざけて口付けの真似事をしようとしている。鼻先が迫る。と、その時、人の気配がして、ガサッゴソッという草を踏みしめる音がした。
「見つけたわよ。あんた達、みんな揃ってここにいたのね!」
キーンと響く声だ。振り向かなくてもケイテイが、怖い顔で目を吊り上げているのか分かる。
「チェルシー、あんた、ジョシュアと付き合っているのね。だから、王子のもとに行く事を拒むのね!」
ケイティと下男のテイラーがジョシュアを見据えていた。これはマズイ。
「やめて! 乱暴なことはしないで!」
そう言ったけれども遅かった。ジョシュアは、使用人の男によって顔を殴られていたのである。
「ジョシュア! お。おまえ! なんということを! 大切なお嬢様を誘惑しようなんて、なんと恩知らずな奴なのじゃ!」
生真面目で忠実な初老の下男のテイラースが本気で怒っている。私も、ケイティに平手打ちされて頬に赤みが走った。
「チェルシー、あんた、恥を知りなさい!」
「おい、やめろよ。そいつは悪くない」
ジョシュアは鼻血を出しながら気丈に立ち上がっている。
「ケイティ、その娘はチェルシーじゃなくてマイラなんよだ」
「訳の分からないことを言わないでよ」
私は仲裁するかのように割り込み、ケイティを睨んだ。
「ケイティ、何も、そんなふうにいきなり殴らなくてもいいじゃないの。これには訳があるのよ。わたしはマイラよ」
決して悪い人ではないけれど、ケイティは少し短気なところがある。
「チェルシー、また人格を変えたのね! 頭がおかしいフリをすれば宮廷に行かなくて済むと思っているのね!」
ケイティは怒り心頭である。
「もう騙されないわよ!」
「ケイティ様、少しは落ち着いてくださいまし。チェルシー様は子供の頃の事故のせいで混乱しておいでなのかもしれません。ここは呪いの森ですぞ。早く出ましょう」
信仰深くて律儀な白髪のテイラーが声を潜めながら周囲を窺っている。ケイティはまるで睨むような表情で言い放った。
「馬鹿な娘をきっちり叱るのは姉としての義務だわ。チェルシー! 二度と、こんなことしたら許さないからね!」
「ここを離れる訳にはいかないのよ……。だって、わたしは……」
私とチェルシーの魂は入れ替わったままなのだと説明したい。それなのに、ジョシュアは目を細めている。言うなという顔なのね。
分かったと、私は目で合図する。そして、仕方なくバルモア家の湖畔の別荘に戻ったのだ。罰として、ジョシュアだけが地下室に閉じ込められている。
チェルシーはマイラ(つまり、わたし)の身体なので、マイラとして二階の部屋に籠っている。
私は、扉の向こうにいるジョシュアに話しかけた。
「ジョシュア、わたし、こっそり鍵を盗んでこようか?」
「やめとけ。テイラーは頑固なじじぃだ。股間に鍵を隠している。それを、おまえが盗むなんて無理だ」
ふうーっと疲れたように溜息をついている。
「どうするの? わたし、チェルシーだと思われているのよ」
「チェルシーの身体は今まで俺が管理してきたんだ。色んな男の子から求愛されて大変だったぜ。こんな綺麗な女の子、めったにいないからな」
「そうよ。チェルシーは美人よ。言われなくても分かっているわ」
「王子の愛情を冷まさせる妙案があれば苦労はしない。俺にとって、チェルシーは大切な家族だ。巻き込んで申し訳ないと思っている」
ジョシュアも切羽詰ったように言う。
「誰も傷つけることなく、すべてを丸く治める方法をみつけたいもんだな」