あなたがいるから世界は美しい
第十章
うだるように暑い夏も終わろうとしている。街を行く人達の装いも変化している。
九月の中旬に入った。今のところ、寧々と鈴木蓮との関係に進展はない。棚部さんはゲーム会社の内定をもらっている。それで、今は卒論を書くことに集中している。
こないだ、こんなことがあった。ブスッとしたように鈴木蓮が寧々に手渡してきたのだ。
『棚部さん、就職について冷静に考えられたと言ってくれた安曇に感謝している。これは、そのお礼だそうだ』
『あたしから渡せと?』
『オレからあいつに渡すのか?』
『いえ、これは秘書としてあたしが渡します』
という事で、寧々は給湯室にいる友則に声をかけると小さな紙袋を差し出した。
「これ、棚部さんから友則にお礼の品だってさ。手作りのクッキーだそうたよ」
コーヒーを飲んでいた友則は、すぐさまポリポリと頬ばりながら笑った。
「えーー。別にいいのにさぁ。つーか、まじ美味いわ。なんつーか、あの娘、ちょっと変わってるよな? なんで、オレみたいなおっさんに会いたがるのかな?」
鈴木蓮が言うには、棚部さんはガタイのいい元気な男が好きらしい。
『棚部さんが、安曇に惚れたりしたらやっかいだな。安曇、バツイチで子持ちだからな。でも、棚部さん、オレに安曇のことを色々と聞いてくるんだよ。マジで参ったよ』
『そうですか』
寧々の目から見ても、棚部さんは友則にかなり興味があるように見える。そんな棚部さんの行動を鈴木蓮は気にしている。やっぱり、棚部さんのことが好きなのかもしれない。
『今の友則は、新しい恋や出会いに目を向ける余裕なんてないと思いますよ』
とまぁ、今朝、こんな会話を鈴木蓮としたのだが……。友則は、離婚が成立しても親権に関して色々と揉めている。
友則はクッキーを頬ばるとハーッと嘆息した。
「実は、オレ、嫁さん、募集中なんだ。親権をとるには、奥さんがいる方がいいらしいんだわ」
「言っとくけど、あたしは無理だからね」
「それは分かってるけど……。ああーーー。小鳥と暮らすにはどうすればいいのかなぁ。離婚の原因は向こうにあるっていうのに、あっちはオレの不貞を捏造する気でいるんだぞ」
寧々は、それは大変だねと相槌を打つ。
「ちょっと、やだ……」
この時、総務の二十代の女子社員が見ていたのである。
『安曇さん、羽生さんのこと口説いてるってば』
『安曇っち、離婚したばかりなんだよね』
同僚には報告しているので、もう、みんな知っている。
『羽生さんのせいで夫婦関係が破綻したのかな?』
『元カノだもの。略奪されたものを取り返したんじゃない?』
『あたし、椿の同級生なんだあたし、椿のこと嫌いだから、ちょっと清々したわ。年上の女に略奪されたって、言いふらしてやろうかな』
椿の同級生の女子社員は秘かに寧々と友則のツーショットを撮るとニヤリと笑ったのだ。
※
その頃、友則の元嫁の椿は荒れていた。スマホを握り締めたまま舌打ちする。
午後一時。椿はネットフリックスのドラマを見終えていて何もすることがなくて苛々していた。
『何なのよ……』
椿は、友則と離婚するつもりなんてなかった。それなのに、向こうから記入済みの離婚届を送られてきたのだ。
ムカついたので無視していると、椿の母が勝手に記入して友則に送った為に、いつのまにか、書類上は離婚が成立している。
別居してから、何度か友則に会おうとしたけれど、向こうは会いたくない一点張り。
『羽生寧々……。あいつ、友則と寄りを戻す為に出戻って来たの?』
先刻、総務の愛奈が動画を送ってきた。
友則と、あの女が並んでお茶を飲んでいる。愛奈の報告によると、手作りのクッキーの入った包みを渡していたらしい。あの女、ばばぁの癖して美人だから余計にムカつく。
いつも、ダーリンは自分とあの女を比べる。実際に言葉に出したことはないけれど、お料理を出した時や、掃除している時、友則は誰かと比べてガッカリしていた。
それでも、新婚の頃は好きな人と暮らせるだけで嬉しかった。
だけど、小鳥が幼稚園に行く頃から、だんだんとしんどくなってきた。
『椿、おまえ、なんで普通のことが出来ないんだよ? 洗濯物を夕刻に入れる。そんなことも出来ないのかよ?』
『いちいち洗濯物を取りにいくのが面倒だよ、乾燥機でいいじゃん』
そう言うと、ダーリンはすごく不機嫌になる。ていうか、ダーリンと呼ばれる事も彼は嫌がっていた。でも、友則と呼ぶのは何だか嫌。
『雨の時は仕方ないけどさ、衣類が傷むだろう。それに、電気代もかかるんだぜ』
『そんなの、あたしが払うよ』
『おまえ、働いてないのに、どうやって払うんだよ』
『実家に言えばいいの。あたしの家って家賃収入、けっこうあるんだ』
『だからって、おまえ、無駄遣いするなよ。いや、おまえの家の金はおまえが自由に使えばいいが、小鳥にシャネルのワンピースなんて着せるな』
『なんでーーー。幼稚園で他の子にマウントとれるのに~』
『そんな自慢しても何になる。そんなことしなくても、小鳥は賢い。勉強も出来るし、とてもいい子だ。おまえも少しは小鳥を見習えよ』
