あなたがいるから世界は美しい

第九章

 あの日を境に座標が変わったような気がする。

 その数日後のお昼休み、友則とランチを食べることになった。昨夜のことで話したいと言うので時間を合わせて社員食堂に顔を出すと、泣き付くようにして訴えてきたのである。

「なぁ、聞いてくれよ。あの翌日、目が覚めたら、オレ、あの子の部屋のベッドで寝てたんだよ。オレ、あの娘の部屋に泊まったらしいんだよ。こえーよ」

「何が怖いの?」

 困惑の表情で首を振りながら、すがるように言う。

「記憶がないんだよ。オタオタしていたら、出汁巻き卵と味噌汁と麦飯と自家製の漬物の朝食を出してくれたんだけどな……。あの子はニコニコしていてさぁ、オレに向かって、あなたは恩人ですって言うんだ」

 スプーンを振り回して力説している。

「あの子が言うには、オレの後ろを歩いていた若い女の子のハンドバッグを引ったくる男がいたらしくてさ、オレが猛然とタックルをして、ハンドバッグを取り返したらしい、その際に、オレは躓いて血まみれになったんだとさ」

 友則の額には大きな絆創膏が貼られている。

「あの子の家が近くにあったから、額の傷を治療してくれたみたいなんだよ。夜中に、あの子に手を出してないか心配で……。元嫁の椿の時も記憶はなかったんだよなぁ」

「もしも、棚部さんと何かあっとしても、そんな事を、あたしに相談してどうするのよ!」

「おまえは彼女の知り合いだろう? オレさ、寧々を捨てた過去や副社長にジェラシーを燃やしている事もあの子に話したみたなんだよ」

「最低! あたしのプライバシーを垂れ流しにしないでよ」

「わりぃ。でも、あの子、吹聴するようなタイプじゃないと思うぞ。あの娘の部屋って、ボーイズラブの漫画がズラッと並んでいてさ、ちょっとビビった。でも、部屋は綺麗でいい匂いがした。台所も便所もすげぇ綺麗なんだ」

 やはり、棚部さんは女子力が高いらしい。

「なぁ、あの夜のオレの行動を確認してくれないか」

「それで、もしも、友則が手を出していたら、どうするつもりよ?」

「誠心誠意、謝罪するしかない……」

「独身同士なら、何か過ちがあっても話し合いで何とかなるよ」

「寧々、おまえ、オレとあの子と何かあっても平気なのか?」 

「いいよ」
 
 即答すると友則が拗ねた。

「それは冷たくないか……。まっ、しょうがないけどな」

 お昼休みを終えてデスクに戻ると、鈴木蓮が会社に戻ってきた。仏頂面のまま執務室から寧々を呼び出すと、怪訝な顔つきで尋ねてきたのだ。

「あんたの元カレは棚部さんに対して、どんな魔法を使ったんだ?」

「はぁ?」

 話が見えない。寧々が不思議そうに目を丸めていると、鈴木蓮はブスッとしたように告げた。

「昨日の深夜、棚部さんから連絡があった。親の為に結婚するのは辞めるって連絡してきたんだ。就職のことだけど、今からでも間に合いますかって問いかけられたから、もちろん、構わないって答えた。あんたの元カレに相談に乗ってもらって気が変わったって言うんだよ」

「その事なんですが……」

 友則が棚部さんの部屋に泊まった事まで話すと、不機嫌極まりない顔で頭を抱えた。

「なんで、ホイホイ泊めるんだよ! 安曇も安曇だ! あいつは妻帯者だろう」
 
「いえ、ですから、今は独身なんです」

「だからって、初対面の棚部さんの部屋に泊まったりして何を考えてんだよ……。色々とムカつく奴だな」

「そういう事はないと思いますよ。友則、朝、起きた時、ちゃんと服を着ていたそうですから……」

 友則は、全裸にならないと、そういうことが出来ないのだ。自宅にいる時はトイレの大をするのも全裸になってからだ。

「親切心で泊めたんだろうな、でも、やっぱり気に入らないな……」

 花嫁の父のようなしかめっ面になっている。友則への敵意をむき出しにするものだから、寧々の胸の奥に重たくなる。

「副社長は、棚部さんの事がお好きなんですね」

「ああ、好きだよ」
 
 当たり前だと言いたげな表情をしている。寧々が黙り込んでいると、鈴木蓮が口惜しそうに唇を噛み締めてから苦笑した。

「とにかく、棚部さんが就職する事になってホッとしたよ」

 寧々は唇を噛み締めていた。

(棚部さん事が好きなのかな)

 落ち着かないような、足元が揺らぐような気持ちになり焦る。どうしよう。棚部さんが、ゲーム会社に就職したら二人の距離はもっと近くなる。正真正銘の恋人同士になるかもしれない。そうなったら、自分はどうすればいいのだろう。

 そもそも、寧々は臨時の秘書に過ぎない。でも、ジェリーがいる限りは、あの家にいられる。

 だけど、ジェリーは老犬。あと一年か二年の寿命。

(ほんと、どうしよう……)

