あなたがいるから世界は美しい
第四章
早いもので復職してから一週間が経過している。会社の廊下で擦れ違っても友則とは目を合わさないようにしてきたのである。それなのに、午後二時過ぎに一人で昼食をとっていると友則が社員食堂に入ってきた。
この時間帯、ここにいる社員は数人しかいない。
やだ。嘘でしょう!
寧々の心臓が嫌な感じの音を奏でる。今更、友則の顔など見たくない。無視したい。逃げ出したい。けれども、露骨に避ける訳にもいかない。
あたしに話しかけないでと心の中で呟きながら背を向ける。それなのに、彼は隣に来た。
あの頃と同じ。友則は好物のカツどんを注文している。
ちなみに、寧々は日替わり定食だ。
「仕事、慣れたか? この七年、どうしてた?」
あれから七年以上が経過している。
「普通に暮らしていたよ」
いつまでも根に持っていると思われるのも癪なので平気なフリをしてみせた。
「友則はどうなの? お子さんは何歳になったの?」
「長女は小学生になったよ。次女は一歳になったばかりだよ」
三十七歳。前髪の生え際に数本の白髪が混ざっている。それでも、その胸板は逞しくて顔立ちも精悍だ。
(あの頃は、こんな誠実で素敵な人はいないと思ってたんだよな)
駄目だ。過去の哀しみがぶり返してきた。寧々が視線を伏せたままモゴモゴと米粒を咀嚼していると、彼は、思い切ったように語り出した。
「なぁ、副社長と同居しているってのは本当なのか? あいつの父親は秘書だった年上の女を愛人にしていたんだぜ。あいつは愛人の子なんだ。おまえも、同じように手を出されたらどうすんだ。同居なんてやめろよ」
「……」
あなたは二股をして、あたしをフッたんだよ? そう言ってやりたかった。
「別に、副社長とはそういうんじゃないから。向こうにも選ぶ権利があると思うよ」
ツンと顔を背けて立ち去ろうとすると手首を掴まれていた。
「待てよ。心配なんだよ。おまえには誰よりも幸せになってもらいんだ。今まで会った中で、寧々が一番綺麗な女の子なんだよ」
やめて。そんな眼で見ないで欲しい。
一番綺麗な女の子……。陳腐な甘い台詞に胸がグラリと甘く揺らぐ。そういえば、いつも歯の浮くような台詞を言ってくれていたっけ。
気だるいような熱を伴うようにして、過去の甘美な光景が蘇ってきた。
『怖くないから力を抜いて……。寧々、痛いなら言って……。寧々、好きだよ』
初めての夜、痛くて泣いていると頬の涙を吸い取ってくれた。誰よりも大切にされていると感じた。
いつか、この人の子供を作ろうと想い貯金もしていた。結婚情報誌も買っていたのに……。
過去の光景に囚われたまま憂鬱な気持ちでいると寧々のスマホが鳴った。寧々はハッとしたように身震いしてから我に返る。元カレのことでウジウジしている暇などない。メールの内容に目を通した。鈴木蓮からの義用務連絡のようだ。
『羽生さん。至急、頼みたい事があります』
寧々は立ち上がり友則に背を向けた。鈴木蓮のおかげで逃げる口実が出来て助かった。
「あっ、友則。先に行くね。あたし、急いでるから」
そのまま慌てて駆けるようにして執務室に向かった。
寧々が食事の時に、こんなふうに急に呼び出すなんて珍しい。何かあったのだろうか。
すると、鈴木蓮は浮かない顔つきで告げた。
「突然で悪いんだが、今すぐにオレの母親の家に行ってもらいたい。二階のオレの部屋の本棚に映画のDVDがあるから持って帰ってきてもらいたい。吉良の病院に郵送してくれないか」
吉良は抗癌剤の副作用で喋れないほどに苦しむ日が続いている。本当に気の毒で寧々の顔が曇った。二人の間に沈黙が落ちている。少し間を置いてから、鈴木蓮が静かな声で言った。
「実はさ、もう一つ頼みがある。今日はオレの母親の誕生日なんだ。毎年、花を贈ってるけど、今年は吉良が花屋に予約するのを忘れていたんだ。先刻、吉良が申し訳ないって連絡してきた。あんたが、直接、届けてくれないか」
それは構わないが、愛人の息子だと友則が言っていた。つまり、鈴木蓮にとって血の繋がりがないということになる。
「お母様の花束はどのようなものを選べばいいのでしょうか。メッセージカードはどうされますか。お母様への手土産も必要ですよね」
「何でもいい。何もかも、あんたに任せるよ」
時刻は午後三時になろうとしていた。まずは地下鉄に乗る。最寄り駅の改札を出るとタクシーに乗った。この辺りの道路の幅そのものは狭い。静かだ。庭付きの大きな住宅が道沿いに続いている。ちょうど坂を上がったところに鈴木蓮の家がある。煉瓦調の外壁がお洒落な立派な建物だ。
タクシーを降りてインターフォンを押すと、すりガラス仕様の引き戸の内側から小柄な女性が出てきた。あらかじめ訪問する事は鈴木蓮の口から伝えている。
この人が鈴木詠子さんなのか。ピンクのブラウスに灰色のフレアースカート。サラサラのセミロングの髪。五十七歳の優しい顔立ちの女性が出迎えてくれた。
「素敵ね。なんて綺麗なの。わざわざ届けて下さるなんて申し訳ないわね」
「あの、実は、副社長のお部屋の私物を持ってくるように言われておりまして」
「ええ、聞いているわ。吉良君から借りている物を取りにいらしたのよね。吉良君は子供の頃から親友なのよ」
早速、二階の部屋へと案内すると、鈴木蓮の小学校時代のアルバムを得意げに広げながら語り出した。
「うちの蓮ちゃんは子供の頃から親孝行なのよ。母の日には丁寧に肩叩きをしてくれたの。お勉強もできて柔道も得意で本当に自慢の息子なの」
本棚には図鑑や漫画の日本史などの子供向けの書籍が並んでいる。彼は、中学まではここで過ごしていたらしい。床も窓枠もチリひとつなかった。詠子さんが部屋の掃除をしているのだろう。寧々が本棚からお目当てのDVDを取り出していると、彼女は鼻にかかるような声で呟いた。
「うちの子に、たまには帰ってくるように伝えて下さるかしら。心配だわ。お仕事は順調なのかしら。食事は偏ってないかしら」
「副社長はお元気ですよ。お食事は外食が中心のようですね」
彼女は、卓上の花束に視線を落としたまま困ったように言った。
「あらあら家政婦さんがいなくて花瓶がどこにあるのか分からないわ。帰って来たら、花瓶を出して飾ってもらうわ。綺麗なお花ね。もしかして、あなたか選んだのかしら?」
「いえいえ、副社長が選びました」
正確には花屋の店員がチョイスしてくれたのだが……。嘘も方便だ。うん。そういう事にしておこう。
