あなたがいるから世界は美しい
第七章
その三日後のことである。
久しぶりに桑井からランチに誘われたのだ。桑井も、中傷の書き込みを見ていたようだ。冷房の効いた店内で蕎麦を豪快に食べながら語りかけてきた。
「あたしが思うに誹謗中傷したのは奥さんかもしれないよ。あいつの奥さん、けっこうイタイからね。きっと嫉妬して書いたのよ」
「でも、なんで嫉妬するの」
「寧々が職場に戻って来たって事を聞いただけで、奥さんが嫉妬してもおかしくないわよ。何しろ、安曇は寧々に昔からゾッコンだったからね」
桑井が酒やけしたハスキーボイスで言う。
「安曇のお弁当ってさ、ぜーんぶ冷凍食品なんだよね。たまに、すごく凝ったおかずの時もあるけどね、それって、デパートの幕の内弁当をそのまま詰めてるだけなの」
「きっと子育てで忙しいのよ」
主婦は、お惣菜や冷凍食品を利用すればいい。桑井を見つめ返すと、彼女も分かってるわよというように苦笑した。
「だけど、安曇は、そういうのがすごく嫌だったみたいよ。それでも、何とか夫婦として暮らしていたのよ。でもね、半年ぐらい前から明らかに様子が変になったの。安曇は、まるで殺人鬼みたいな顔で出社してたんだよ。ほーんと、怖かったわ」
桑井は友則の大学のサークルの先輩だ。
「思えば、ちょうどあの時から別居してたんだろうね。安曇は、その日以来、弁当を持って来なくなった。それでね、寧々が会社に戻ってきてから虚ろだった安曇も溌剌としてきたって訳よ」
どう相槌を打てばいいのか悩む。
「あいつ、あんたに未練がある。気をつけなさいよ。奥さんに目を付けられたら大変だよ。慰謝料なんて払えないでしょう?」
「だから、友則とは何もないってば……。ヨリを戻す気もないよ」
「だけど、ないものを証明するのってのは、悪魔の証明だっけ?」
あれを書き込んだ人物が友則の妻かどうかが気になってきた。もしも、友則の奥さんが犯人ならば、あの種の嫌がらせが続いてしまう可能性がある。
「安曇は大学ではラグビーの花形選手だったの。奥さん、ラグビーの試合を見て一目惚れしたそうだよ。憧れていた人と近付きたくて合コンをぶちあげて、見事に略奪結婚に成功したって訳なのよ」
そんな事を聞くと、書き込みは椿さんのような気もしてきた。墨汁を垂らしたような影が胸に際限なく広がっていく。相手が誰だろうとも、妄言を書かれては困る。
とにかく、友則とは距離を置きたい。だから、この日の夕方、友則の会いたいという誘いに乗って、きちんと話す事にした。
ファミレスの駐車場にはお迎えの車が待っている。長居するつもりはない。
「あたしはすぐ帰るよ。それで、話って何なの」
「今朝、オレの欄を書いて離婚届を郵送したんだよ。改めて言わせてくれ。おまえが好きなんだ。ずっと好きだった」
「そんな訳ないでしょう。新婚時代は奥さんと仲が良かったでしょう」
子供が生まれた時、あなたは照れ臭そうに輝くような笑みをこぼしていたじゃないか。
「育児休暇も取得していたよね?」
「それでも、ずっと心の底では寧々のことが気になっていた。おまえが退社してからキャバクラで勤めているっていう噂を耳にした時はマジでショックだった」
そんな呟きに対して、寧々は不快そうに眉をしかめて非難していく。
「ねぇ、前にも思ったんだけど、そういうのは奥さんに対して失礼だよ。上手くいかないのも当たり前だよ。つーか、ネットの書き込みってさ、奥さんの仕業なんじゃないの?」
「いや、違う」
「なんて言い切れるの?」
「ちゃんと句読点があった。椿は、絶対に句読点をつけない」
「……」
「それに、アバズレなんて古めかしい言葉を椿は知らねぇよ。普通はビッチと書くぞ。この女は卑しい私生児ですとか、何じゃそりゃ。こんなの昭和生まれじゃないと出てこない。蛇の巣のような汚い髪とかはマジで意味が分からんわ。ゴーコンだっけ? 頭が蛇の魔物が西洋にいたよな。つまり、化け物って言いたいのかな? マジでキモイ文章だな」
アバズレというフレーズを前にどこかで聞いた気がする。ムズムズしてきた。思い出せそうで思い出せない……。
「副社長は二人の男をクビにしているから、犯人はそいつらかもしれない」
一人は就職浪人の二十代のインテリ男性。もう一人は五十代後半の小太りのオジさん。
「どっちもコミュ力がねぇからクビになっているんだぜ。オレが思うにおっさんの方が犯人なんだよ。ちょっとした腹いせに書いたのさ」
そういえば、マーケティングの女性社員が言っていたっけ。コスメサイトのレビューは、言葉遣いで年齢や性別などが透けて見える。
寧々を中傷した言葉には歪み切った憎悪が滲んでいる。相手を見下そうという必死さがあるように見受けられる。
蛇の巣のような頭。意味が分からないと寧々も思ったのだが、その時、天啓のように浮かんだ。髪の毛……。まさか、天然パーマに対する侮蔑はまさか! 寧々の中で息苦しいほどの鼓動が波打ってきた。そして、その女性の顔が浮かんだ。
(もしかして、あれを書いたのは詠子さん?)
