あなたがいるから世界は美しい
第二章
翌朝、柔らかな日差しを頬に感じて目覚めていた。
南向きの窓のカーテンの裾が風を含みながら優しく揺れている。庭先の木々から小鳥の愛らしいさえずりが聞こえてくる。ぼんやりとしたまま半身を起こした途端に赤面した。寧々は全裸だったからだ。パンツも靴下も身につけていない。
えっ。膝の所に何かいる?
生き物の気配を感じてビクッとなる。誰かが寧々の脚を舐めている。あの男と一夜を過ごしたのかと思い、慌てて布団をめくると、立派な体躯のラブラドールレトリバーがいた。
違う意味で寧々は面食らった。なぜ、ここに犬がいるのかと驚いていると、胸に飛び乗り豪快に寧々の顔を舐めた。赤い首輪と金色のハート型のチャームに見覚えがあった。
「……もしかして、ジェリーなの?」
実に一年半ぶりの再会である。頭を撫でると、無邪気に舌を出したまま尻尾を振っている。寧々はジェリーの背中を包み込むようにして抱き締めた。すると、乱雑にドアをノックする音が聞こえてきた。
「起きたのか。入るぞ」
寧々は薄手の羽毛布団を掴んで身体を隠していると。鈴木蓮が近寄り寧々の顔を覗き込もうとした。寧々は触れさせまいとして身を逸らすと、やれやれと言いたげな顔つきのまま肩をすくめた。
「いちいち睨むなよ。熱が出てないかどうか確認しているだけだ。雨に打たれて気絶していたんだ。じぃさんの主治医に往診してもらった。ただの過労だ……」
八畳ほどの広さの部屋である。大きな本棚が目についた。
近代経済学、海外企業分析の要点、東南アジアにおけるグローバルマーケティングの極意、人事労務管理論といった堅苦しい文字が目に入ってきた。経営について学んでいるようだ。
「腹、減ってるだろう。お詫びに好きなものを奢るよ。出前でいいよな? 近所に寿司屋とかピサ屋とかラーメン屋とかあるけど、何がいい?」
泣いて、ぶっ倒れて、ずっと眠っていたのだ。もしかしたら、脱水症状になっているのかもしれない。頭が少し痛いような気がする。早く水を飲みたい。
「あのう、ここの台所を使ってもいいですか? あたしの服を返して下さい」
「泥だらけだったから洗濯している。まだ乾いてない」
彼も寝起きなのかもしれない。髪が乱れている。鈴木蓮は天使のような繊細な天然パーマのようである。日本人には珍しい髪質と言えるだろう。
彼は、背後にある安っぽい箪笥の引き出しを開くと男物のラフなTシャツと迷彩柄のハーフパンツとベルトを無造作に投げてよこした。
寧々は、裸のまま背中を向けると堂々と着替え始めた。
鈴木蓮の視線が気になったが、小娘のように、『絶対に見ないで下さいね』と言うのも面倒だ。
(ブラジャーしてないから胸が透けそうだな。まぁ、いいか……)
投げやりな気分で振り向くと、彼は面白そうにヒューと口笛を吹いた。そして、眩しげに目を細めながら告げている。
「へーえ。そういうボーイッシュな格好も似合うんだな」
はぁ? こいつは何を考えているのだ?