鈴木蓮が持ってくるように指示した映画は三本。『王の男』と『チョコレートドーナッツ』『クライングゲーム』である。これらはニューハーフや同性愛者が出てくる。これは、元々は吉良君の持ち物だと聞いている。という事は、やはり、吉良君はそっち側の人なのだろうか。いや、そんなこと、今はどうでもいいではないか。
「奥様、それでは、そろそろ、おいとまさせていただきます」
深く一礼してから玄関を出た。建物の側面に面した歩道を進む。しかし、急にガラスが割れる音が響いた。
(えっ、副社長のお宅から聞えたんだけど……)
気になって引き返していく。脳卒中などで倒れたのではないかとハラハラしながら、垣根の向こうを覗くと、詠子さんが、裏庭の花壇の前に立っている様子が見えた。詠子さんの顔つきが歪で異様なのだ。彼女の足元には硝子の花瓶が落ちて砕け散っている。
『泥棒猫のくせに、ヘラヘラ笑いやがって! 何様だ。てめぇ。死んじまえ!』
花束を睨みつけながら憤怒の表情で叫んでいる様子に寧々の足が竦んだ。相手に気付かれないように凝視するしかなかった。
『呪ってやる。呪ってやる!』
何かが憑依したかのように花束を片手で掴んで闇雲に振り回して奇声を発し、髪を振り乱して発散している。
『死ね! 死ね!』
ピンク色の薔薇の花びらがヒラヒラと芝生の上に散り落ちていく。何が気に入らなくてヒステリックに荒れているのか理解に苦しむ。やがて、気が済んだのか、死骸のようになった花束を無造作に地面に投げ捨てると室内へと戻ったのだが……。
驚きの余り動けなくなる。
(まるで別人みたいだわ……)
その時、背後から影法師が忍び寄ってきた。トンッ。急に後ろから肩を叩かれ、強張った表情で振り向くと、小柄な老女が立っていた。
チリチリパーマに狐のような吊り眼の庶民的なおばあさんだ。ダイコンの入ったエコバッグを下げたまま、ねめるように見上げている。寧々が後ずさると、まるで踏み込むようにして尋ねてきた。
「あんた、セールスの人かい? ジロジロと鈴木家を覗いていたね」
「あの、怪しい者ではありません。急に妙な声が聞こえたものですから、ちょっと気になってしまって……。こういう者です」
不審者として通報されると困るので名刺を見せると、老女が納得したように頷いた。
「蓮ちゃんの秘書さんかい。何をしに来たんだい?」
「お誕生日のお祝いの花束を渡しに参りました。帰宅しようとしたのですが、詠子さんの様子が急変してしまいまして……」
「秘書の名刺を渡したんじゃないだろうね。そりゃマズイわ。あの人、美人の秘書さんが何よりも嫌いなんだよ」
好奇心と同時に得体の知れない不安が疼いて足元が不安定になる。
「あ、あのう……、あなたはどなたですか?」
「あたしは住み込みの家政婦だよ。蓮ちゃんが引き取られた時からいる。どうやら、あんたも気付いたようだね。先刻のあれは誰にも内緒だよ。実は、かなり前から、詠子さんはオツムがいかれちまってるんだよ」
まさか。
その瞬間、頭のてっぺんからバサッと猛毒の赤い霧をかぶったような気持ちになった。思考がフリーズした。
☆
まさか、このようなキテレツな展開になるとは思ってもみなかった。尋ねずにはいられない。そのまま家政婦の櫻井友子を近くの喫茶店に連れ出していたのである。
「あの、あれはどういう事ですか」
真剣な顔で尋ねると、家政婦は、緑色のソーダのストローをかき混ぜながらツラツラと語り出したのである。
「みんな知ってる事だよ。詠子さんは蓮ちゃんの継母なんだ」
「実の母親は?」
「死んだよ」
長身で派手な顔のアンナさんは米兵を父と日本人の母から生まれたハーフ。キリスト教を母体とする養護施設で育っている。
「付き合ってたんだけど、会長が息子とアンナさんの結婚に愛子様が反対したって話だよ。それで、会長の息子は、仕方なく見合い相手の詠子さんと結婚したのさ。だけど、アンナさんは秘かに子供を産んで育てていたんだよ」
正妻の詠子さんは十年も不妊治療を続けたが妊娠しなかったので、小学校に入るタイミングに合わせて息子を引き取ったのだ。
『蓮ちゃんは詠子さんに懐こうとしていたよ。引き取られた翌月にはアンナさんは亡くなっているからね。そこで暮らすしかないって覚悟をしたんだろうね。傍目には本物の母親のように見えたんだ』
鈴木蓮はよく下痢をして熱を出す。そんな時、詠子さんは献身的に看病した。
『だけどさ、蓮ちゃんが十歳の時に見たんだよ。ゾッとしたね。詠子さんは蓮ちゃんの歯ブラシでトイレや風呂を擦っていた。あたしは蓮ちゃんに耳打ちしてやった。母親を信用するなってね。でも、あの子は何の事か分かっていなかったね』
テストで良い点を取ると嬉しそうに鈴木蓮を褒める。そんな恐ろしい裏の顔があるなんて誰も気付かなかった。家政婦は豹変した際の映像を隠し撮りして会長に見せたのだ。会長が親友の医師に相談したところ、二重人格という診断を下したのである。
『その頃、蓮ちゃんは愛人の子だと言われて学校でイジメを受けていた。なんと、詠子さんは、ネットに蓮ちゃんの悪口を書き込んでたんだ』
まさか、鈴木蓮が苛められる原因を作ったのは詠子さんだったとは……。
そのカラクリに気付いた会長は言葉を失った。
鈴木蓮を侮蔑するクラスメイトを激しく叱咤する姿は聖母そのもので、いい嫁だと思っていたからだ。
ある時、決定的な事件が起きた。
鈴木蓮が中学三年の秋、文化祭の催しで女装コンテストが開かれる事になり、その日、学友の吉良が作ったワンピースを身につけて居間に下りた。少しサイズを直してもらう為だった。すると、なぜか、詠子が豹変してハサミを振り回して詰め寄ったのだ。
『この泥棒猫!』
彼女は鈴木蓮の頬を力任せに叩いてから、凄まじい勢いで罵った。
『てめぇの汚いクルクルパーマを引っこ抜いてやる。このアバズレ、とっとと死んじまえ。てめぇなんか生きてる資格はねぇんだよ!』
死ねと叫びながら狂女のような形相になり、そのまま、ハサミを鈴木蓮の頭に突き刺そうとした。鈴木蓮は、その場に棒立ちになり呆然としていた。
恐ろしい形相に誰もが凍り付いていた。まるで悪魔が乗り移ったかのように見えた。
『詠子、やめなさい』
たまたま、家にいた夫が咄嗟に引き止めて妻を抱え込むと、息子を彼女の狂気から遠ざけた。家政婦は、あの時のおぞましさを振り返りながら言う。
『あの時、自宅に旦那さんがいなければ流血の大惨事になっていただろうね。本当に怖かったよ。旦那様が奥様を抱きしめて寝室へと連れて行ったのさ』
悪魔が憑依したかのように激しい表情になり荒れ狂ってておきながら、詠子さんは、数分後、穏やかに微笑む。それこそ、聖女のように綺麗な声で尋ねたのだ。