ダーリンは、すぐに小鳥のことを褒める。
(あたしが、一緒にお風呂に入ろうと言っても断る癖に小鳥とは入るじゃん……)
いつも小鳥の髪をドライヤーで乾かしていた。
(何なのよ。いつも、小鳥のことばっかり愛してたね。あたしのことなんて、ずっと無関心だったよね)
それなのに、椿が浮気をしたと知った時、あいつは椿を冷ややかに睨んだ。
『馬鹿だと思ってたけど、まさか、そこまで馬鹿だとは思わなかった』
ダーリンは、そう言うと荷物をまとめて出て行った。
(あたしもマンションを解約して実家に戻ったら、すんごく住み心地良くて、友則のこと、後回しにしちゃったんだよね)
椿の母は、娘が夫と別居して戻って来たことを歓迎していたのだ。
あの広い家に一人で暮らす事に飽き飽きしていたのか、孫二人と娘の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれた。
小鳥の制服のアイロンがけも、もうしなくていい。そんなもの、クリーニング屋に持って行けばいい。
仕事で遅くなるダーリンの帰りを待ってウトウトする事もない。
だけど、離れて暮らしていると、やっぱり思うのだ。ダーリンと燃えるようなエッチをしたい。確かに浮気はしたけれど、ホストのガリガリの体なんかに興味はない。
椿は、見るからに頑丈そうなイケメンが好きなのだ。オスのオーラに薙ぎ倒されるようなセックスがしたい。
(初めてダーリンを見た時、運命の人だと思った。だから、あたし、猛烈にアピールしたんだよ)
あの時も、あの女を憎んだ。あの女から奪い取れた時は天にも昇る気持ちだった。
(ダーリンとエッチして三人目を作れば、きっと元通りになるんだから……)
いつか、ほとぼりが醒めたら会いに行くつもりだった。だけど、ダーリンの会社にあの女がいる。ダーリンは、あの女に夢中のようだ。
(あの女と再婚なんて、絶対に許さないんだから)
何としても、あの女と友則に楔を打ってやる。
椿は、前にスクショしておいた画面を見つめながら決意していた。
まだ離婚する前に、友則はあの女を家に連れ込んでいた。それを世間では不倫という。
(あたしの不倫を責めた癖にダーリンもやってるじゃん。ズルイよ。あたしは謝らない。だってそうでしょう。これでイーブンじゃん)
それにしても、あの女、妻でもないのに小鳥に御飯を作って食べさせたりしてムカつく。
小鳥から、どんな女だったのかと聞いたらこう言っていた。
優しくて綺麗。ハンバーグ、今まで食べた中で一番美味しかった。こう言いやがったのだ。自分の娘でなければ足で蹴飛ばしていただろう。
『クソッ。料理が出来るのがそんなに偉いのかよ』
この屈辱を晴らさなければ気が済まない。
※
またしても友則は寧々に泣きついてきた。小鳥ちゃんとは、なかなか会えないというのである。
「もうオレに会わせないって言うんだよ」
元嫁も意地になっているらしい。
「向こうは、最強弁護士を用意するって息巻いてる。オレの給料じゃ、弁護士なんて頼めないし、参ったよ。オレは諦めたくない。根気強く椿を説得するしかない。でも、忙しくてさぁ、あいつの実家まで行く暇もないんだよなぁ」
そんな事を言いながら、棚部さんとビデオ通話のやりとりをしているというのである。
どんな相手ともスッと親しくなるタイプだが、さすがに、この展開には驚いてしまう。
棚部さんは鈴木蓮のことを好きなのかと思っていたけれど、どうも、そうでもないようだ。
かといって、友則に恋をしているという感じでもないようだ。
とりあえず、棚部さんは友則を恩人として敬愛しているようである。
「あっ、それでさ、こないだ、棚部さんの知り合いを紹介してもらって助かったんだ。営業のノルマを達成できてホツとしたよ」
いわゆる紹介営業は飛び込み営業やテレアポよりも成功率は高い。
「オレ、最近、営業成績が落ちていてさぁ、なんでかなって悩んでたら、棚部さんが、すごくいい事を教えてくれたんだ」
女性の客は、買い物に物語を必要としている。製品の良さより、妄想や夢を含ませるべきなのだと棚部さんは教えてくれたという。
「気付かなかったんだけど、若い頃のオレの成績が良かったのは、オレが愛想のいいイケメンだったからなんだってさ」
しかし、最近の友則は家庭の事で余裕をなくしており、対面する人達のどうでもいい話を受け止める度量も無くなっている。
「なんで、顧客から契約の継続を断られるのか、わかんなくて悩んでたんだわ」
そしたら、棚部さんが分析してくれたというのである。
「棚部さんの話を聞いて反省したわ。タブレットやスマホの画面に指紋なんてつけてたら、それだけでお洒落な女性はドン引きするらしい。契約書の角が折れているなんて問題外だそうだよ。いやぁ、そういうの、人に言われないと気付かないってのが、おっさんの証かもしれない。すんげぇ反省したよ。オレも、色々と世話になったし、あの子に何か贈った方がいいのかな」
「そうだね。なんか手土産を持って行った方がいいかもしれないね。でも、部屋に直接行くのはやめときなよ」