寧々は台所に向かう。食料庫を点検してみるとホットケーキミックスがあった。うれしいことに冷蔵庫にはミルクと卵もある。
「よければ、ホットケーキ、あなたの分も焼きますよ」
「じゃ、一枚焼いてくれ。いつもは、職場で書類を見ながらパンを齧っているんだ」
「えっ、社会人なの? 働いているんですか?」
意外そうに眉を寄せて問いかける。すると、彼は憮然とした顔で答えた。
「働いてるに決まってるだろう。昨日は有給休暇を消化した。今日は夕刻から出社するつもりでいる。こう見えて忙しいんだよ」
何の仕事をしているのかしら。
シロップたっぷりの炭水化物を一気に食べ尽くすと、ゆったりとした気持ちになってきた。
昨夜は、悲劇のヒロイン状態だったが、今朝は落ち着いている。寧々は、静かに告げた。
「あなた、昨日、あたしを押し倒しましたよね?」
どういうつもりなのかと目で訴えるようにして尋ねると、彼は答えた。
「昨夜は悪かった。どうやら、あんたの事を誤解していたらしいな。すまない」
思いがけない謝罪の言葉に鼓動が跳ねる。
「もちろん、あんたの内面なんて知らない。でも、ジェリーが心配そうにあんたに張り付いていた。こっちが妬けるぐらい、ジェリーはあんんたにゾッコンだ」
「あのう、どうして、あの子がここにいるんですか? 前の飼い主はどうなったんですか?」
「一年前に飼い主が保健所に連れて行ったんだ。それを見かけた保護団体が殺処分される前に引き取ったよ。それで、オレが里親に名乗り出たんだ」
「どうしよう。あ、あたしのせいです……。飼い主が持て余したんだわ」
ジェリーに怪我を負わせた経緯を告げると、彼は痛ましそうにジェリーを見つめた。
「こいつの脚の手術は成功している。問題は脚じゃなくて老化のようだな。トイレの粗相が多くなっている。それで、飼い主は見捨てたらしい」
前の飼い主は高級マンションの一室で飼っていた。寧々をクビにした後、適切なペットシッターが見付からなくて持て余したのかもしれない。ジェリーが愛らしい瞳を向けながらキュンと甘えたように鳴いている。
「ホットケーキが欲しいの? 駄目だよ。君には甘過ぎるよ。虫歯になっちゃうよ」
寧々は、ジェリーの頭を撫でながら、すまなそうに語った。
「事故の日、あたし、住宅街をこの子と散歩していました。道端で転んで腰を押さえていた老女を抱き起そうとしていたんです。ジェリーは右折してきたワゴン車へと果敢に挑み、あたし達を事故から守ったんです。気付いたら、ジェリーは血まみれになって倒れていました」
ブレーキ音、赤い血溜まり。あの日の恐怖が焼きついている。
「悔しくないのか? 治療費と慰謝料も払ったのに、飼い主の女はこいつを捨てたんだぜ」
「もちろん、悔しいですよ。でも、あたしはジェリーに怪我を負わせています。人様の事をとやかく言う資格はありません……」
ジェリーへの罪悪感がしっかりと刻まれている。後悔の念が消え去る事はない。
「なぁ、いきなり言うのも何だけどさ、あんた、ジェリーに気に入られているようだから、世話係りになるつもりはないか?」
「え……?」
何とも不思議な流れと急な申し出にキョトンとなる。
「もう半年以上も一緒にいるのに、こいつは懐いてくれなくてさ、部屋の隅にいる事が多いんだよ。近所に暮らしている運転手さんに散歩を頼んでいるが、その人も忙しい。この家で世話してくれる人が欲しくて探してたんだ」
「ここまでの交通費を加えると、かなりの高額になりますよ。払えますか?」
餌やりと散歩で二千円と設定している。これに交通費をつけて月額に換算するとなると大変なことになる。
「ここに住んで欲しいんだよ。家政婦の三嶋さんの部屋が空いている。トイレやシャワー室はオレとは別だよ。キッチンは自由に使えばいい。家賃はいらない。電気も水道もネットも好きなだけ使ってくれたらいい」
それは魅力なのだが……。いや、しかし……。
「無理ですよ。実家に仕送りしなくちゃいけないんです。父は寝たきりの状態なんですよ。ここからキャバクラに通って、また夜中に帰るのも大変です。シッター以外の職が必要です」
「まぁな。森の中だし繁華街からも遠いからな。夜の仕事をするのは無理だよな」
何か別の仕事を探すにしても、すぐに見付かるかどうかが未知数だ。
ローンを払わなければ家族が路頭に迷うことになる。寧々の父は七十歳。母は六十五歳。妹は飲食店のアルバイト店員。詳しい事情を話すと、彼は、何か思案するように天を仰ぐが、やがて決意したように語り出した。
「そんなつもりはなかったが気が変わった。椿薔薇コーポレーションの副社長の秘書として働く気はないか? 正規の秘書は白血病の治療を受けている。その人が復帰するまでの間の助っ人が必要だ」
「副社長というのは、フィリップさんの事ですか?」
フランス人と日本人のハーフの五十歳のダンディな紳士の顔が浮かぶ。彼の秘書だとフランス語と英語が堪能でなければならない。しかし、鈴木蓮は首を振った。
「ムッシュ・フィリップは別企業に転職しているよ」
「どなたが副社長になったのですか?」
「目の前にいる」
「えーっと、あなたは歳はいくつですか?」
「二十七だ」
まさか。まだ二十七歳の副社長? いや、でも、創業者の孫なら有り得るのか……。何しろ、椿薔薇コスメは家族経営なんだもの……。