『あなた、そんな怖い顔をしてどしたの?』
妻は自分が何をしたのか覚えていなかった。妻の狂気に夫は怯えた。
多重人格……。このまま息子をここに置いたなら妻の病状が悪化するかもしれない。
そこで、拓馬は、高齢の祖父を見守る為という口実で、もうすぐ高校生になる息子を避難させた。以後、病んだ妻との生活に耐えられなくなったのか、拓馬は自殺する。
表向きは交通事故という事になっているが、実は、会長宛の遺書が残されていたというのである。
『あたしは、ずっとあの家にいる。奥様のお目付け役みたいなもんなのさ』
『そうですか。色々と教えてくれてありがとうございます』
この家政婦はペラペラとあちこちで吹聴しているのではないか。内心、そんな風に危惧していると、彼女はキッパリと告げた。
『あんたは秘書だから家庭の事情ってのを知っておくべきだと思って特別に教えてやった。くれぐれも蓮ちゃんのことを頼んだよ』
立ち去る際に彼女は念を押すように言った。
『いいね。あたしが余計な事を喋ったけど、蓮ちゃんには内緒にしておくれ。あの子だって、誰にも知られたくないだろうからね……。プライドってもんがあるからね』
『……そうですね』
余りにも痛ましくて息が詰まりそうになる。そこから、どうやって会社に戻ったのかも覚えていない。
☆
会社に到着してすぐに古い社内報を探してみると、若い頃のアンナさんの写真がみつかった。メデューサみたいだ。すごい癖毛だ。
いつから付き合っていたのかは知らないが、鈴木蓮の年齢から察するに、この頃にアンナは妊娠して退社したようだ。
旦那の不倫だけでもショックなのに、愛人の子を実子として迎えるとなると、詠子さんは心をえぐられるように辛かったに違いない。
(そりゃ、詠子さんが精神的におかしくなるのも無理ないわ)
でも、鈴木蓮に対する仕打ちは酷い。駄目だ。今日は予定通りに仕事が終わりそうにない。明日の朝一番のミーティングの資料を作成して配布しなければならない。残業必須。ジェリーの散歩は運転手の江藤さんに託すことにしよう……。
さぁ、急こう。エクセル画面に文字や数字を打ち込んでいく。しかし、集中力が保てなくて胸がジワジワと締め付けられる。時間はあっというまに過ぎ去っていく。
秘書室から出ようとすると出先から戻って来た鈴木蓮と出くわした。彼は、ちょっと驚いたように寧々を見つめている。
「わりぃ。今日、余計な仕事を頼んだせいで残業させられたみたいだな。この後、一緒に飯でも食わないか? 今日は、誰とも食う約束してないから一人でファミレスに行くしかないって思ってたところなんだ。もちろん、オレが奢るよ。行こうぜ」
食事をするのは構わない。しかし、この人の過去のエピソードがあまりにも哀しい。
戸惑っていると、屈託ない顔で提案してきた。
「あんたが、じいさんと食べる予定だった天麩羅の店はどうだ? ずっと気になっていたんだよ。オレも食ってみたいから一緒に行こうよ。そこ、美味いよな?」
「はい、美味しいです」
寧々の表情がパーッと華やいだ。行きたい。久しぶりに食べたい。それを見た鈴木蓮が店に予約を入れてくれたのだ。
その店の名前は『将軍』
某国の大使館のすぐ近くにある。どっしりとした店構えの老舗の名店で、入ってすぐ前にカウンター席がある。それ以外はすべて個室になっている。
価格帯が高い事もあり、客層は上品で静かだ。政治家や芸能人も訪れる店なので紺色の和服姿の店の従業員さんの所作や言葉遣いも落ち着いている。
黒檀の細長い卓を挟んで座って待っていると、旬の野菜の天麩羅が運ばれてきた。軽やかな衣の健やかなサクッという歯ごたえが心地良かった。後から、上品な油のうま味がジンワリと口の中に染み込み溶け合っている。
「会長は和食が好きで魚介類に目がないんですよ。冬になると、いつも豊岡に行って蟹を食べていたんです」
温泉街を歩き、のんびりと笑い合った。慰安旅行のように楽しかったというのに出張代までいただいている。
デザートの抹茶のプリンを木の匙ですくいながら懐かしい出来事を語っていく。
「あたし、二十七歳のクリスマスとお正月を、会長と共にシンガポールで過ごしました。あれも忘れられません」
その年、ラッフルズホテルに滞在した。そこは超高級ホテルだった。
「陸路でマレーシアにも行ってナマコを使った石鹸と出会いました。うちの石鹸の原材料を提供してくださる工場も視察しましたよ」
「あんたは、クリスマスと正月を上司のじいさんと過ごしたのかよ?」
「はい。華僑の邸さんは会長の大学時代の御学友で我々を招待して下さったんです。大口の商談も兼ねています。お正月だろうとも、あたしが会長に付き添うのは当たり前です。会長一人で海外に行かせる訳にはいきません」
それを聞いた鈴木蓮がフッと片頬を歪めて苦笑している。
「オレが思うに、そんなふうにして公私の区別もなくじぃさんに尽くしていたせいで、あんたは、彼氏との結婚を逃す事になったのかもしれないな。当時の彼氏は、じぃさんに嫉妬したかもしれないぞ。ほったらかされて面白くなかっただろうな」
「あっ……」
そう言われてみると、ホテルで友則とエッチをしていた時、会長から電話がかかってきた事がある。ちょうど友則と合体している最中なのに電話で会長と普通に話したのだ。
あの時の友則の顔は……。そうだ。友則の不満に気付いていたのに寧々は気付かないフリをしていた。別れる直前、寧々は海外に行くことが多くなっていた。
(友則とのデートの回数が減っていたのに気にしてなかった。あたしにも問題はあるってことなのかもしれない)
寧々が過去を振り返っていると、鈴木蓮は考え込むような顔つきで言った。
「オレ、聞いたことがあるんだ。秘書に甘え過ぎたかも知れないってボソッと言ってたことがある。もしかしたら、じぃさんは罪滅ぼしに、あんたに終の棲家を残そうとしたのかもしれないな。でも、それも失礼な話だよな。あんたが素敵な旦那を射止めるチャンスはまだまだもあるのにさ」
彼の声音も表情も柔らかい。思いがけない言葉が胸に健やかに染みてくる。澄んだ硝子のような綺麗な目でまっすぐに見つめられると、何だかくすぐったくなる。
「でも、あなたが言ったんですよ。自惚れるなって……」
「それに関しては訂正する。あんたは綺麗だしスタイルもいい。もっと人生を夢見て貪欲に突き進めばいいんだ。でも、不倫だけは駄目だぞ。それだけはやめておけ」
言いながら、鈴木蓮はシャツの胸ポケットから何かを取り出している。
「これ、あんたのピアスだろう?」
