あなたがいるから世界は美しい
あれから一年半が経過している。コツコツと会長の口座に振り込み続け、三日前、ようやく二百万円を返し終える事が出来たので、今夜、会長に夕食を御馳走するつもりでコンビニで生活費を引き出したのだが、バイク男によって鞄ごと引ったくられたのだ。
この世に神はいないのか……。
被害届を出した後、会長の携帯に電話をかけると、なぜか、若い男が出たのである。
『あの、鈴木会長のお電話で間違いありませんよね?』
『僕は代理の者です。そちらの名前と用件を教えていただけますか?』
『昔、秘書をしていた羽生寧々と申します。実は、先刻、引ったくりに遭いまして、お財布も携帯もない状態となりました。申し訳ありませんが、会長との食事をキャンセルさせていただきたいと思いまして……』
『おい、今の話は本当なのか?』
いきなり、相手の口調が不遜なものになっている。何だか声に棘がある。
『もちろん、本当ですよ。会長にお電話を取り次いでもらえますか?』
『無理なんだ。詳しい事は会って話すよ。今からあんたを迎えに行く。公園や目印になるような建物や店があれば教えてくれないか』
『あなたは誰ですか?』
『孫の鈴木蓮だ』
なるほど……。会長の個人情報を、どこの誰だか分からない相手にペラペラと話せないというのも当然である。
(でも、今、こんな状態で迎えに来られても困るんですけどぉ……)
転んだ弾みで節々が痛くて惨めで誰かと会うような気分ではない。しかし、待ち合わせ場所へと向かった。途中、幼稚園児を連れた女性と擦れ違った。
(二十代後半に友則と結婚してたら、あんなふうに子供のお迎えしていたんだろうな……)
公園の入り口の駐車場で待っていると前方から軽くクラクションが鳴らされた。赤い瀟洒な車が寧々に近付いてきた。
『おい、あんた、羽生寧々だろう? 乗れよ』
左ハンドルの高級車の運転席の窓から顔を出した青年は人を寄せ付けない雰囲気の美形だった。
透ける様に肌理が美しくて鼻筋が高い。色々な意味で現実味がなくて、2・5次元の俳優と話しているかのような感覚になる。それにしても、初対面たというのに、やけに横柄な人だなと思いながらも、寧々は従った。
『こんちは。失礼します』
寧々がシートベルトを締め終えると、いきなり、ガグンッと車が走り出した。ドリフトしているかのような乱暴な運転にキョッとしていると、鋭くUターンしてから車道に出ている。アクセルを踏みながらボソッと告げた。
『じぃさんの事で、あんたに大事な話がある。とにかく、うちに来てくれないか』
朗らかな会長と違い、孫の鈴木蓮は偏屈そうに見える。しかし、今は、彼に頼るしかなさそうだ。
『もし、良ければ、あなたの携帯を貸してもらえませんか? 予約していた天麩羅屋さんにキャンセルの電話を入れないといけないんです』
『あんた、じぃさんに借金をしていたらしいな。金も無いのに奢るつもりだったのか?』
『今夜の食事代ぐらいは持っていました。でも、一瞬のうちに盗まれてしまったんです。ほんと、くやしい……』
長い髪で顔全体を覆うようにして俯いているとスマホを手渡してくれた。鈴木蓮が、前を見据えたまま乾いた声で言う。
『実は、じぃさんは先週から昏睡状態なんだ。会社の近くの公園で散歩していた途中に転んで頭を強く打ってしまった。もしかしたら、二度と目覚めないかもしれない』
道路の右側は古ぼけた団地群。左側は川と河川敷。何とも昭和レトロな雰囲気が漂っている。
『先刻まで、オレはジムに行ってたんだ。じいさんが倒れてからは携帯をオレが預かっている。じぃさんの友人は多いから、いちいち説明するのが面倒なんだ。スイスやドイツからも電話がかかってくる。とんだけ顔が広いだよって感じだよ』
『あの、会長に会えますか?』
『あんたは駄目だ。家族じゃないからな』