会長の息子の鈴木拓馬は九年前の夏に交通事故で亡くなっている。元々、拓馬は優柔不断で経営者には向いていなかった。以後、会長の娘婿の大河内が社長として手腕を発揮しているけれど、いずれ引退する。
きっと、この人が未来の社長候補なのだ。
「あんたが秘書として優秀なら、オレとの契約を終えた後に正社員にしてやる。さぁ、どうする? この場で決めてくれ」
急な申し出に心が揺れた。期待よりも戸惑いが大きい。迷いながらもホロッと告げた。
「でも、スーツをメルカリで売っちゃってて……。引っ越す費用もありません」
「必要なものはサブスクすればいい。あんたの衣装代も引越し代もオレが払う。その代わり仕事は過酷だぞ。あんたがドン臭いようなら即座にクビにする。だが、その場合は子会社で契約社員として雇う。それでもいいなら契約しろ」
久しぶりに輝かしい場所に戻れるのかと思うと胸の芯がジンッと熱くなる。
「あの、でも、秘書と同棲している事になりますよね。世間様から誤解されたら、お互いに困りますよ」
「家政婦もいる事にすればいい。あんたは住み込みのペットシッター兼秘書という事になる。さぁ、どうする?」
「よろしくお願いします」
「早速だが、オレの部屋のシーツを替えてくれ。あんたのファンデーションで汚れている。でもな、今後は、オレの部屋には入るなよ。オレの寝込みを襲うなよ」
冗談めかした台詞だったが、寧々は負けじと言い返す。
「それはこっちの台詞です。あたしの裸を見ましたよね。パンツまで脱がせる必要ありましたか?」
「全身が泥だらけだったんだぞ。あんた如きの身体で勃起しない。乙女チックな自惚れは捨てた方がいいと思うぜ」
ニヤッ。小馬鹿にしたような笑みを見せている。むかつく奴だ。
「おばさんだという自覚はありますよ」
「秘書は年増でもばぁさんでも構わないぞ。雇用契約する前、仕事の内容について説明する」
鈴木蓮が示した時給は予想よりも高額だった。翌日の夕刻、寧々は荷物の整理を終えて一息ついた。
六畳ほどの広さの部屋だ。北向きで日当たりは悪いが、窓からは菜園とハーブの畑が見える。梢が朝日を浴びて輝いている。小鳥のさえずりと、遠くで吼える犬の声以外の音は何も聞こえない。
以前のように隣人のユーチューバーの女性の声に悩まされる事もなさそうだ。
(夜の仕事から解放されるんだ。また会社員になれるんだ……)
長い間、ギシギシと錆び付いていた運命の針がグンと動き出そうとしている。
人生が変わる。それだけは確かだった。
南向きの窓のカーテンの裾が風を含みながら優しく揺れている。庭先の木々から小鳥の愛らしいさえずりが聞こえてくる。ぼんやりとしたまま半身を起こした途端に赤面した。寧々は全裸だったからだ。パンツも靴下も身につけていない。
えっ。膝の所に何かいる?
生き物の気配を感じてビクッとなる。誰かが寧々の脚を舐めている。あの男と一夜を過ごしたのかと思い、慌てて布団をめくると、立派な体躯のラブラドールレトリバーがいた。
違う意味で寧々は面食らった。なぜ、ここに犬がいるのかと驚いていると、胸に飛び乗り豪快に寧々の顔を舐めた。赤い首輪と金色のハート型のチャームに見覚えがあった。
「……もしかして、ジェリーなの?」
実に一年半ぶりの再会である。頭を撫でると、無邪気に舌を出したまま尻尾を振っている。寧々はジェリーの背中を包み込むようにして抱き締めた。すると、乱雑にドアをノックする音が聞こえてきた。
「起きたのか。入るぞ」
寧々は薄手の羽毛布団を掴んで身体を隠していると。鈴木蓮が近寄り寧々の顔を覗き込もうとした。寧々は触れさせまいとして身を逸らすと、やれやれと言いたげな顔つきのまま肩をすくめた。
「いちいち睨むなよ。熱が出てないかどうか確認しているだけだ。雨に打たれて気絶していたんだ。じぃさんの主治医に往診してもらった。ただの過労だ……」
八畳ほどの広さの部屋である。大きな本棚が目についた。
近代経済学、海外企業分析の要点、東南アジアにおけるグローバルマーケティングの極意、人事労務管理論といった堅苦しい文字が目に入ってきた。経営について学んでいるようだ。
「腹、減ってるだろう。お詫びに好きなものを奢るよ。出前でいいよな? 近所に寿司屋とかピサ屋とかラーメン屋とかあるけど、何がいい?」
泣いて、ぶっ倒れて、ずっと眠っていたのだ。もしかしたら、脱水症状になっているのかもしれない。頭が少し痛いような気がする。早く水を飲みたい。
「あのう、ここの台所を使ってもいいですか? あたしの服を返して下さい」
「泥だらけだったから洗濯している。まだ乾いてない」
彼も寝起きなのかもしれない。髪が乱れている。鈴木蓮は天使のような繊細な天然パーマのようである。日本人には珍しい髪質と言えるだろう。
彼は、背後にある安っぽい箪笥の引き出しを開くと男物のラフなTシャツと迷彩柄のハーフパンツとベルトを無造作に投げてよこした。
寧々は、裸のまま背中を向けると堂々と着替え始めた。
鈴木蓮の視線が気になったが、小娘のように、『絶対に見ないで下さいね』と言うのも面倒だ。
(ブラジャーしてないから胸が透けそうだな。まぁ、いいか……)
投げやりな気分で振り向くと、彼は面白そうにヒューと口笛を吹いた。そして、眩しげに目を細めながら告げている。
「へーえ。そういうボーイッシュな格好も似合うんだな」
はぁ? こいつは何を考えているのだ?