「おっ、おまえ、妬いてんのか?」
「違うよ。棚部さんみたいな若い子のところにオジさんが顔を出すべきじゃないって事だよ。郵送すればいいんだよ」
「おっさんか……。おまえに言われると切ないな。でも、オレも四捨五入したら四十だもんな。酔い潰れてしまった事を詫びなくちゃいけないな」
他にも、棚部さんは教えてくれたという。
「オレさ、あの子と話してて目から鱗が落ちた。女性は結論を急がせてはいけない。商品の説明や情報を伝えることよりも、客の話を聞けってさ。女性は、たくさん自分のことを気にかけてくれる人から買いたい。イケメンでなくてもいいから、清潔感と溌剌とした態度と笑顔を忘れるなって教わったんだ。そういえば、最近のオレ、清潔感もなくなってたなぁと思って反省したよ。あの子のアドバイスは効くわ」
友則も鈴木蓮と同じように棚部さんの事を尊敬しているようである。
寧々も、おお、なるほどと思った。
『女性は心地良い接客をされると衝動的に買い物をする傾向がある。私だけを見て想ってくれる人から買いたい』
『とにかく女性の顧客を主役にして話す』
そういう消費者の心理さえも友則に伝授してくれたらしい。寧々は感心した。
(やっぱり、マーケティングって大事なんだわ)
週末、友則は大阪へ出張する。部長の代わりに契約をまとめることになった。大阪で一泊するのだが、どうやら、その事を小鳥ちゃんは知らなかったらしい。
そのせいで、ちょっとした事件が起きてしまうのだ。
☆
それは九月末の金曜の午後だった、
鈴木蓮の執務室でプリントアウトした資料の整理をしていると受付の女子がら連絡が来た。その声が不安げに揺らいでいる。
「あの、すぐに受付まで来ていただけますか」
「どうされました?」
「安曇さんのお嬢さんが来ているんです。あの子、泣いてます。パパと電話が繋がらないって……。わたしも電話をかけてみたんですけど繋がらないんです」
「出張先のホテルに連絡してみましたか?」
「はい。ついさっき、チェックインして外に出たようです。営業しているんですけど、どこにいるのか分からないんですよ。安曇さんは、いつも、すぐに電話に出るタイプだから、すごく不思議で……」
友則は明日まで大阪にいる。
パパと会えなくて涙顔になっている。帰った方がいいよと言っても帰りたくないと言い、寧々の名前を出したというのである。
『寧々お姉さんはどこにいますか。会わせて下さい』
それで、こうして、寧々は小鳥ちゃんと対面しているのだが、それにしても驚いた。
「お父さんに内緒で来ちゃったの?」
友則がこの事を知っていたなら、寧々に小鳥ちゃんに頼むと連絡しているはずである。
「あのね、このことをママには話したの?」
すると、小鳥ちゃんは目に涙を溜めたまま俯いた。
「言ってません。ママね、すごく怒ってるの。おばぁちゃんが勝手に離婚届を書いたって言って悲しんでるの。それでね、おばぁちゃん、二度と、あたしとパパは会わせないって言うの。あたし、パパに会いたいの。パパと暮らしたい。でも、いつまでたっても迎えに来てくれないのはどうして?」
友則がこの子を手放す訳がない。しかし、長い間、離れて暮らしていると、この子もどうなるのか不安なのだろう。
「小鳥ちゃんのパパ、土日はお仕事なんだ」
「でも、パパの声を聞きたいよ。夏休み、ずっと待ってたのに会えなかったの。ママがスマホからパパの番号を消しちゃったの。小鳥、番号を忘れちゃったからかけられないの。おはぁちゃんがドラマを見ている時間にパパからの電話がかかってきていたのに、最近は電話してくれないの。小鳥のこと嫌いになったのかな」
いや、それはないだろう。友則も営業の仕事をしているので、そのドラマの時間とやらに話せないのかもしれない。
(とにかく、送り届けなくちゃ)
小鳥ちゃんを家まで連れて行ってあげたいが、友則の元嫁とは会いたくない。友則の母に連絡して小鳥ちゃんを送ってもらおうと考えて電話をかけてみると申し訳無さそうに言った。
「あらぁ、寧々ちゃんなのね。久しぶりだね。ごめんね。あたしね、知覧にいるのよ。婦人会の旅行なのよ」
知覧。つまり鹿児島にいるという。これでは埒が開かない。
(友則、なんで、こんな時に電話が繋がらないのよ)
繋がらない。会社のロビーでどうしようかと迷っていると、ちょうど帰還してきた鈴木蓮が近寄ってきたのである。
「羽生さん。どうしたんですか? この女の子は誰ですか?」
「あっ、こちらは安曇さんのお子さんです。父親に会おうとしてここまで来たそうなんです。しかし、彼は出張中でして、あたしが、この子を送り届けたらいいんですが、あたしが行くのもどうかと……」
「なるほど。事情は分かりました。うちの従業員のお子さんです。僕が何とかしましょう」
この時の鈴木蓮の決断は早かった。
「駐車場で待っていて下さい。僕の車でこの子の家に向かいます。もちろん、この事を安曇さんの祖母に話して承諾を得られたらの話ですけどね」
改めて、寧々が友則の母親に確認をとると、受話器の向こうで弾んだような声が響いた。
