あなたがいるから世界は美しい

第六章

 ルンルン。傍目には普通に澄ました顔で廊下を歩いているように見えるかもしれないが、スキップしながら鼻歌を口ずさみたくなっている。

「おはようございます」

 秘書課の人達と朝の挨拶を交わしてからデスクに着いた。そして、すぐに鈴木蓮の執務室に入ると、そこの鉢植えに水を注いだり、窓の汚れなどをチェックする。

(うん、今日は、とってもいい天気で気持ちいい)

 鈴木蓮は自分の事を女性として見てくれている。そう思うと面映いような照れ臭いような気持ちになる。

 週明けの月曜日の朝。スケジュールに漏れは無いかと入念に確認した。会社のゲートを通る鈴木蓮の様子が寧々のデスク前のモニターに映っている。

「副社長、おはようございます」

 いつも、彼は、通勤途中に買ったパンをデスクで食べる。寧々は紅茶を淹れようとする。しかし、彼の顔つきは強張っている。細身のスーツのポケットから小さなものを取り出している。

「先刻、エレベーターに乗った時に安曇と一緒になった。あいつ、これを渡してくれってさ」

 ダイヤのピアスである。ハッとして左耳に手を添えると、あるはずのものがなかった。

「金曜日の急用っていうは、安曇のことだったのか?」

 これには深い事情があるのだと告げたい。それなのに、寧々の言い訳を遮断するように背を向けて低く告げている。

「まあ、いいさ。あんたのプライベートに干渉する権利はない。好きにしろ。今日は、お茶はいらない。オレが呼ぶまで部屋には入ってこないでくれ」

 やばい。完全に怒っている。バタンと閉じる音さえも重たい。

 負のオーラに気圧されてへこんでいた。いつもなら、お茶を飲みながら仕事の相談や愚痴をこぼしてくれる。それがコミュニケーションになっていたのだが……。

 今朝の彼は御機嫌斜めの状態だ。氷のように冷ややかな目をしている。

(ああ、もう。友則のせいだよ。どうしてくれるのよ! 頭に来た。許さないからね!)

 寧々は、ダイヤのピアスを握り締めると、すぐさま友則のいる営業部へと駆け込んでいった。時刻は午前十時。友則は自分の席にいる。寧々は、彼を問い詰めようと思い、わざわざ自販機の前に連れ出すと、キッと睨んで一気にまくし立てていく。

「どういうつもり。なんで、ピアスを副社長に渡すの。お昼休みに、あたしに手渡せばいいでしょう」

「あいつへの宣戦布告だよ」

「自惚れないでよ。小鳥ちゃんを助けた恩を仇で返すつもりなの?」

「おまえがオレの家に来たとバレたら都合の悪いことでもあるのか?」

「あるよ。友則は妻帯者なんだよ。憶測や誤解を招くようなことを言わないで」

「……おまえ、まさか、あいつのことが好きなのか?」

「はぁーーー、なんでそうなるの」

 視線を泳がせていると顔を覗き込んできた。

「あいつは七歳も年下だ。しかも、絶対に後継者を産まなくちゃいけない。おまえが産めなかったら、いずれ、若い女を選ぶに決まっている」

 友則は良くも悪くも正直だ。ズバズバと土足で踏み込んでくる。

「オレは、おまえの事を誰よりも愛してる。小鳥に聞いたら寧々と暮らしたいって言ってくれた。なぁ、オレとやり直さないか?」

「友則こそ、馬鹿じゃないの!」

 自販機の隣の奥まった場所に給湯室がある。さすがに、この時間帯に呑気にお茶を飲む人もいないが、パーテーションの脇を誰かが通らないかとヒヤヒヤする。

 ドンッ。友則が寧々を封じ込めた。

 漫画やドラマでお馴染みの壁ドンだ。友則は、低い声で告げている。

「寧々しかいない……。おまえが、副社長と暮らしていると聞いた時はムカムカした。今すぐにでも、おまえをかっさらいたい」

 性急で身勝手な台詞にイラッとなって虫唾が走った。

「本当にやめてよ。こんな所でふざけないでよ!」

 既婚者なのに職場で元カノを口説くの?