「あっ、副社長のお部屋に落としていたんですね」
「いや、違う。今日、会社の食堂で落としたらしい。営業部の安曇が届けに来たので預かっておいた。あいつ、なんか不服そうにしていたな」
「友則が来たんですか?」
「あいつが、あんたの元カレか? じぃさんから聞いた事がある。二股をかけて、突然、若い女と結婚したんだろう。浮かない顔をしているのは安曇のせいなのか? まさか、まだ、未練があるのか?」
更に踏み込んできた。
「このピアスは安曇からのブレゼントなのか?」
すっかり忘れていた。これは寧々が二十六際のクリスマスに友則からもらったものだが、この際、どうでもいい。
(あたしは、あなたの凄絶な過去を想うと胸が痛くて堪りません)
少しでも気を抜くと発作的にブワッと涙をこぼしそうになるが悟られてはいけない。
「おい、泣くなよ」
鈴木蓮が立ち上がると寄り添い寧々の肩を軽く抱いた。寧々の心に何かが突き上がってきた。どうしても鈴木蓮をハグしたかった。ジワリと胸に熱いものが湧いて涙が溢れている。
「す、すみません……。これじゃ逆セクハラになっちゃいますよね」
「いや、別にいいよ。好きなだけ、気が済むまでオレに抱きついていいよ。アメリカじや、別に普通のハグだ」
「ほ、本当ですかぁ」
ぎゅっ、ぎゅうーーーー。壊れる程に抱きしめたい衝動が胸を駆け巡っていく。彼は、寧々を包むように首筋に片手を添えてくれている。そして、寧々の耳元に顔を寄せて優しく囁いたのだった。
「いいか、安曇は既婚者だぞ。あいつのことは忘れるべきだ」
いいえ。友則のことで泣いているんじゃありませんよ……。
「あいつの何がいいんだ? 男前なのは認めるけどさ」
ええーーー、今、その質問をしますか? しかし、元カレに未練があるから泣いている設定を守らねばならない。
寧々は真面目に振り返る。
「友則にはいいところがたくさんありましたよ」
とにかくタフで前向きだ。そして、男としてセクシーで寧々をいつもクラクラさせてきた。
「なんていうか、友則はキスが上手いんですよ」
ああ、何を口走っているのだろう。赤裸々に、このようなことを暴露している自分が怖くなる。
「あの人は、あたしの足の指を一本ずつ丁寧に舐めるような人なんです。他の男の人と話していたら本気で拗ねるんです。そういう日の友則ってすごくキスが長くてパワーがあるんです」
上司相手にエロい話をするなんてどうかしている。
(だけど、あの人が人生で唯一の彼氏なんだもの……)
高校時代に何人かに告白されたけれど断っている。好みじゃなかった。でも、友則は最初からカッコいいと思ったのだ。もしかしたら、筋肉質な身体が好きなのかもしれない。何だか、そんな気もしてきた。
「ふうん。その時は、あいつも本気で惚れていたんだろうな……」
どうしてなんだろう。こうしていると妙に心地が良く落ち着く。
寧々は子供みたいに鼻をズズッと啜る。
寧々はて日本酒をグイグイ飲んだ。から、。理性のネジが壊れている。けれども、運転をしている鈴木蓮は一滴も飲んでいない。
「オレは、そこまで情熱的に恋人を舐めた事はなかったなぁ。でも、昔、拾ってきた子猫の顔をペロペロと舐めてしまってママに叱られた事があったかな。そうだな。好きなものを舐めたくなる気持ちは分かるかもしれないな」
ママというのは実母のアンナさんのことなのだろう。社内の人達も、みんな鈴木蓮が愛人の子だと知っている。出自に関して揶揄したり、あるいは見下す人もいたに違いない。
ひょっとしたら、鈴木蓮のピリピリした空気は、複雑な生い立ちによって構築されたのかもしれない。
今夜の彼は、寧々をねぎらうつもりでここに連れてきている。なんていい人なんだ。この人の声も好きだ。
(駄目だ。この人とは必要以上に親しくしてはいけないんだってば……)
自分は身の程知らずのオバさんだ。御曹司に恋愛じみた気持ちを抱くなんて我ながらキモイ。自分の図々しさに嫌気がさしてきた。
おずおずと顔を上げると目が合いドキッとした。時間が止まったかのようだ。
けれども、この静寂は無機質な音によって破られたのだ。彼の、紺色のスーツのポケットの中で鳴っているスマホは、なかなか鳴り止みそうにない。電話の主が鈴木蓮と話したいと焦る顔が浮かんだ寧々は遠慮がちに指摘しながらスッと身を引いていく。
「あの、副社長の携帯が鳴ってますよ」
彼は、手をポケットに差し込んでからスマホを握った。
「はい、えっ……。本当ですか!」
少し肩を強張らせていた。どうしたのだろう。不穏な空気が流れている。寧々が、そのまま息詰めるようにして待ちわびていると残念そうな声で呟いた。
「ゲーム会社のカリスマ的なクリエーターが辞めると言ってきたんだよ。うちなんかよりも大手と組む方が堅実だから仕方ない。収益が倍ほど違うからな。でも、参ったな……。新作のプロジェクトが頓挫してしまうかもしれない」
鈴木蓮は、ゲーム会社において運営に関する責任を負っている
「副社長、それならば他のクリエーターを探しましょうよ」
「そうだな。まぁ、ゲーム会社の方は悲観する必要はない。でも、椿薔薇コスメに関しては、新しい価値をつけなければ、遅かれ早かれ、倒産する。古い経営体質を変えるべきなんだ」
もしかしたら、会長が真心を込めて立ち上げた化粧品会社は売却されるかもしれないという噂すら流れ始めている。前に会長は言っていた。
『人との出会いは何よりも大切なものだよ。自分から胸襟を開いて笑顔で接するのが一番だ。わしは、最初の頃、資金繰りに困り果てて首を吊ろうかと思うほど追い詰められた。でも、そんな時、わしを救ってくれたのは、いつも、定食屋で会う浮浪者みたいな恰好の男だった。まさか、彼が、投資家だとは知らなかったのだ』
会長も、ジタバタともがいて事業を続けてきたのだ。寧々は楽観的な希望も込めて彼に告げていく。
「たくさん、色んな会合や飲み会に顔を出せば、きっと何かが生まれます。あちこちで語ったなら、そのうち自分の夢に共感してくれる人との出会いがあるかもしれませんよ」
すると、彼は、フッと目尻の辺りにシワを刻んだ。
「そうだな。さぁ、明日も仕事だ。帰るぞ」
もちろん、寧々は、ハイッと元気よく頷く。自分は上司に恵まれている。
「今夜はありがとうございました。馳走様でした」
こうやって毎日を積み重ねていく事で、もっともっと、鈴木蓮を理解する事が出来るようになるのかもしれない。
彼のことを、もっと知りたいと感じていた。
この時間帯、ここにいる社員は数人しかいない。
やだ。嘘でしょう!