「あら、やだ。御迷惑をかけてしまって申し訳ないわね。寧々ちゃん、ごめんなさいね。あの子ったら、なんで寧々ちゃんと結婚しなかったのかしらね。あら、でも、今は独身だものね。寧々ちゃん、友則のことをよろしく頼むわね」
どうやら、寧々と再婚すると勘違いしているようである。伝えずにはいられなかった。
「おばさん。ごめんなさい。あたしは友則とは復縁しません。他に好きな人がいます。友則にもそう言ってあります」
「あら、そうなのぉ……」
確かに、友則の母をお母さんと呼ぶ生活に憧れていた事もあるけれど、もうそれはない。
鈴木蓮の高級車に乗り込んだ。寧々と小鳥ちゃんは後部座席に座ってシートベルトを締めた。
急に予定を変更したのだ。移動の車の中で、寧々はスケジュールの調整に追われた。
「申し訳ありません。今夜の会食はキャンセルさせていただきます。鈴木が、風邪をひいたものですから。はい、まことにすみません」
鈴木蓮の体調不良という嘘をついて何とか誤魔化した。そして、ジェリーも運転手さんに頼むことにした。
「今夜、あたしの送迎は結構ですので、家にいるジェリーの御飯と散歩をお願いします。はい、いつも、本当にすみません」
これで、ようやく落ち着けると思っていたのだが、後部席の隣りの席に座っている小鳥ちゃんが涙ぐんでいる。寧々は小鳥ちゃんの肩を抱いた。
「お願い。泣かないでよ……」
親権を争っているママの椿さんに叱られる可能性は大きい。
「小鳥ちゃん、こんなことしちゃ駄目だよ。パパとママが心配するよ」
「……ごめんなさい」
しょんぼりしている。
そんな小鳥ちゃんの背中をさすってあげた。小鳥ちゃんは自宅の住所を言ってくれた。
駐車場に停めていた鈴木蓮の車がエントランスにやってきた。
助手席に座った寧々かカーナビに登録する。
小鳥ちゃんは後部席に座っていた。手にしてるスマホを見て何か書き込んでいるようだ。友則にメールしているのかもしれない。
海岸沿いの道路を走っていると、鈴木蓮が言った。
「そういえば、この辺りは昔は寂れた漁港だったんだよな……」
渋滞もなく順調に家へと近付いている。しかし、次第に寧々の気分が重たくなってきた。
(元カレの元嫁に会うなんて気が重いわ……)
寧々の気持ちは沈む一方である。しかし、鈴木蓮は懐かしそうに目を細めている。
「オレさ、灯台が好きなんだ。昔、小学生の頃にママと灯台が見えるホテルに泊まったことがあったなぁ。あのホテルは営業してるのかな。羽生さんは千葉に旅行したことありますか?」
「昔の彼氏と社用車で鎌倉デートをしたことがありますよ」
小鳥ちゃんを意識して他人行儀な会話を続けたのだが、当然、昔の彼は友則の事である。
「それはいけませんね。社用車を私用で使うなんて……。それで、そのデートは楽しかったんですか?」
「はい。楽しかったです」
これに関して嘘は言いたくない。あの頃は熱烈にラブラブだったのだ。
ハンドルを握る鈴木蓮が低い声で告げた。
「なるほど。楽しかったですか。それは何よりですね」
不服そうなオーラが出まくっている。その時、小鳥ちゃんが爆弾発言を落とした。
「あの、どうしたら、寧々お姉さんはパパのお嫁さんになってくれますか?」
キキーッ。車が乱暴に停車した。彼は、背後に気をとられて赤信号を見落としそうになったらしい。
「あ、すまない」
謝りながらも彼は寧々の答えを気にしている。寧々は小鳥ちゃんを見つめたまま静かな面持ちで伝えた。
「ううん。あたしは、あなたのパパのお嫁さんにはならないよ。ごめんね」
シュンとしたような顔で小鳥ちゃんは残念そうにしている。そして、大きな黒目がちな瞳を哀しみ色に変えながら引き絞るようにして呟いた。
「でもね、寧々お姉さんが新しいママになったら、パパと三人で暮らせるってパパが教えてくれたんだよ。小鳥、新しいママが欲しいの」
現状、親権をとるとしたら母親の方が断然有利だ。友則がシングルファーザーとして女の子を育てるのは、さすがにハードルが高い。
(そりゃ、新しい妻がいる方が友則には都合がいいよ)
しかし、寧々は友則と結婚するつもりはない。
椿さんの携帯に何度か小鳥ちゃんが電話をかけても繋がらなかった。でも、おばぁちゃんとは繋がったので、そちらに送り届けますと寧々が伝えると恐縮していた。
(椿さんって、どんな人なのかな……)
会いたくないが、こうなったら送り届けるしかない。
やがて、右手に湾岸が見えてきた。夕刻なので海辺にいる人達のシルエットがポトカードのように幻想的に見える。
この街には古いホテルや由緒ある旅館が集まっている。夏場は海水浴で賑わう。
やがて、高台へと入っていった。整然と高級な家が建っている。やがて、小鳥ちゃんの自宅が見えてきた。前方にある緑の屋根の二階建ての大きな家を指差している。
「ほら、あそこ。あれが、小鳥の家だよ」
海が一望できる高台にある鉄筋コンクリートの一戸建ての大きな白い壁の家が見えてきたのだが……。胸がキュンと痛くなり尻込みしたくなる。
(元カレの元嫁の実家なんて魔窟みたいなもんだよ。あたしにとっては鬼門だわ)