花束を叩き回っていた光景がフラッシュバックして身が竦みそうになる。鈴木蓮の母親への憎しみは強烈で異様だ。完全に病んでいる。寧々とアンナさんをゴチャ混ぜにして憎む可能性はある。確か、心理学では投影というのではなかったか……。
例えばこうだ。
禿げ頭の人を見てゾッとした恐怖を抱く女性がいたとする。幼い頃に、虐待してきた父親も禿げていて、それで、剥げた人すべてに嫌悪感と恐怖を抱かずにはいられない。そんなカラクリがあるという。
短大の心理学の授業で聞いた事がある。
もしかしたら、詠子さんは、アンナさんへの憎しみを寧々に重ねているのかもしれない。
いやいや、あの書き込みの犯人が詠子さんなら逆に安心だ。街で会っても逃げられるもの。
(だけど、詠子さんのことは誰にも言えないよ)
寧々は深刻な顔で考え込んでいると、ポンと頭を撫でられた。
「おい、寧々……。そんな顔するな」
オレがついていると言いたげな友則と目が合った。そういえば、昔、仕事でミスをしてへこんでいたら慰めてくれたっけ。寧々は少しソワソワしたように言った。
「でもね、クビなった人達は無関係だと思うよ」
その人達が濡れ衣を着せられたりしたら気の毒だ。
「こめん。あたし、忙しいの。副社長の家に犬がいるの。あたし、ペットシッターの仕事も兼ねているの。もういいよね。話したいことはそれだけなら帰るね」
「待ってくれよ。ここからが本題なんだ」
急に、友則の雰囲気がシリアスなものへと変化した。感情を押し殺したような声で言う。
「次女が生まれた時、おかしいと気付いた。椿とセックスしていない時期に妊娠している。オレ、椿に黙って親子鑑定をしたんだよ。そしたら、次女とオレは他人同士だと分かった」
えっ。なんですって。気持ちが凍りつくような恐ろしい事実に唖然となる。
「二回も鑑定したから間違いないよ。結果は同じ。オレ、疑心暗鬼になって小鳥も調べた。でも、幸い、小鳥とは親子だったからホッとしたよ」
それで、友則が妻に鑑定書を突きつけると白状した。次女はホストの子。ごめんなさいと妻は泣いて詫びたのだが、どうしても許せなくて友則はマンションを出たというのである。
「すっかり我慢の糸が切れちまった。椿は、謝れば済むと思っている。事実が分かったからには、次女とは親子関係を続けられない」
「それなら、あたしもそうだよ。仮に、あたしが友則と結婚したとして、あたしが、小鳥ちゃんを愛せると思っているの?」
「思っている。おまえのことは信じられる」
「そんなの分かんないよ。友則にバレないように小鳥ちゃんをネチネチと苛めるかもしれないじゃない。ていうか。次女はどうなるの! 汚い大人の事情に振り回されて見捨てたりしたら可哀想だと思わないの!」
「本当の父親がその子を愛せばいいんだよ! オレが小鳥を何よりも愛したように愛せばいい。それが親だ!」
その表情には迫力が滲んでいる。
「オレは、自分の本音を押し殺して暮らしてきた。この七年間、椿の夫として精一杯のことをしてきた。我侭な椿に嫌気がさしても浮気もせずに働いた。好きでもない女と暮らした結果がこれなのかよ! オレは寧々が好きなのに、椿と結婚したんだ」
「そんなの自業自得だよ!」
あの当時の惨めさや、絶望や、憤りが、まざまざと蘇ってきて吐き気を感じる。同僚からの憐憫の視線に曝されて、針で心を掻き毟るような痛みを感じて逃げるように退社してしまったのだ。ドロップアウトしてからの寧々は社会の片隅で細々と生きてきた。
本当はキャバクラで働きたくなかったけれど、そうするしかなかった。
身体を酷使して友則を忘れようとした。それほど、友則の裏切りは寧々を痛めつけたのだ。
(クタクタになるまで働いたわ。そうやって、やっと、あなたの事を忘れたんだよ……。なぜ、今更、あたしを混乱させるの! ひどいよ!)