寧々の心臓が嫌な感じの音を奏でる。今更、友則の顔など見たくない。無視したい。逃げ出したい。けれども、露骨に避ける訳にもいかない。
あたしに話しかけないでと心の中で呟きながら背を向ける。それなのに、彼は隣に来た。
あの頃と同じ。友則は好物のカツどんを注文している。
ちなみに、寧々は日替わり定食だ。
「仕事、慣れたか? この七年、どうしてた?」
あれから七年以上が経過している。
「普通に暮らしていたよ」
いつまでも根に持っていると思われるのも癪なので平気なフリをしてみせた。
「友則はどうなの? お子さんは何歳になったの?」
「長女は小学生になったよ。次女は一歳になったばかりだよ」
三十七歳。前髪の生え際に数本の白髪が混ざっている。それでも、その胸板は逞しくて顔立ちも精悍だ。
(あの頃は、こんな誠実で素敵な人はいないと思ってたんだよな)
駄目だ。過去の哀しみがぶり返してきた。寧々が視線を伏せたままモゴモゴと米粒を咀嚼していると、彼は、思い切ったように語り出した。
「なぁ、副社長と同居しているってのは本当なのか? あいつの父親は秘書だった年上の女を愛人にしていたんだぜ。あいつは愛人の子なんだ。おまえも、同じように手を出されたらどうすんだ。同居なんてやめろよ」
「……」
あなたは二股をして、あたしをフッたんだよ? そう言ってやりたかった。
「別に、副社長とはそういうんじゃないから。向こうにも選ぶ権利があると思うよ」
ツンと顔を背けて立ち去ろうとすると手首を掴まれていた。
「待てよ。心配なんだよ。おまえには誰よりも幸せになってもらいんだ。今まで会った中で、寧々が一番綺麗な女の子なんだよ」
やめて。そんな眼で見ないで欲しい。
一番綺麗な女の子……。陳腐な甘い台詞に胸がグラリと甘く揺らぐ。そういえば、いつも歯の浮くような台詞を言ってくれていたっけ。
気だるいような熱を伴うようにして、過去の甘美な光景が蘇ってきた。
『怖くないから力を抜いて……。寧々、痛いなら言って……。寧々、好きだよ』
初めての夜、痛くて泣いていると頬の涙を吸い取ってくれた。誰よりも大切にされていると感じた。
いつか、この人の子供を作ろうと想い貯金もしていた。結婚情報誌も買っていたのに……。
過去の光景に囚われたまま憂鬱な気持ちでいると寧々のスマホが鳴った。寧々はハッとしたように身震いしてから我に返る。元カレのことでウジウジしている暇などない。メールの内容に目を通した。鈴木蓮からの義用務連絡のようだ。
『羽生さん。至急、頼みたい事があります』
寧々は立ち上がり友則に背を向けた。鈴木蓮のおかげで逃げる口実が出来て助かった。
「あっ、友則。先に行くね。あたし、急いでるから」
そのまま慌てて駆けるようにして執務室に向かった。
寧々が食事の時に、こんなふうに急に呼び出すなんて珍しい。何かあったのだろうか。
すると、鈴木蓮は浮かない顔つきで告げた。
「突然で悪いんだが、今すぐにオレの母親の家に行ってもらいたい。二階のオレの部屋の本棚に映画のDVDがあるから持って帰ってきてもらいたい。吉良の病院に郵送してくれないか」
吉良は抗癌剤の副作用で喋れないほどに苦しむ日が続いている。本当に気の毒で寧々の顔が曇った。二人の間に沈黙が落ちている。少し間を置いてから、鈴木蓮が静かな声で言った。
「実はさ、もう一つ頼みがある。今日はオレの母親の誕生日なんだ。毎年、花を贈ってるけど、今年は吉良が花屋に予約するのを忘れていたんだ。先刻、吉良が申し訳ないって連絡してきた。あんたが、直接、届けてくれないか」
それは構わないが、愛人の息子だと友則が言っていた。つまり、鈴木蓮にとって血の繋がりがないということになる。
「お母様の花束はどのようなものを選べばいいのでしょうか。メッセージカードはどうされますか。お母様への手土産も必要ですよね」
「何でもいい。何もかも、あんたに任せるよ」
時刻は午後三時になろうとしていた。まずは地下鉄に乗る。最寄り駅の改札を出るとタクシーに乗った。この辺りの道路の幅そのものは狭い。静かだ。庭付きの大きな住宅が道沿いに続いている。ちょうど坂を上がったところに鈴木蓮の家がある。煉瓦調の外壁がお洒落な立派な建物だ。
タクシーを降りてインターフォンを押すと、すりガラス仕様の引き戸の内側から小柄な女性が出てきた。あらかじめ訪問する事は鈴木蓮の口から伝えている。
この人が鈴木詠子さんなのか。ピンクのブラウスに灰色のフレアースカート。サラサラのセミロングの髪。五十七歳の優しい顔立ちの女性が出迎えてくれた。
「素敵ね。なんて綺麗なの。わざわざ届けて下さるなんて申し訳ないわね」
「あの、実は、副社長のお部屋の私物を持ってくるように言われておりまして」
「ええ、聞いているわ。吉良君から借りている物を取りにいらしたのよね。吉良君は子供の頃から親友なのよ」
早速、二階の部屋へと案内すると、鈴木蓮の小学校時代のアルバムを得意げに広げながら語り出した。
「うちの蓮ちゃんは子供の頃から親孝行なのよ。母の日には丁寧に肩叩きをしてくれたの。お勉強もできて柔道も得意で本当に自慢の息子なの」
本棚には図鑑や漫画の日本史などの子供向けの書籍が並んでいる。彼は、中学まではここで過ごしていたらしい。床も窓枠もチリひとつなかった。詠子さんが部屋の掃除をしているのだろう。寧々が本棚からお目当てのDVDを取り出していると、彼女は鼻にかかるような声で呟いた。
「うちの子に、たまには帰ってくるように伝えて下さるかしら。心配だわ。お仕事は順調なのかしら。食事は偏ってないかしら」
「副社長はお元気ですよ。お食事は外食が中心のようですね」
彼女は、卓上の花束に視線を落としたまま困ったように言った。
「あらあら家政婦さんがいなくて花瓶がどこにあるのか分からないわ。帰って来たら、花瓶を出して飾ってもらうわ。綺麗なお花ね。もしかして、あなたか選んだのかしら?」
「いえいえ、副社長が選びました」
正確には花屋の店員がチョイスしてくれたのだが……。嘘も方便だ。うん。そういう事にしておこう。
鈴木蓮が持ってくるように指示した映画は三本。『王の男』と『チョコレートドーナッツ』『クライングゲーム』である。これらはニューハーフや同性愛者が出てくる。これは、元々は吉良君の持ち物だと聞いている。という事は、やはり、吉良君はそっち側の人なのだろうか。いや、そんなこと、今はどうでもいいではないか。