寧々は台所に向かう。食料庫を点検してみるとホットケーキミックスがあった。うれしいことに冷蔵庫にはミルクと卵もある。
「よければ、ホットケーキ、あなたの分も焼きますよ」
「じゃ、一枚焼いてくれ。いつもは、職場で書類を見ながらパンを齧っているんだ」
「えっ、社会人なの? 働いているんですか?」
意外そうに眉を寄せて問いかける。すると、彼は憮然とした顔で答えた。
「働いてるに決まってるだろう。昨日は有給休暇を消化した。今日は夕刻から出社するつもりでいる。こう見えて忙しいんだよ」
何の仕事をしているのかしら。
シロップたっぷりの炭水化物を一気に食べ尽くすと、ゆったりとした気持ちになってきた。
昨夜は、悲劇のヒロイン状態だったが、今朝は落ち着いている。寧々は、静かに告げた。
「あなた、昨日、あたしを押し倒しましたよね?」
どういうつもりなのかと目で訴えるようにして尋ねると、彼は答えた。
「昨夜は悪かった。どうやら、あんたの事を誤解していたらしいな。すまない」
思いがけない謝罪の言葉に鼓動が跳ねる。
「もちろん、あんたの内面なんて知らない。でも、ジェリーが心配そうにあんたに張り付いていた。こっちが妬けるぐらい、ジェリーはあんんたにゾッコンだ」
「あのう、どうして、あの子がここにいるんですか? 前の飼い主はどうなったんですか?」
「一年前に飼い主が保健所に連れて行ったんだ。それを見かけた保護団体が殺処分される前に引き取ったよ。それで、オレが里親に名乗り出たんだ」
「どうしよう。あ、あたしのせいです……。飼い主が持て余したんだわ」
ジェリーに怪我を負わせた経緯を告げると、彼は痛ましそうにジェリーを見つめた。
「こいつの脚の手術は成功している。問題は脚じゃなくて老化のようだな。トイレの粗相が多くなっている。それで、飼い主は見捨てたらしい」
前の飼い主は高級マンションの一室で飼っていた。寧々をクビにした後、適切なペットシッターが見付からなくて持て余したのかもしれない。ジェリーが愛らしい瞳を向けながらキュンと甘えたように鳴いている。
「ホットケーキが欲しいの? 駄目だよ。君には甘過ぎるよ。虫歯になっちゃうよ」
寧々は、ジェリーの頭を撫でながら、すまなそうに語った。
「事故の日、あたし、住宅街をこの子と散歩していました。道端で転んで腰を押さえていた老女を抱き起そうとしていたんです。ジェリーは右折してきたワゴン車へと果敢に挑み、あたし達を事故から守ったんです。気付いたら、ジェリーは血まみれになって倒れていました」
ブレーキ音、赤い血溜まり。あの日の恐怖が焼きついている。
「悔しくないのか? 治療費と慰謝料も払ったのに、飼い主の女はこいつを捨てたんだぜ」
「もちろん、悔しいですよ。でも、あたしはジェリーに怪我を負わせています。人様の事をとやかく言う資格はありません……」
ジェリーへの罪悪感がしっかりと刻まれている。後悔の念が消え去る事はない。
「なぁ、いきなり言うのも何だけどさ、あんた、ジェリーに気に入られているようだから、世話係りになるつもりはないか?」
「え……?」
何とも不思議な流れと急な申し出にキョトンとなる。
「もう半年以上も一緒にいるのに、こいつは懐いてくれなくてさ、部屋の隅にいる事が多いんだよ。近所に暮らしている運転手さんに散歩を頼んでいるが、その人も忙しい。この家で世話してくれる人が欲しくて探してたんだ」
「ここまでの交通費を加えると、かなりの高額になりますよ。払えますか?」
餌やりと散歩で二千円と設定している。これに交通費をつけて月額に換算するとなると大変なことになる。
「ここに住んで欲しいんだよ。家政婦の三嶋さんの部屋が空いている。トイレやシャワー室はオレとは別だよ。キッチンは自由に使えばいい。家賃はいらない。電気も水道もネットも好きなだけ使ってくれたらいい」
それは魅力なのだが……。いや、しかし……。