あなたの胸板をパラパラに刻んで壊してやりたい。力任せに、友則の顔を叩いて怒りをぶつけてズタズタにしてやりたい。自分と同じ苦しみを体験させてやりたい。
(こっちの気持ちも知らないで何なのよーーー)
しかし、友則は、寧々に対して最大限の熱量を放っている。
「今からでも遅くない。オレ、やっぱり、おまえと結婚する運命なんだ。やり直そう」
「勝手なこと言わないでよ!」
やっと、リセットしたのに……。
「愛している。今度こそ、おまえを大切にする」
まさかこんな展開になるなんて……。頭がどうにかなりそうだ。話したくない。逃げ去るようにして離れようとする。
「さよなら!」
泣いてしまいそうになる。でも、強引に気持ちを押し込むために唇を結ぶ。
運転手の江藤に動揺を悟られたくない。レクサスの後部席に乗り込むと険しい顔のまま仕事をしているフリをして、パソコンを開いた。雨雲のレーダーをチェックすると予報は雷雨を告げていた。
林道に入る頃に強い雨が降り出した。江藤が穏やかに告げた。
「今日はジェリーの散歩はやめといた方がいいですね。雷が落ちるかもしれないよ。わたしも畑に行くのは無理だな」
「今日は予定より遅くなって申し訳ありませんでした」
「いやいや。とんでもない。それじゃ、また、明日」
いつものようにレクサスを車庫に入れると江藤は去っていった。彼は、林の向こうの民家で暮らしている。この時の寧々は、荷物を玄関先に置いたまま放心していた。どうしても、まっすぐに部屋に入る気になれなかったからだ。
ザーザー。乱暴な雨音。蜘蛛の糸のようにも見える雨の線を見上げたまま、唇を噛み締めていく。ノイズのように、友則の言葉が寧々の脳内を引っ掻いている。
『寧々、やり直そう』
今更、告げるなんてどうかしている。自分が結婚に失敗したからといって言い寄ってくるなんて卑怯だ。
どんな気持ちで、あなたを忘れたと思っているのよ?