 勘弁して欲しい。友則から逃れようと顎を振って懇願しようとした。友則の唇が、寧々の口許へと覆いかぶさりそうになっている。

「友則は身勝手なんだよ!」

 寧々は拒否しようとしてもがく。その瞬間、友則の肩をグイッと引く男が現われた。

 ガラッと空気が変わっている。緊迫感が走る。ガンッと友則の逞しい腕をねじ伏せる早業に寧々は唖然となる。

「安曇、何をやってる。馬鹿な真似はやめろ」

 その人は、冷ややかな顔付きのまま静かに告げた。切れ長の瞳が友則を鋭く見据えている。

「仕事中に何をしている? どうかしているぞ。今すぐ、羽生さんから離れろ。命令だ!」

 さほど力を入れていないのに友則の動きを制御している。思いがけないタイミングで右腕をひねられた友則が顔をしかめている。

 だが、友則は副社長に咎められても引き下がろうとしない。

「副社長、お言葉ですが、オレ達の問題なんです。話し合っていたんです」

 元ラガーマンの友則は鈴木蓮に比べると体が大きい。試合中のボクサーのような気迫で睨み合っている。普通なら副社長に怯むところなのに友則はどこまでも強気だ。

 鈴木蓮は、一閃するような鋭い視線を向けたまま乱暴に踏み出している。

「二人とも、こんなところで遊んでないで仕事をして下さい。羽生さんにはやってもらうことがあります。来て下さい」

 丁寧な言葉遣いとは裏腹に苛立ちのオーラが出ている。

 グイッ。鈴木蓮は引っ手繰るようにして手を繋くど歩き出した。寧々はアタフタしたまま歩き続けようとするが、途中で脚がもつれそうになり、ハァハァと息を切らす。

 なだれ込むようにエレベーターに乗り込んでいた。一連の行動が、まるで夢の中の出来事のように思える。

 さすがに、手を放してくれたが、それでもピリッとした空気は続いている。鈴木蓮は怒気を孕んだような顔をしている。こんなにも寧々の鼓動が高まっている。

 それにして、なぜ、あそこにいると分かったのだろう。

 だが、すぐに、社員の位置情報を確認するシステムのことを寧々は思い出していた。不倫を阻止しようと駆けつけたのかもしれない。執務室へと入った途端、険しい顔で怒鳴りつけたてきたのである。

「どういうつもりなんだ」

 寧々の背中に冷たいものが触れたような気がして心臓が揺れる。喉の奥を詰まらせるようにして見上げていると、益々、彼の顔つきが強張った。

「仕事中なんだぞ。呑気に昔の男に口説かれてんじゃねぇよ」

「友則は半年前から奥さんと別居していまして……。ずっと娘さんと会えなくて、大変みたいなんです」

「あんたは馬鹿なのか。いずれ妻と離婚するなんてのは不倫男の常套句だぞ。そんな言葉を信じて身を任せて破滅した人をオレは知っている。あんたには破滅して欲しくない」

「副社長……?」

 実母のアンナさんの事だろうか? 尋ねたかったのだが、かろうじて呑み込んだ。寧々は、ポケットに入れていたピアスと耳に付けているピアスを握り締めた。彼の前に突き出すと、それをゴミ箱にぶち込みながら宣言する。