「奥様、それでは、そろそろ、おいとまさせていただきます」
深く一礼してから玄関を出た。建物の側面に面した歩道を進む。しかし、急にガラスが割れる音が響いた。
(えっ、副社長のお宅から聞えたんだけど……)
気になって引き返していく。脳卒中などで倒れたのではないかとハラハラしながら、垣根の向こうを覗くと、詠子さんが、裏庭の花壇の前に立っている様子が見えた。詠子さんの顔つきが歪で異様なのだ。彼女の足元には硝子の花瓶が落ちて砕け散っている。
『泥棒猫のくせに、ヘラヘラ笑いやがって! 何様だ。てめぇ。死んじまえ!』
花束を睨みつけながら憤怒の表情で叫んでいる様子に寧々の足が竦んだ。相手に気付かれないように凝視するしかなかった。
『呪ってやる。呪ってやる!』
何かが憑依したかのように花束を片手で掴んで闇雲に振り回して奇声を発し、髪を振り乱して発散している。
『死ね! 死ね!』
ピンク色の薔薇の花びらがヒラヒラと芝生の上に散り落ちていく。何が気に入らなくてヒステリックに荒れているのか理解に苦しむ。やがて、気が済んだのか、死骸のようになった花束を無造作に地面に投げ捨てると室内へと戻ったのだが……。
驚きの余り動けなくなる。
(まるで別人みたいだわ……)
その時、背後から影法師が忍び寄ってきた。トンッ。急に後ろから肩を叩かれ、強張った表情で振り向くと、小柄な老女が立っていた。
チリチリパーマに狐のような吊り眼の庶民的なおばあさんだ。ダイコンの入ったエコバッグを下げたまま、ねめるように見上げている。寧々が後ずさると、まるで踏み込むようにして尋ねてきた。
「あんた、セールスの人かい? ジロジロと鈴木家を覗いていたね」
「あの、怪しい者ではありません。急に妙な声が聞こえたものですから、ちょっと気になってしまって……。こういう者です」
不審者として通報されると困るので名刺を見せると、老女が納得したように頷いた。
「蓮ちゃんの秘書さんかい。何をしに来たんだい?」
「お誕生日のお祝いの花束を渡しに参りました。帰宅しようとしたのですが、詠子さんの様子が急変してしまいまして……」
「秘書の名刺を渡したんじゃないだろうね。そりゃマズイわ。あの人、美人の秘書さんが何よりも嫌いなんだよ」
好奇心と同時に得体の知れない不安が疼いて足元が不安定になる。
「あ、あのう……、あなたはどなたですか?」
「あたしは住み込みの家政婦だよ。蓮ちゃんが引き取られた時からいる。どうやら、あんたも気付いたようだね。先刻のあれは誰にも内緒だよ。実は、かなり前から、詠子さんはオツムがいかれちまってるんだよ」
まさか。
その瞬間、頭のてっぺんからバサッと猛毒の赤い霧をかぶったような気持ちになった。思考がフリーズした。
☆
まさか、このようなキテレツな展開になるとは思ってもみなかった。尋ねずにはいられない。そのまま家政婦の櫻井友子を近くの喫茶店に連れ出していたのである。
「あの、あれはどういう事ですか」
真剣な顔で尋ねると、家政婦は、緑色のソーダのストローをかき混ぜながらツラツラと語り出したのである。
「みんな知ってる事だよ。詠子さんは蓮ちゃんの継母なんだ」
「実の母親は?」
「死んだよ」
長身で派手な顔のアンナさんは米兵を父と日本人の母から生まれたハーフ。キリスト教を母体とする養護施設で育っている。
「付き合ってたんだけど、会長が息子とアンナさんの結婚に愛子様が反対したって話だよ。それで、会長の息子は、仕方なく見合い相手の詠子さんと結婚したのさ。だけど、アンナさんは秘かに子供を産んで育てていたんだよ」
正妻の詠子さんは十年も不妊治療を続けたが妊娠しなかったので、小学校に入るタイミングに合わせて息子を引き取ったのだ。
『蓮ちゃんは詠子さんに懐こうとしていたよ。引き取られた翌月にはアンナさんは亡くなっているからね。そこで暮らすしかないって覚悟をしたんだろうね。傍目には本物の母親のように見えたんだ』
鈴木蓮はよく下痢をして熱を出す。そんな時、詠子さんは献身的に看病した。
『だけどさ、蓮ちゃんが十歳の時に見たんだよ。ゾッとしたね。詠子さんは蓮ちゃんの歯ブラシでトイレや風呂を擦っていた。あたしは蓮ちゃんに耳打ちしてやった。母親を信用するなってね。でも、あの子は何の事か分かっていなかったね』
テストで良い点を取ると嬉しそうに鈴木蓮を褒める。そんな恐ろしい裏の顔があるなんて誰も気付かなかった。家政婦は豹変した際の映像を隠し撮りして会長に見せたのだ。会長が親友の医師に相談したところ、二重人格という診断を下したのである。
『その頃、蓮ちゃんは愛人の子だと言われて学校でイジメを受けていた。なんと、詠子さんは、ネットに蓮ちゃんの悪口を書き込んでたんだ』
まさか、鈴木蓮が苛められる原因を作ったのは詠子さんだったとは……。
そのカラクリに気付いた会長は言葉を失った。
鈴木蓮を侮蔑するクラスメイトを激しく叱咤する姿は聖母そのもので、いい嫁だと思っていたからだ。
ある時、決定的な事件が起きた。
鈴木蓮が中学三年の秋、文化祭の催しで女装コンテストが開かれる事になり、その日、学友の吉良が作ったワンピースを身につけて居間に下りた。少しサイズを直してもらう為だった。すると、なぜか、詠子が豹変してハサミを振り回して詰め寄ったのだ。
『この泥棒猫!』
彼女は鈴木蓮の頬を力任せに叩いてから、凄まじい勢いで罵った。
『てめぇの汚いクルクルパーマを引っこ抜いてやる。このアバズレ、とっとと死んじまえ。てめぇなんか生きてる資格はねぇんだよ!』
死ねと叫びながら狂女のような形相になり、そのまま、ハサミを鈴木蓮の頭に突き刺そうとした。鈴木蓮は、その場に棒立ちになり呆然としていた。
恐ろしい形相に誰もが凍り付いていた。まるで悪魔が乗り移ったかのように見えた。
『詠子、やめなさい』
たまたま、家にいた夫が咄嗟に引き止めて妻を抱え込むと、息子を彼女の狂気から遠ざけた。家政婦は、あの時のおぞましさを振り返りながら言う。
『あの時、自宅に旦那さんがいなければ流血の大惨事になっていただろうね。本当に怖かったよ。旦那様が奥様を抱きしめて寝室へと連れて行ったのさ』
悪魔が憑依したかのように激しい表情になり荒れ狂ってておきながら、詠子さんは、数分後、穏やかに微笑む。それこそ、聖女のように綺麗な声で尋ねたのだ。
『あなた、そんな怖い顔をしてどしたの?』
妻は自分が何をしたのか覚えていなかった。妻の狂気に夫は怯えた。