寧々は夢遊病者のような足取りのままフラフラと歩き出す。
前にも、こうやって暗い森の中を歩いたことがあった。あの時も完全に自分を見失っていた。オールの無い船に乗っているみたいだ。どうすればいいのか。指標を失っている。心細くなって泣きたくなる……。
七年の歳月が無駄になっている。せっかく乗り越えたのに……。今更、こんな形で残酷な真実を伝えないで欲しい。
張り裂けんばかりに大声で叫んでやりたい。何度も悲鳴のような雄叫びをあげながら、ゲリラ豪雨に打たれ続けていた。全部、ぜーんぶ、洗い流してしまいたい。
膝をついて座り込むと天を仰いだまま悔しげに地面を叩く。泥が跳ね上がる。
身体は冷えているのに気持ちは熱を帯びてショートしそうだ。
新たな出会いを求めて突き進む勇気もなかった。魂の抜け殻みたいになって暮らしてきた。
ザーザー。友則の言葉で揺れている。元カレを選んだら楽だ。都合がいい。年老いた両親も安心するだろう。そうよ。友則となら気楽に暮らせる。でも、安易なところに逃げ込もうとする自分に腹が立つ……。
(我ながら情けないわ。ほんとに嫌になっちゃうわ)
腕時計に目を向けると午後七時半になっていた。空腹で眩暈を感じた。雨に打たれて肌寒くてクシャミをした。
早く熱いシャワーを浴びたかった。パンツスーツの膝から下が泥にまみれている。玄関に入ってすぐに上着とスボンを脱いだ。濡れたシャツも脱ぎ捨てて下着姿になってから、泥のついた衣服を綺麗にくるんで自室へと歩こうとしたのだが……。
ワンワン。おかえりなさい。
ジェリーが駆け寄ってきた。ジャンプするように二本足で立って襲い掛かってくる。うわっと重みを感じた寧々は後方にのけぞった。受け止められずに仰向けになる。
ジェリーに顔を嘗め尽くされていた。ジェリーの熱烈な反応に困っていると、車のヘッドライトが差し込んできた。エンジン音が止まっている。まずい。あの人が帰ってきた。
(早く、移動しなきゃ!)
目の前に階段が見える。そこを曲がれば自室だ。移動しようと焦ったがいけなかった。濡れた足で廊下を走ろうとして無様に前のめりに転んでいた。脱いだ服を抱えていたおかげで、無防備に右の肩を打ちつけて悶絶しいた。
いてててっ。早く、どこかに移動したい。それなのに無情にも玄関の扉が開いてしまうのだ。まずい。彼が、飛び込むように駆け込んでくる。
「おい、どうした!」
鈴木蓮が驚いて声をあげたまま血相を変えて飛んできた。必死の形相で寧々の顔を覗き込もうとしているけれど、寧々は目を合わせるのも恥しくて視線を逸らした。
「いえ。あの……。何でもありません……」
集めた衣服で身体を隠しながら怯えたように後ずさっていると、彼は鋭く尋ねた。
「誰に襲われた? 犯人の顔は見たのか?」
「えっ?」
どうやら、彼は寧々が誰かに襲われたと勘違いしている。
この恰好ならば、最悪の事態を浮かべるのは当然だ。
いえ。あの、違いますよ……。口をパクパクさせていると、次の瞬間、寧々の身体が浮いていた。寧々を運ぶと、応接間の長椅子に横たわったのだ。そして、真剣な声で問いかけてきた。
「怪我をしたのか? 殴られたのか?」
尋ねる瞳が濡れたように揺らめいている。もどかしさを感じているような声音にドキッとなる。そんなふうに見つめられると胸が痛む。ごめんなさい。寧々は申し訳無さそうに首を振る。
「そ、そういうんじゃないんです。本当に違うんです。外に出た時に雨に濡れちゃって……。行儀悪く、玄関先で脱いで歩こうとして……。あたし一人で勝手に転んだだけなんです!」
「本当なのか?」
「ちちろん、本当ですよ」
恥しいジェリーが粗相をした時、どこかに隠れようとする気持ちが分かる。三十四歳にもなって人様の家で何をしているのだろう。
いたたまれなくなり目を瞑っていると、雨に濡れた冷たい頬に手を添えられてハッとなる。彼は、指先で寧々の頬を包み込み、指先でなぞるようにして囁いている。
「……そっか。あんたが無事で良かったよ」
えっ。何が起こったの?