でも、その魔窟に行かない訳にもいかない。
九月の中旬に入った。今のところ、寧々と鈴木蓮との関係に進展はない。棚部さんはゲーム会社の内定をもらっている。それで、今は卒論を書くことに集中している。
こないだ、こんなことがあった。ブスッとしたように鈴木蓮が寧々に手渡してきたのだ。
『棚部さん、就職について冷静に考えられたと言ってくれた安曇に感謝している。これは、そのお礼だそうだ』
『あたしから渡せと?』
『オレからあいつに渡すのか?』
『いえ、これは秘書としてあたしが渡します』
という事で、寧々は給湯室にいる友則に声をかけると小さな紙袋を差し出した。
「これ、棚部さんから友則にお礼の品だってさ。手作りのクッキーだそうたよ」
コーヒーを飲んでいた友則は、すぐさまポリポリと頬ばりながら笑った。
「えーー。別にいいのにさぁ。つーか、まじ美味いわ。なんつーか、あの娘、ちょっと変わってるよな? なんで、オレみたいなおっさんに会いたがるのかな?」
鈴木蓮が言うには、棚部さんはガタイのいい元気な男が好きらしい。
『棚部さんが、安曇に惚れたりしたらやっかいだな。安曇、バツイチで子持ちだからな。でも、棚部さん、オレに安曇のことを色々と聞いてくるんだよ。マジで参ったよ』
『そうですか』
寧々の目から見ても、棚部さんは友則にかなり興味があるように見える。そんな棚部さんの行動を鈴木蓮は気にしている。やっぱり、棚部さんのことが好きなのかもしれない。
『今の友則は、新しい恋や出会いに目を向ける余裕なんてないと思いますよ』
とまぁ、今朝、こんな会話を鈴木蓮としたのだが……。友則は、離婚が成立しても親権に関して色々と揉めている。
友則はクッキーを頬ばるとハーッと嘆息した。
「実は、オレ、嫁さん、募集中なんだ。親権をとるには、奥さんがいる方がいいらしいんだわ」
「言っとくけど、あたしは無理だからね」
「それは分かってるけど……。ああーーー。小鳥と暮らすにはどうすればいいのかなぁ。離婚の原因は向こうにあるっていうのに、あっちはオレの不貞を捏造する気でいるんだぞ」
寧々は、それは大変だねと相槌を打つ。
「ちょっと、やだ……」
この時、総務の二十代の女子社員が見ていたのである。
『安曇さん、羽生さんのこと口説いてるってば』
『安曇っち、離婚したばかりなんだよね』
同僚には報告しているので、もう、みんな知っている。
『羽生さんのせいで夫婦関係が破綻したのかな?』
『元カノだもの。略奪されたものを取り返したんじゃない?』
『あたし、椿の同級生なんだあたし、椿のこと嫌いだから、ちょっと清々したわ。年上の女に略奪されたって、言いふらしてやろうかな』
椿の同級生の女子社員は秘かに寧々と友則のツーショットを撮るとニヤリと笑ったのだ。
※
その頃、友則の元嫁の椿は荒れていた。スマホを握り締めたまま舌打ちする。
午後一時。椿はネットフリックスのドラマを見終えていて何もすることがなくて苛々していた。
『何なのよ……』
椿は、友則と離婚するつもりなんてなかった。それなのに、向こうから記入済みの離婚届を送られてきたのだ。
ムカついたので無視していると、椿の母が勝手に記入して友則に送った為に、いつのまにか、書類上は離婚が成立している。
別居してから、何度か友則に会おうとしたけれど、向こうは会いたくない一点張り。
『羽生寧々……。あいつ、友則と寄りを戻す為に出戻って来たの?』
先刻、総務の愛奈が動画を送ってきた。
友則と、あの女が並んでお茶を飲んでいる。愛奈の報告によると、手作りのクッキーの入った包みを渡していたらしい。あの女、ばばぁの癖して美人だから余計にムカつく。
いつも、ダーリンは自分とあの女を比べる。実際に言葉に出したことはないけれど、お料理を出した時や、掃除している時、友則は誰かと比べてガッカリしていた。
それでも、新婚の頃は好きな人と暮らせるだけで嬉しかった。
だけど、小鳥が幼稚園に行く頃から、だんだんとしんどくなってきた。
『椿、おまえ、なんで普通のことが出来ないんだよ? 洗濯物を夕刻に入れる。そんなことも出来ないのかよ?』
『いちいち洗濯物を取りにいくのが面倒だよ、乾燥機でいいじゃん』
そう言うと、ダーリンはすごく不機嫌になる。ていうか、ダーリンと呼ばれる事も彼は嫌がっていた。でも、友則と呼ぶのは何だか嫌。
『雨の時は仕方ないけどさ、衣類が傷むだろう。それに、電気代もかかるんだぜ』
『そんなの、あたしが払うよ』
『おまえ、働いてないのに、どうやって払うんだよ』
『実家に言えばいいの。あたしの家って家賃収入、けっこうあるんだ』
『だからって、おまえ、無駄遣いするなよ。いや、おまえの家の金はおまえが自由に使えばいいが、小鳥にシャネルのワンピースなんて着せるな』
『なんでーーー。幼稚園で他の子にマウントとれるのに~』
『そんな自慢しても何になる。そんなことしなくても、小鳥は賢い。勉強も出来るし、とてもいい子だ。おまえも少しは小鳥を見習えよ』
ダーリンは、すぐに小鳥のことを褒める。