また彼は黙り込んだ。寧々はFMラジオを聞いて気を紛らせようとした。気象庁は、昨日から梅雨に入ったと告げていた。今夜は豪雨になりそうだ。
この世に神はいないのか……。
被害届を出した後、会長の携帯に電話をかけると、なぜか、若い男が出たのである。
『あの、鈴木会長のお電話で間違いありませんよね?』
『僕は代理の者です。そちらの名前と用件を教えていただけますか?』
『昔、秘書をしていた羽生寧々と申します。実は、先刻、引ったくりに遭いまして、お財布も携帯もない状態となりました。申し訳ありませんが、会長との食事をキャンセルさせていただきたいと思いまして……』
『おい、今の話は本当なのか?』
いきなり、相手の口調が不遜なものになっている。何だか声に棘がある。
『もちろん、本当ですよ。会長にお電話を取り次いでもらえますか?』
『無理なんだ。詳しい事は会って話すよ。今からあんたを迎えに行く。公園や目印になるような建物や店があれば教えてくれないか』
『あなたは誰ですか?』
『孫の鈴木蓮だ』
なるほど……。会長の個人情報を、どこの誰だか分からない相手にペラペラと話せないというのも当然である。
(でも、今、こんな状態で迎えに来られても困るんですけどぉ……)
転んだ弾みで節々が痛くて惨めで誰かと会うような気分ではない。しかし、待ち合わせ場所へと向かった。途中、幼稚園児を連れた女性と擦れ違った。
(二十代後半に友則と結婚してたら、あんなふうに子供のお迎えしていたんだろうな……)
公園の入り口の駐車場で待っていると前方から軽くクラクションが鳴らされた。赤い瀟洒な車が寧々に近付いてきた。
『おい、あんた、羽生寧々だろう? 乗れよ』
左ハンドルの高級車の運転席の窓から顔を出した青年は人を寄せ付けない雰囲気の美形だった。
透ける様に肌理が美しくて鼻筋が高い。色々な意味で現実味がなくて、2・5次元の俳優と話しているかのような感覚になる。それにしても、初対面たというのに、やけに横柄な人だなと思いながらも、寧々は従った。
『こんちは。失礼します』
寧々がシートベルトを締め終えると、いきなり、ガグンッと車が走り出した。ドリフトしているかのような乱暴な運転にキョッとしていると、鋭くUターンしてから車道に出ている。アクセルを踏みながらボソッと告げた。
『じぃさんの事で、あんたに大事な話がある。とにかく、うちに来てくれないか』
朗らかな会長と違い、孫の鈴木蓮は偏屈そうに見える。しかし、今は、彼に頼るしかなさそうだ。
『もし、良ければ、あなたの携帯を貸してもらえませんか? 予約していた天麩羅屋さんにキャンセルの電話を入れないといけないんです』
『あんた、じぃさんに借金をしていたらしいな。金も無いのに奢るつもりだったのか?』
『今夜の食事代ぐらいは持っていました。でも、一瞬のうちに盗まれてしまったんです。ほんと、くやしい……』
長い髪で顔全体を覆うようにして俯いているとスマホを手渡してくれた。鈴木蓮が、前を見据えたまま乾いた声で言う。
『実は、じぃさんは先週から昏睡状態なんだ。会社の近くの公園で散歩していた途中に転んで頭を強く打ってしまった。もしかしたら、二度と目覚めないかもしれない』
道路の右側は古ぼけた団地群。左側は川と河川敷。何とも昭和レトロな雰囲気が漂っている。
『先刻まで、オレはジムに行ってたんだ。じいさんが倒れてからは携帯をオレが預かっている。じぃさんの友人は多いから、いちいち説明するのが面倒なんだ。スイスやドイツからも電話がかかってくる。とんだけ顔が広いだよって感じだよ』
『あの、会長に会えますか?』
『あんたは駄目だ。家族じゃないからな』
また彼は黙り込んだ。寧々はFMラジオを聞いて気を紛らせようとした。気象庁は、昨日から梅雨に入ったと告げていた。今夜は豪雨になりそうだ。