 バサッ。

「ピアスを捨てます。友則との思い出の品なんていりません。神に誓って不倫なんてしませ。友則の娘の為に自宅に行きましたが、お子さんの面倒を見ていました」

「だけど、あいつが離婚したら? どうする?」 

 寧々を見据えて声を尖らせている。

「血の繋がらない子供の母親になる。それでいいのか?」

「別に、友則と結婚したいとは思いませんが、小鳥ちゃんの面倒をみることに抵抗はありませんよ」

 キッパリと告げると、彼は、悲しそうに少し瞳を翳らせたままボソッと呟いた。

「でもな、その小鳥ちゃんとやらの本心はあんたには分からないだろう。パパと暮らしたくて、無理して、あんたに媚び続ける事になるかもしれないんだぞ」

 不意に胸に亀裂が入った。自分と接していた際の小鳥ちゃんの健気な顔が目に浮かぶ。

「そうですね……。確かに、その可能性はありますね……」

 多分、彼は、自身の体験を踏まえて語っているのだろう。

「ハッキリ言わせてもらうけど、あんたは隙だらけだ。あいつは、あんたに甘えているんだよ」

「はい。そうですね。都合のいい女だという自覚はありますよ」

 何を思ったのか、鈴木蓮が、いきなり寧々を抱き寄せて耳元で囁いた。

「あんたは都合のいい女なんかじゃない。前にも言っただろう。幸せを掴み取れよ。可能性を狭めて否定するなよ。まだ若いんだよ。恋をしろよ。気になる奴はいないのか」

「いたしとても、そんなの言えません」

「どうして?」

 この声にピクッと顔を上げると寧々の心が大きく揺らいだ。寧々も何か言おうと足掻いていたが、思考が絡まり何も言えなくなる。

 我に返った。ドンドンッと、執務室の扉を誰かが叩いている事に気付き、慌てて振り返る。そして、寧々は目を細めた。鈴木蓮も訝しげに扉を見つめている。それにしても、誰が来たのだろう。

「どなたですか?」

 寧々は扉を開ける。すると、飛び込むようにして踏み込んできたのは友則だった。こいつの図々しさは国宝級だ。

「友則、こんな所にまで来ないで。ここがどこだか分かっているの?」

 すると、思いがけない言葉を告げられた。

「いいから、見てくれよ。営業部の若い奴が見つけたんだよ。おまえを誹謗中傷する妙な書き込みがある。事実と違うことが書かれている」

 友則はタブレットを差し出して机に置いている。どうやら、ネット上のサイトを見せたいようである。

「おい、どういうことだ?」

 鈴木蓮が顔色を変えて画面を覗き込んできた。すると、そこには寧々の個人名や勤め先がしっかりと書き込まれているものだから寧々は呆然としていた。

『椿薔薇の秘書の羽生寧々は風俗で働いている。とんでもない淫乱なアバズレ女だ。子供を何度も堕胎している。あの女には生きる資格などない。早く死ね。夜な夜なおまえの不幸を願い、どこまでも呪ってやる』

 確認するように友則に尋ねた。

「これって何なの?」

「何だろうな。オレも見たばかりなんだわ。芸能人とかの悪口を書くなら分かるけどさ、なんで、寧々をターゲットにするんだ。意味が分かんねぇよ」

 他にも訳の分からない誹謗中傷が書かれている。寧々は読む気にはなれない。

「こういう掲示板って若い子は使わないよな」

 友則の言葉に顔を曇らせていると、鈴木蓮が静かに告げた。

「見たところ、この掲示板は何にも盛り上がってないようですね。弁護士に頼んで書き込んだ人を特定しておく。羽生さんも災難だったね」

 この件でウダウダと話す暇はない。社用車の運転手から電話がかかってきた。約束の時間に鈴木蓮が来ないので寧々に尋ねているのだ。

「申し訳ありません。もうしばらくお待ち下さい」

 この後、千葉のホテルで見本市と昼食会が行なわれる。早く出かけないと遅刻してしまう。寧々は封筒やバッグに必要なものが入っているのかを確認しながら言った。

「副社長、急いでください」

 鈴木蓮はツンと澄ました顔で言う。

「安曇、君も職場に戻ってくれ。この件に関してはあまり騒がないで欲しい。そんなことをしたら相手の思うツボだ」

 必要な書類を抱えたまま鈴木蓮は立ち去ったのだが、どこかしら彼の表情が不自然だった。書き込みをした相手に心当たりがありそうな、そんな雰囲気だったのだ。

「あっ、やべぇ、オレも行くわ」

 友則は時間を気にしているのか、すぐに部屋から出て行った。ポツンと残された寧々は、窓際に設置している観葉植物に水を与えながらも考えた。

(誰の仕業なのかな。何の目的で書いたんだろう? どういうこと?)

 風俗というのはキャバクラの事だと思う。しかし、子供を堕胎というのは事実無根。会社の人には誤解されたくない。その後、寧々は落ち着かない気持ちになった。

 他の秘書の人達や総務や受付の女子がキャッキャッと背後で笑う度にドキッとなるが、アイドルやお笑いタレントやユーチューバーの事で盛り上がっているようである。いちいち意識過剰になってはいけない。世間の皆さんは、さほど寧々に興味などないらしいが、それでも、精神的にもキツかった。

 退社時刻になった頃、友則からのメールが目に付いた。

『寧々、仕事終わりに話をしよう』 

 無視する事にする。それにしても、誰が書き込みをしたのだろう。胸がザワつく。気になることだらけだ。モヤモヤしたものが際限なく広がっている。 

 寧々は色々と不安になり顔を曇らせていったのだった。
           
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