(あたしが、一緒にお風呂に入ろうと言っても断る癖に小鳥とは入るじゃん……)
いつも小鳥の髪をドライヤーで乾かしていた。
(何なのよ。いつも、小鳥のことばっかり愛してたね。あたしのことなんて、ずっと無関心だったよね)
それなのに、椿が浮気をしたと知った時、あいつは椿を冷ややかに睨んだ。
『馬鹿だと思ってたけど、まさか、そこまで馬鹿だとは思わなかった』
ダーリンは、そう言うと荷物をまとめて出て行った。
(あたしもマンションを解約して実家に戻ったら、すんごく住み心地良くて、友則のこと、後回しにしちゃったんだよね)
椿の母は、娘が夫と別居して戻って来たことを歓迎していたのだ。
あの広い家に一人で暮らす事に飽き飽きしていたのか、孫二人と娘の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれた。
小鳥の制服のアイロンがけも、もうしなくていい。そんなもの、クリーニング屋に持って行けばいい。
仕事で遅くなるダーリンの帰りを待ってウトウトする事もない。
だけど、離れて暮らしていると、やっぱり思うのだ。ダーリンと燃えるようなエッチをしたい。確かに浮気はしたけれど、ホストのガリガリの体なんかに興味はない。
椿は、見るからに頑丈そうなイケメンが好きなのだ。オスのオーラに薙ぎ倒されるようなセックスがしたい。
(初めてダーリンを見た時、運命の人だと思った。だから、あたし、猛烈にアピールしたんだよ)
あの時も、あの女を憎んだ。あの女から奪い取れた時は天にも昇る気持ちだった。
(ダーリンとエッチして三人目を作れば、きっと元通りになるんだから……)
いつか、ほとぼりが醒めたら会いに行くつもりだった。だけど、ダーリンの会社にあの女がいる。ダーリンは、あの女に夢中のようだ。
(あの女と再婚なんて、絶対に許さないんだから)
何としても、あの女と友則に楔を打ってやる。
椿は、前にスクショしておいた画面を見つめながら決意していた。
まだ離婚する前に、友則はあの女を家に連れ込んでいた。それを世間では不倫という。
(あたしの不倫を責めた癖にダーリンもやってるじゃん。ズルイよ。あたしは謝らない。だってそうでしょう。これでイーブンじゃん)
それにしても、あの女、妻でもないのに小鳥に御飯を作って食べさせたりしてムカつく。
小鳥から、どんな女だったのかと聞いたらこう言っていた。
優しくて綺麗。ハンバーグ、今まで食べた中で一番美味しかった。こう言いやがったのだ。自分の娘でなければ足で蹴飛ばしていただろう。
『クソッ。料理が出来るのがそんなに偉いのかよ』
この屈辱を晴らさなければ気が済まない。
※
またしても友則は寧々に泣きついてきた。小鳥ちゃんとは、なかなか会えないというのである。
「もうオレに会わせないって言うんだよ」
元嫁も意地になっているらしい。
「向こうは、最強弁護士を用意するって息巻いてる。オレの給料じゃ、弁護士なんて頼めないし、参ったよ。オレは諦めたくない。根気強く椿を説得するしかない。でも、忙しくてさぁ、あいつの実家まで行く暇もないんだよなぁ」
そんな事を言いながら、棚部さんとビデオ通話のやりとりをしているというのである。
どんな相手ともスッと親しくなるタイプだが、さすがに、この展開には驚いてしまう。
棚部さんは鈴木蓮のことを好きなのかと思っていたけれど、どうも、そうでもないようだ。
かといって、友則に恋をしているという感じでもないようだ。
とりあえず、棚部さんは友則を恩人として敬愛しているようである。
「あっ、それでさ、こないだ、棚部さんの知り合いを紹介してもらって助かったんだ。営業のノルマを達成できてホツとしたよ」
いわゆる紹介営業は飛び込み営業やテレアポよりも成功率は高い。
「オレ、最近、営業成績が落ちていてさぁ、なんでかなって悩んでたら、棚部さんが、すごくいい事を教えてくれたんだ」
女性の客は、買い物に物語を必要としている。製品の良さより、妄想や夢を含ませるべきなのだと棚部さんは教えてくれたという。
「気付かなかったんだけど、若い頃のオレの成績が良かったのは、オレが愛想のいいイケメンだったからなんだってさ」
しかし、最近の友則は家庭の事で余裕をなくしており、対面する人達のどうでもいい話を受け止める度量も無くなっている。
「なんで、顧客から契約の継続を断られるのか、わかんなくて悩んでたんだわ」
そしたら、棚部さんが分析してくれたというのである。
「棚部さんの話を聞いて反省したわ。タブレットやスマホの画面に指紋なんてつけてたら、それだけでお洒落な女性はドン引きするらしい。契約書の角が折れているなんて問題外だそうだよ。いやぁ、そういうの、人に言われないと気付かないってのが、おっさんの証かもしれない。すんげぇ反省したよ。オレも、色々と世話になったし、あの子に何か贈った方がいいのかな」
「そうだね。なんか手土産を持って行った方がいいかもしれないね。でも、部屋に直接行くのはやめときなよ」
「おっ、おまえ、妬いてんのか?」