 帰宅して、ジェリーの散歩をしていても、ボーッとしたまま鈴木蓮のことを考えている。

 自分と彼は七歳も歳が離れている。多分、自分なんかより、棚部さんの方が色んな意味で彼に相応しい。

 ナイチンゲールのような気高さを持っている素敵な女性だ。寧々が男なら棚部さんみたいな娘に惹かれる。鈴木蓮も彼女といる方が幸せだ。

 でも、そんな事を思っただけで胸が張り裂けそうになる。

 悩んだせいだろうか。その翌日の土曜。うっかり、寝過ごしてしまった。といっても、通勤をする訳ではないので支障はなかったのだが……。

 ジェリーの御飯をあげるのを忘れてしまい、慌てて部屋から出て台所に入ると、そこにはパジャマ姿の鈴木蓮がいた。

「あっ、おはようございます」

 幸い、寧々は私服に着替えていた。スッピンだ。恥ずかしいけれども、席に座ると、彼が言ったのだ。

「ジェリーのごはんならオレがあげたよ。朝の散歩もしておいた」

「えっ、パジャマのまま散歩したんてすか?」

「私有地だ。誰も見てないから平気だ」

「そういう問題じゃなくて、マムシや薮蚊やマダニがいるんですよ。無防備な恰好でうろうろしないで下さい。何かあったら大変です」

「ああ、マダニの怖ろしさなら、じぃさんから聞いて。長靴も履いたよ。虫避けスプレーもしている」
 
「それならいいんですけど……」

 寧々が台所の時計を見ると、午前九時になろうとしていた。

「朝食は?」

「まだ食ってない。冷蔵庫のヨーグルトは食べた」
 
「それでしたら、ホットケーキを焼きますね。一緒にどうですか?」

「あんたのホットケーキは久しぶりだよな。あの時のようにフアフアに焼いてくれ」

 一緒に暮らしているけれど、朝食を一緒に食べるのは、今日で二度目だ。いそいそと作っていると、彼は、寧々の背中を見つめながらボソッと語った。

「昨日、改めて電話で棚部さんと詳しい事を話したんだよ」

「何を話されたんですか?」

「安曇は、棚部さんの本音や葛藤を引き出したようだな。あいつはすごいよな」

 ちょっと口惜しそうにしている。

「友則は後輩の悩み相談とかに慣れているんですよ。ああいう性格だから、ズンズンと踏み込んでいけるんですよ」

 良くも悪くも無神経なところがあり、荒削りな突破力を持っている。

 友則は、入社して以来、ずっと営業成績はトップクラス。誰とでもフレンドリーに話せるというのは天性の才能だ。

 鈴木蓮が、ホットケーキにメイプルシロップを垂らしながら言う。

「安曇の強烈なタックルの迫力に棚部さんは圧倒されたらしい。これが、その時の映像だ。ネットに公開されたものだ。見物人が撮影したらしい」

 引ったくりを捕まえた瞬間のユーチューブの映像に寧々は目を通す。

『あ、安曇さん、大丈夫ですか?』

 頭から血を流しながらも、ハンドバッグを握り締めて頷く友則。心配そうに見上げる棚部さん。

『おでこ擦り剥いてます。血か……』

『オレの事はいいから、ハンドバッグを取られた人に返してくれ』

 次の瞬間、友則がフラッと地面にしゃがみ込んだ。すかさず、棚部さんが支えた。

『あの、傷の手当をさせて下さい……』

 棚部さんが額にタオルを押し当てたところで画像は途切れている。苦い物を飲むような顔のまま脚を組み直しながら、鈴木蓮が言った。

「棚部さんが、間違った結婚をしなくて済んだのは、あいつのおかげだ。あいつに礼を言いたい。が、オレが言うのは癪だから、あんたが言っておいてくれないか」

「あっ、はい。分かりました」

 頷きながら恐る恐る聞いてみた。

「副社長は、友則が棚部さんに接近すると気になりますか?」

「そりゃ、気になるさ」

 そんなことをサラッと言わないで欲しい……。秘かに落ち込んでいると彼が付け加えた。

「安曇は、あんたの元カレだから気になるのは当たり前だ。あんたは、絶対にあいつの部屋には行くなよ。これ副社長としての命令だ」

「あっ、はい。分かってます。でも、お礼はちゃんと伝えておきますね」

「会社で会う分にはいいさ」

 寧々は、ありがとうございますと大きく頷いたのだか。その二日後のお昼休み。またしても、寧々は友則と社員食堂で会った。棚部さんが結婚をやめて就職する事を選択したことを報告した。

「友則、副社長が感謝していたよ」

 友則は面食らったような顔になったが、すぐにニッと笑った。

「それで、あいつとはどうなんだ? おまえら付き合ってんのか?」

「同居人だよ。誤解されがちだけど、彼はとても優しいんだ。あたしの片思いしているだけなの」

 豪雨の夜のロマンチックなキスが何だったのか。それに関しては今も測りかねている。もしかしたら、夢の中の出来事じゃないかと疑いたくなる。

 彼について考えるだけで感情が揺さぶられる。

「あたし、彼が哀しい想いをしないようにしてあげたいの。あの人の盾になりたいの。こんな事を想うのは不遜だと自覚している。でも、あの人を見ている、胸が痛くなって抱き締めたくなる」

「馬鹿な奴だな。寧々みたいないい女を想ってるってのにさ、何をしてやがるんだよ。まだ一線を越えてないのかよ」

「上司と部下だからね。あたしは仕事の契約が終わるまでは現状維持でいいの。今、一緒にいるだけで楽しいよ」

 照れたように呟くと友則が寂しげに微笑んだ。

「でも、駄目だったら、オレのところに戻って来い。待ってるからな」

 友則は、まだ寧々との復縁を諦めていないらしい。

 だけど、寧々は感じるのだ。以前とは何かが違っている。気のせいかもしれないけれど、友則も、粘っこい恋愛感情を寧々に対して抱えていないように感じる。

 離婚が成立して、彼も心が軽くなり、表情も明るさを取り戻している。

 このまま、いい友達でいられたらいいのにな……。

 男と女の友情なんて成立しないという人もいるけれど、友則のことは嫌いにはなれそうにない。青春時代を共に歩いた人として好きなままでいたい。

 そんな考えは甘いのかもしれないけれども、そう思っていた。
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