「無理ですよ。実家に仕送りしなくちゃいけないんです。父は寝たきりの状態なんですよ。ここからキャバクラに通って、また夜中に帰るのも大変です。シッター以外の職が必要です」
「まぁな。森の中だし繁華街からも遠いからな。夜の仕事をするのは無理だよな」
何か別の仕事を探すにしても、すぐに見付かるかどうかが未知数だ。
ローンを払わなければ家族が路頭に迷うことになる。寧々の父は七十歳。母は六十五歳。妹は飲食店のアルバイト店員。詳しい事情を話すと、彼は、何か思案するように天を仰ぐが、やがて決意したように語り出した。
「そんなつもりはなかったが気が変わった。椿薔薇コーポレーションの副社長の秘書として働く気はないか? 正規の秘書は白血病の治療を受けている。その人が復帰するまでの間の助っ人が必要だ」
「副社長というのは、フィリップさんの事ですか?」
フランス人と日本人のハーフの五十歳のダンディな紳士の顔が浮かぶ。彼の秘書だとフランス語と英語が堪能でなければならない。しかし、鈴木蓮は首を振った。
「ムッシュ・フィリップは別企業に転職しているよ」
「どなたが副社長になったのですか?」
「目の前にいる」
「えーっと、あなたは歳はいくつですか?」
「二十七だ」
まさか。まだ二十七歳の副社長? いや、でも、創業者の孫なら有り得るのか……。何しろ、椿薔薇コスメは家族経営なんだもの……。
会長の息子の鈴木拓馬は九年前の夏に交通事故で亡くなっている。元々、拓馬は優柔不断で経営者には向いていなかった。以後、会長の娘婿の大河内が社長として手腕を発揮しているけれど、いずれ引退する。
きっと、この人が未来の社長候補なのだ。
「あんたが秘書として優秀なら、オレとの契約を終えた後に正社員にしてやる。さぁ、どうする? この場で決めてくれ」
急な申し出に心が揺れた。期待よりも戸惑いが大きい。迷いながらもホロッと告げた。
「でも、スーツをメルカリで売っちゃってて……。引っ越す費用もありません」
「必要なものはサブスクすればいい。あんたの衣装代も引越し代もオレが払う。その代わり仕事は過酷だぞ。あんたがドン臭いようなら即座にクビにする。だが、その場合は子会社で契約社員として雇う。それでもいいなら契約しろ」
久しぶりに輝かしい場所に戻れるのかと思うと胸の芯がジンッと熱くなる。
「あの、でも、秘書と同棲している事になりますよね。世間様から誤解されたら、お互いに困りますよ」
「家政婦もいる事にすればいい。あんたは住み込みのペットシッター兼秘書という事になる。さぁ、どうする?」
「よろしくお願いします」
「早速だが、オレの部屋のシーツを替えてくれ。あんたのファンデーションで汚れている。でもな、今後は、オレの部屋には入るなよ。オレの寝込みを襲うなよ」
冗談めかした台詞だったが、寧々は負けじと言い返す。
「それはこっちの台詞です。あたしの裸を見ましたよね。パンツまで脱がせる必要ありましたか?」
「全身が泥だらけだったんだぞ。あんた如きの身体で勃起しない。乙女チックな自惚れは捨てた方がいいと思うぜ」
ニヤッ。小馬鹿にしたような笑みを見せている。むかつく奴だ。
「おばさんだという自覚はありますよ」
「秘書は年増でもばぁさんでも構わないぞ。雇用契約する前、仕事の内容について説明する」
鈴木蓮が示した時給は予想よりも高額だった。翌日の夕刻、寧々は荷物の整理を終えて一息ついた。
六畳ほどの広さの部屋だ。北向きで日当たりは悪いが、窓からは菜園とハーブの畑が見える。梢が朝日を浴びて輝いている。小鳥のさえずりと、遠くで吼える犬の声以外の音は何も聞こえない。
以前のように隣人のユーチューバーの女性の声に悩まされる事もなさそうだ。
(夜の仕事から解放されるんだ。また会社員になれるんだ……)
長い間、ギシギシと錆び付いていた運命の針がグンと動き出そうとしている。
人生が変わる。それだけは確かだった。