「違うよ。棚部さんみたいな若い子のところにオジさんが顔を出すべきじゃないって事だよ。郵送すればいいんだよ」
「おっさんか……。おまえに言われると切ないな。でも、オレも四捨五入したら四十だもんな。酔い潰れてしまった事を詫びなくちゃいけないな」
他にも、棚部さんは教えてくれたという。
「オレさ、あの子と話してて目から鱗が落ちた。女性は結論を急がせてはいけない。商品の説明や情報を伝えることよりも、客の話を聞けってさ。女性は、たくさん自分のことを気にかけてくれる人から買いたい。イケメンでなくてもいいから、清潔感と溌剌とした態度と笑顔を忘れるなって教わったんだ。そういえば、最近のオレ、清潔感もなくなってたなぁと思って反省したよ。あの子のアドバイスは効くわ」
友則も鈴木蓮と同じように棚部さんの事を尊敬しているようである。
寧々も、おお、なるほどと思った。
『女性は心地良い接客をされると衝動的に買い物をする傾向がある。私だけを見て想ってくれる人から買いたい』
『とにかく女性の顧客を主役にして話す』
そういう消費者の心理さえも友則に伝授してくれたらしい。寧々は感心した。
(やっぱり、マーケティングって大事なんだわ)
週末、友則は大阪へ出張する。部長の代わりに契約をまとめることになった。大阪で一泊するのだが、どうやら、その事を小鳥ちゃんは知らなかったらしい。
そのせいで、ちょっとした事件が起きてしまうのだ。
☆
それは九月末の金曜の午後だった、
鈴木蓮の執務室でプリントアウトした資料の整理をしていると受付の女子がら連絡が来た。その声が不安げに揺らいでいる。
「あの、すぐに受付まで来ていただけますか」
「どうされました?」
「安曇さんのお嬢さんが来ているんです。あの子、泣いてます。パパと電話が繋がらないって……。わたしも電話をかけてみたんですけど繋がらないんです」
「出張先のホテルに連絡してみましたか?」
「はい。ついさっき、チェックインして外に出たようです。営業しているんですけど、どこにいるのか分からないんですよ。安曇さんは、いつも、すぐに電話に出るタイプだから、すごく不思議で……」
友則は明日まで大阪にいる。
パパと会えなくて涙顔になっている。帰った方がいいよと言っても帰りたくないと言い、寧々の名前を出したというのである。
『寧々お姉さんはどこにいますか。会わせて下さい』
それで、こうして、寧々は小鳥ちゃんと対面しているのだが、それにしても驚いた。
「お父さんに内緒で来ちゃったの?」
友則がこの事を知っていたなら、寧々に小鳥ちゃんに頼むと連絡しているはずである。
「あのね、このことをママには話したの?」
すると、小鳥ちゃんは目に涙を溜めたまま俯いた。
「言ってません。ママね、すごく怒ってるの。おばぁちゃんが勝手に離婚届を書いたって言って悲しんでるの。それでね、おばぁちゃん、二度と、あたしとパパは会わせないって言うの。あたし、パパに会いたいの。パパと暮らしたい。でも、いつまでたっても迎えに来てくれないのはどうして?」
友則がこの子を手放す訳がない。しかし、長い間、離れて暮らしていると、この子もどうなるのか不安なのだろう。
「小鳥ちゃんのパパ、土日はお仕事なんだ」
「でも、パパの声を聞きたいよ。夏休み、ずっと待ってたのに会えなかったの。ママがスマホからパパの番号を消しちゃったの。小鳥、番号を忘れちゃったからかけられないの。おはぁちゃんがドラマを見ている時間にパパからの電話がかかってきていたのに、最近は電話してくれないの。小鳥のこと嫌いになったのかな」
いや、それはないだろう。友則も営業の仕事をしているので、そのドラマの時間とやらに話せないのかもしれない。
(とにかく、送り届けなくちゃ)
小鳥ちゃんを家まで連れて行ってあげたいが、友則の元嫁とは会いたくない。友則の母に連絡して小鳥ちゃんを送ってもらおうと考えて電話をかけてみると申し訳無さそうに言った。
「あらぁ、寧々ちゃんなのね。久しぶりだね。ごめんね。あたしね、知覧にいるのよ。婦人会の旅行なのよ」
知覧。つまり鹿児島にいるという。これでは埒が開かない。
(友則、なんで、こんな時に電話が繋がらないのよ)
繋がらない。会社のロビーでどうしようかと迷っていると、ちょうど帰還してきた鈴木蓮が近寄ってきたのである。
「羽生さん。どうしたんですか? この女の子は誰ですか?」
「あっ、こちらは安曇さんのお子さんです。父親に会おうとしてここまで来たそうなんです。しかし、彼は出張中でして、あたしが、この子を送り届けたらいいんですが、あたしが行くのもどうかと……」
「なるほど。事情は分かりました。うちの従業員のお子さんです。僕が何とかしましょう」
この時の鈴木蓮の決断は早かった。
「駐車場で待っていて下さい。僕の車でこの子の家に向かいます。もちろん、この事を安曇さんの祖母に話して承諾を得られたらの話ですけどね」
改めて、寧々が友則の母親に確認をとると、受話器の向こうで弾んだような声が響いた。