多重人格……。このまま息子をここに置いたなら妻の病状が悪化するかもしれない。
そこで、拓馬は、高齢の祖父を見守る為という口実で、もうすぐ高校生になる息子を避難させた。以後、病んだ妻との生活に耐えられなくなったのか、拓馬は自殺する。
表向きは交通事故という事になっているが、実は、会長宛の遺書が残されていたというのである。
『あたしは、ずっとあの家にいる。奥様のお目付け役みたいなもんなのさ』
『そうですか。色々と教えてくれてありがとうございます』
この家政婦はペラペラとあちこちで吹聴しているのではないか。内心、そんな風に危惧していると、彼女はキッパリと告げた。
『あんたは秘書だから家庭の事情ってのを知っておくべきだと思って特別に教えてやった。くれぐれも蓮ちゃんのことを頼んだよ』
立ち去る際に彼女は念を押すように言った。
『いいね。あたしが余計な事を喋ったけど、蓮ちゃんには内緒にしておくれ。あの子だって、誰にも知られたくないだろうからね……。プライドってもんがあるからね』
『……そうですね』
余りにも痛ましくて息が詰まりそうになる。そこから、どうやって会社に戻ったのかも覚えていない。
☆
会社に到着してすぐに古い社内報を探してみると、若い頃のアンナさんの写真がみつかった。メデューサみたいだ。すごい癖毛だ。
いつから付き合っていたのかは知らないが、鈴木蓮の年齢から察するに、この頃にアンナは妊娠して退社したようだ。
旦那の不倫だけでもショックなのに、愛人の子を実子として迎えるとなると、詠子さんは心をえぐられるように辛かったに違いない。
(そりゃ、詠子さんが精神的におかしくなるのも無理ないわ)
でも、鈴木蓮に対する仕打ちは酷い。駄目だ。今日は予定通りに仕事が終わりそうにない。明日の朝一番のミーティングの資料を作成して配布しなければならない。残業必須。ジェリーの散歩は運転手の江藤さんに託すことにしよう……。
さぁ、急こう。エクセル画面に文字や数字を打ち込んでいく。しかし、集中力が保てなくて胸がジワジワと締め付けられる。時間はあっというまに過ぎ去っていく。
秘書室から出ようとすると出先から戻って来た鈴木蓮と出くわした。彼は、ちょっと驚いたように寧々を見つめている。
「わりぃ。今日、余計な仕事を頼んだせいで残業させられたみたいだな。この後、一緒に飯でも食わないか? 今日は、誰とも食う約束してないから一人でファミレスに行くしかないって思ってたところなんだ。もちろん、オレが奢るよ。行こうぜ」
食事をするのは構わない。しかし、この人の過去のエピソードがあまりにも哀しい。
戸惑っていると、屈託ない顔で提案してきた。
「あんたが、じいさんと食べる予定だった天麩羅の店はどうだ? ずっと気になっていたんだよ。オレも食ってみたいから一緒に行こうよ。そこ、美味いよな?」
「はい、美味しいです」
寧々の表情がパーッと華やいだ。行きたい。久しぶりに食べたい。それを見た鈴木蓮が店に予約を入れてくれたのだ。
その店の名前は『将軍』
某国の大使館のすぐ近くにある。どっしりとした店構えの老舗の名店で、入ってすぐ前にカウンター席がある。それ以外はすべて個室になっている。
価格帯が高い事もあり、客層は上品で静かだ。政治家や芸能人も訪れる店なので紺色の和服姿の店の従業員さんの所作や言葉遣いも落ち着いている。
黒檀の細長い卓を挟んで座って待っていると、旬の野菜の天麩羅が運ばれてきた。軽やかな衣の健やかなサクッという歯ごたえが心地良かった。後から、上品な油のうま味がジンワリと口の中に染み込み溶け合っている。
「会長は和食が好きで魚介類に目がないんですよ。冬になると、いつも豊岡に行って蟹を食べていたんです」
温泉街を歩き、のんびりと笑い合った。慰安旅行のように楽しかったというのに出張代までいただいている。
デザートの抹茶のプリンを木の匙ですくいながら懐かしい出来事を語っていく。
「あたし、二十七歳のクリスマスとお正月を、会長と共にシンガポールで過ごしました。あれも忘れられません」
その年、ラッフルズホテルに滞在した。そこは超高級ホテルだった。
「陸路でマレーシアにも行ってナマコを使った石鹸と出会いました。うちの石鹸の原材料を提供してくださる工場も視察しましたよ」
「あんたは、クリスマスと正月を上司のじいさんと過ごしたのかよ?」
「はい。華僑の邸さんは会長の大学時代の御学友で我々を招待して下さったんです。大口の商談も兼ねています。お正月だろうとも、あたしが会長に付き添うのは当たり前です。会長一人で海外に行かせる訳にはいきません」
それを聞いた鈴木蓮がフッと片頬を歪めて苦笑している。
「オレが思うに、そんなふうにして公私の区別もなくじぃさんに尽くしていたせいで、あんたは、彼氏との結婚を逃す事になったのかもしれないな。当時の彼氏は、じぃさんに嫉妬したかもしれないぞ。ほったらかされて面白くなかっただろうな」
「あっ……」
そう言われてみると、ホテルで友則とエッチをしていた時、会長から電話がかかってきた事がある。ちょうど友則と合体している最中なのに電話で会長と普通に話したのだ。
あの時の友則の顔は……。そうだ。友則の不満に気付いていたのに寧々は気付かないフリをしていた。別れる直前、寧々は海外に行くことが多くなっていた。
(友則とのデートの回数が減っていたのに気にしてなかった。あたしにも問題はあるってことなのかもしれない)
寧々が過去を振り返っていると、鈴木蓮は考え込むような顔つきで言った。
「オレ、聞いたことがあるんだ。秘書に甘え過ぎたかも知れないってボソッと言ってたことがある。もしかしたら、じぃさんは罪滅ぼしに、あんたに終の棲家を残そうとしたのかもしれないな。でも、それも失礼な話だよな。あんたが素敵な旦那を射止めるチャンスはまだまだもあるのにさ」
彼の声音も表情も柔らかい。思いがけない言葉が胸に健やかに染みてくる。澄んだ硝子のような綺麗な目でまっすぐに見つめられると、何だかくすぐったくなる。
「でも、あなたが言ったんですよ。自惚れるなって……」
「それに関しては訂正する。あんたは綺麗だしスタイルもいい。もっと人生を夢見て貪欲に突き進めばいいんだ。でも、不倫だけは駄目だぞ。それだけはやめておけ」
言いながら、鈴木蓮はシャツの胸ポケットから何かを取り出している。
「これ、あんたのピアスだろう?」