「あら、やだ。御迷惑をかけてしまって申し訳ないわね。寧々ちゃん、ごめんなさいね。あの子ったら、なんで寧々ちゃんと結婚しなかったのかしらね。あら、でも、今は独身だものね。寧々ちゃん、友則のことをよろしく頼むわね」
どうやら、寧々と再婚すると勘違いしているようである。伝えずにはいられなかった。
「おばさん。ごめんなさい。あたしは友則とは復縁しません。他に好きな人がいます。友則にもそう言ってあります」
「あら、そうなのぉ……」
確かに、友則の母をお母さんと呼ぶ生活に憧れていた事もあるけれど、もうそれはない。
鈴木蓮の高級車に乗り込んだ。寧々と小鳥ちゃんは後部座席に座ってシートベルトを締めた。
急に予定を変更したのだ。移動の車の中で、寧々はスケジュールの調整に追われた。
「申し訳ありません。今夜の会食はキャンセルさせていただきます。鈴木が、風邪をひいたものですから。はい、まことにすみません」
鈴木蓮の体調不良という嘘をついて何とか誤魔化した。そして、ジェリーも運転手さんに頼むことにした。
「今夜、あたしの送迎は結構ですので、家にいるジェリーの御飯と散歩をお願いします。はい、いつも、本当にすみません」
これで、ようやく落ち着けると思っていたのだが、後部席の隣りの席に座っている小鳥ちゃんが涙ぐんでいる。寧々は小鳥ちゃんの肩を抱いた。
「お願い。泣かないでよ……」
親権を争っているママの椿さんに叱られる可能性は大きい。
「小鳥ちゃん、こんなことしちゃ駄目だよ。パパとママが心配するよ」
「……ごめんなさい」
しょんぼりしている。
そんな小鳥ちゃんの背中をさすってあげた。小鳥ちゃんは自宅の住所を言ってくれた。
駐車場に停めていた鈴木蓮の車がエントランスにやってきた。
助手席に座った寧々かカーナビに登録する。
小鳥ちゃんは後部席に座っていた。手にしてるスマホを見て何か書き込んでいるようだ。友則にメールしているのかもしれない。
海岸沿いの道路を走っていると、鈴木蓮が言った。
「そういえば、この辺りは昔は寂れた漁港だったんだよな……」
渋滞もなく順調に家へと近付いている。しかし、次第に寧々の気分が重たくなってきた。
(元カレの元嫁に会うなんて気が重いわ……)
寧々の気持ちは沈む一方である。しかし、鈴木蓮は懐かしそうに目を細めている。
「オレさ、灯台が好きなんだ。昔、小学生の頃にママと灯台が見えるホテルに泊まったことがあったなぁ。あのホテルは営業してるのかな。羽生さんは千葉に旅行したことありますか?」
「昔の彼氏と社用車で鎌倉デートをしたことがありますよ」
小鳥ちゃんを意識して他人行儀な会話を続けたのだが、当然、昔の彼は友則の事である。
「それはいけませんね。社用車を私用で使うなんて……。それで、そのデートは楽しかったんですか?」
「はい。楽しかったです」
これに関して嘘は言いたくない。あの頃は熱烈にラブラブだったのだ。
ハンドルを握る鈴木蓮が低い声で告げた。
「なるほど。楽しかったですか。それは何よりですね」
不服そうなオーラが出まくっている。その時、小鳥ちゃんが爆弾発言を落とした。
「あの、どうしたら、寧々お姉さんはパパのお嫁さんになってくれますか?」
キキーッ。車が乱暴に停車した。彼は、背後に気をとられて赤信号を見落としそうになったらしい。
「あ、すまない」
謝りながらも彼は寧々の答えを気にしている。寧々は小鳥ちゃんを見つめたまま静かな面持ちで伝えた。
「ううん。あたしは、あなたのパパのお嫁さんにはならないよ。ごめんね」
シュンとしたような顔で小鳥ちゃんは残念そうにしている。そして、大きな黒目がちな瞳を哀しみ色に変えながら引き絞るようにして呟いた。
「でもね、寧々お姉さんが新しいママになったら、パパと三人で暮らせるってパパが教えてくれたんだよ。小鳥、新しいママが欲しいの」
現状、親権をとるとしたら母親の方が断然有利だ。友則がシングルファーザーとして女の子を育てるのは、さすがにハードルが高い。
(そりゃ、新しい妻がいる方が友則には都合がいいよ)
しかし、寧々は友則と結婚するつもりはない。
椿さんの携帯に何度か小鳥ちゃんが電話をかけても繋がらなかった。でも、おばぁちゃんとは繋がったので、そちらに送り届けますと寧々が伝えると恐縮していた。
(椿さんって、どんな人なのかな……)
会いたくないが、こうなったら送り届けるしかない。
やがて、右手に湾岸が見えてきた。夕刻なので海辺にいる人達のシルエットがポトカードのように幻想的に見える。
この街には古いホテルや由緒ある旅館が集まっている。夏場は海水浴で賑わう。
やがて、高台へと入っていった。整然と高級な家が建っている。やがて、小鳥ちゃんの自宅が見えてきた。前方にある緑の屋根の二階建ての大きな家を指差している。
「ほら、あそこ。あれが、小鳥の家だよ」
海が一望できる高台にある鉄筋コンクリートの一戸建ての大きな白い壁の家が見えてきたのだが……。胸がキュンと痛くなり尻込みしたくなる。
(元カレの元嫁の実家なんて魔窟みたいなもんだよ。あたしにとっては鬼門だわ)
でも、その魔窟に行かない訳にもいかない。