「あっ、副社長のお部屋に落としていたんですね」
「いや、違う。今日、会社の食堂で落としたらしい。営業部の安曇が届けに来たので預かっておいた。あいつ、なんか不服そうにしていたな」
「友則が来たんですか?」
「あいつが、あんたの元カレか? じぃさんから聞いた事がある。二股をかけて、突然、若い女と結婚したんだろう。浮かない顔をしているのは安曇のせいなのか? まさか、まだ、未練があるのか?」
更に踏み込んできた。
「このピアスは安曇からのブレゼントなのか?」
すっかり忘れていた。これは寧々が二十六際のクリスマスに友則からもらったものだが、この際、どうでもいい。
(あたしは、あなたの凄絶な過去を想うと胸が痛くて堪りません)
少しでも気を抜くと発作的にブワッと涙をこぼしそうになるが悟られてはいけない。
「おい、泣くなよ」
鈴木蓮が立ち上がると寄り添い寧々の肩を軽く抱いた。寧々の心に何かが突き上がってきた。どうしても鈴木蓮をハグしたかった。ジワリと胸に熱いものが湧いて涙が溢れている。
「す、すみません……。これじゃ逆セクハラになっちゃいますよね」
「いや、別にいいよ。好きなだけ、気が済むまでオレに抱きついていいよ。アメリカじや、別に普通のハグだ」
「ほ、本当ですかぁ」
ぎゅっ、ぎゅうーーーー。壊れる程に抱きしめたい衝動が胸を駆け巡っていく。彼は、寧々を包むように首筋に片手を添えてくれている。そして、寧々の耳元に顔を寄せて優しく囁いたのだった。
「いいか、安曇は既婚者だぞ。あいつのことは忘れるべきだ」
いいえ。友則のことで泣いているんじゃありませんよ……。
「あいつの何がいいんだ? 男前なのは認めるけどさ」
ええーーー、今、その質問をしますか? しかし、元カレに未練があるから泣いている設定を守らねばならない。
寧々は真面目に振り返る。
「友則にはいいところがたくさんありましたよ」
とにかくタフで前向きだ。そして、男としてセクシーで寧々をいつもクラクラさせてきた。
「なんていうか、友則はキスが上手いんですよ」
ああ、何を口走っているのだろう。赤裸々に、このようなことを暴露している自分が怖くなる。
「あの人は、あたしの足の指を一本ずつ丁寧に舐めるような人なんです。他の男の人と話していたら本気で拗ねるんです。そういう日の友則ってすごくキスが長くてパワーがあるんです」
上司相手にエロい話をするなんてどうかしている。
(だけど、あの人が人生で唯一の彼氏なんだもの……)
高校時代に何人かに告白されたけれど断っている。好みじゃなかった。でも、友則は最初からカッコいいと思ったのだ。もしかしたら、筋肉質な身体が好きなのかもしれない。何だか、そんな気もしてきた。
「ふうん。その時は、あいつも本気で惚れていたんだろうな……」
どうしてなんだろう。こうしていると妙に心地が良く落ち着く。
寧々は子供みたいに鼻をズズッと啜る。
寧々はて日本酒をグイグイ飲んだ。から、。理性のネジが壊れている。けれども、運転をしている鈴木蓮は一滴も飲んでいない。
「オレは、そこまで情熱的に恋人を舐めた事はなかったなぁ。でも、昔、拾ってきた子猫の顔をペロペロと舐めてしまってママに叱られた事があったかな。そうだな。好きなものを舐めたくなる気持ちは分かるかもしれないな」
ママというのは実母のアンナさんのことなのだろう。社内の人達も、みんな鈴木蓮が愛人の子だと知っている。出自に関して揶揄したり、あるいは見下す人もいたに違いない。
ひょっとしたら、鈴木蓮のピリピリした空気は、複雑な生い立ちによって構築されたのかもしれない。
今夜の彼は、寧々をねぎらうつもりでここに連れてきている。なんていい人なんだ。この人の声も好きだ。
(駄目だ。この人とは必要以上に親しくしてはいけないんだってば……)
自分は身の程知らずのオバさんだ。御曹司に恋愛じみた気持ちを抱くなんて我ながらキモイ。自分の図々しさに嫌気がさしてきた。
おずおずと顔を上げると目が合いドキッとした。時間が止まったかのようだ。
けれども、この静寂は無機質な音によって破られたのだ。彼の、紺色のスーツのポケットの中で鳴っているスマホは、なかなか鳴り止みそうにない。電話の主が鈴木蓮と話したいと焦る顔が浮かんだ寧々は遠慮がちに指摘しながらスッと身を引いていく。
「あの、副社長の携帯が鳴ってますよ」
彼は、手をポケットに差し込んでからスマホを握った。
「はい、えっ……。本当ですか!」
少し肩を強張らせていた。どうしたのだろう。不穏な空気が流れている。寧々が、そのまま息詰めるようにして待ちわびていると残念そうな声で呟いた。
「ゲーム会社のカリスマ的なクリエーターが辞めると言ってきたんだよ。うちなんかよりも大手と組む方が堅実だから仕方ない。収益が倍ほど違うからな。でも、参ったな……。新作のプロジェクトが頓挫してしまうかもしれない」
鈴木蓮は、ゲーム会社において運営に関する責任を負っている
「副社長、それならば他のクリエーターを探しましょうよ」
「そうだな。まぁ、ゲーム会社の方は悲観する必要はない。でも、椿薔薇コスメに関しては、新しい価値をつけなければ、遅かれ早かれ、倒産する。古い経営体質を変えるべきなんだ」
もしかしたら、会長が真心を込めて立ち上げた化粧品会社は売却されるかもしれないという噂すら流れ始めている。前に会長は言っていた。
『人との出会いは何よりも大切なものだよ。自分から胸襟を開いて笑顔で接するのが一番だ。わしは、最初の頃、資金繰りに困り果てて首を吊ろうかと思うほど追い詰められた。でも、そんな時、わしを救ってくれたのは、いつも、定食屋で会う浮浪者みたいな恰好の男だった。まさか、彼が、投資家だとは知らなかったのだ』
会長も、ジタバタともがいて事業を続けてきたのだ。寧々は楽観的な希望も込めて彼に告げていく。
「たくさん、色んな会合や飲み会に顔を出せば、きっと何かが生まれます。あちこちで語ったなら、そのうち自分の夢に共感してくれる人との出会いがあるかもしれませんよ」
すると、彼は、フッと目尻の辺りにシワを刻んだ。
「そうだな。さぁ、明日も仕事だ。帰るぞ」
もちろん、寧々は、ハイッと元気よく頷く。自分は上司に恵まれている。
「今夜はありがとうございました。馳走様でした」
こうやって毎日を積み重ねていく事で、もっともっと、鈴木蓮を理解する事が出来るようになるのかもしれない。
彼のことを、もっと知りたいと感じていた。