寧々の濡れた前髪を優しく憩うようにして撫でている。優しい仕草だった。思いがけない言葉と温もりに驚いて顔を上けだ
彼の顔が近付いてきた。ヒラリと花びらがと超の羽が重なるように淡く額に口付けられた。
結晶が生まれたように時が止まる。寧々は潤んだ瞳を向けながら想った。
(この人のことが好きだ……)
こんなふうに視線を注がれると、心臓が高鳴り心にジワッと温かなものが広がる。寧々は、そっと彼の胸に頬をうずめると、消えてしまいそうな声で囁いた。
「心配かけてごめんなさい……。あたしって、ほんとに馬鹿ですね……」
ゴロゴロ。遠くで雷鳴が響いている。抗い難い何かが寧々の胸に息づいている。
彼は、何か告げようとしているが、次の瞬間、家中の電気が一斉に、プツンと消えてしまった。
ピクッとした寧々は鈴木蓮にしがみつく。彼は、寧々の耳元で囁いた。
「大丈夫だよ。オレがいるから」
☆
先刻の優しい額へのキスは何だったのか。深い意味なんてなかったのかもしれない。彼は、何事もなかったかのように言う。
「やべぇ、停電だな。きっと、雷が近所で落ちたんだ」
「えっ……」
館ごと揺らすような雷が轟いた直後、いきなり、ハプニングが起きた。大きな雷の音に怯えたジェリーが玄関マットの上でオシッコを漏らした。独特のニオイで分かる。
ゴロゴロ。不気味な轟音が続いている。死ぬほどに震えているのだろう。シェリーがキュンキュンと鳴き続けている。
「大丈夫だよ。何も怖くないからね。ほらほら、だっこしてあげるね。はいはい、何も怖くないよ。いい子だね。よしよし」
ジェリーの背中に覆いかぶさるようにして抱きつくと、鈴木蓮が携帯で寧々を照らしながら言った。
「頼むから、着替えてくれ。つーか、風邪引くぞ。早く服を着ろよ。オレ、この場で性犯罪をやらかすかもしれないぞ」
「えっ?」
寧々を見下ろす彼の顔は暗くてよく見えないが、彼は視線を逸らしている。
寧々は顔を真っ赤にして慌てて私室に飛び込む。着替えてから、玄関マットの汚れを拭うとしたが暗くてよく分からない。
そうしていると、彼が台所からランタンを持ってきた。
「雷が落ちたのかもしれない。停電が長引くとやっかいだな。オレ、今夜は家で飯を食うつもりだったんだ。といっても、インスタントのラーメンだけどな」
「実は、あたしも夕飯を食べてないんです。すぐに作りますね。一緒に食べましょう」
カセットのコンロなら使える。温かいものを食べたいのでラーメンの袋を取り出してサッサッと作った。キャベツと舞茸。そこに卵を入れると出来上がり。
「ここであんたと食うのって初めてだな。家では、公私混同はしないようにしていたからな」
二人は野菜炒りのラーメンを食べ終えていた。迷ったように黙っていたが、やがて、ポソッと告白した。
「実は、話さなくちゃならない事がある。あんたを中傷した犯人に心当たりがあるんだ」
喉の底に何か詰まったように苦しげに眉根を寄せている。
「いきなり言うのも何だが……、オレは愛人の子なんだ」
「……そうですか」
頷いていると、彼は寂しげに微笑んだ。
「ああ、その顔……。前から知ってたのか。そりゃそうだよな。社内のみんなが知ってる事だよ。小学校の同級生も近所の人も知っていたよ」
出来る事なら言いたくないのだろう。彼は、長い溜め息をついて睫毛を伏せていた。積年の葛藤のようなものが口許に滲んでいる。
「実は、うちの家族は複雑なんだ。オレが実家を出て、じいさんと暮らし始めたのには理由がある。カッコ悪い話だけど聞いてくれ……」
詠子さんの家の家政婦から聞いた事と、ほとんど同じ内容だった。
しかし、新しく知ったこともある。詠子さんは不妊治療を9年も続けたが、ある時を境についに諦めた。乳癌になり、子供を諦めたというのだ。
「オレは七歳の春に鈴木家の養子になった。そのせいで、父の妻、つまり、今の母さんの精神は蝕まれていった」
辛い過去を引っ張り出すようにして、詠子さんが自分にしてきた事を話そうとしている。
彼の気持ちを思うと切なくなる。
「母さんの事を優しいおばさんだと思っていた。オレの好きなおやつを必ず用意してくれた。血の繋がりはないけれど、うまくやれていると思っていたんだけれども甘かった。少しずつ見えないところで歪みが生まれてたようなんだ」
語りながらも、その瞳をくすませている。
「小学校の時、吉良とオレは苛めの対象となった。オレは愛人の子とからかわれて、吉良はオカマと笑われた」
二人の絆は強くなり、私立の名門中学に進んだ。坊ちゃんが集う男子校だった。吉良君は想い人に告白するとイジメの対象になった。
「そいつ、吉良のことを馬鹿にして気持ち悪いと罵って小突きまわして笑い者にしたんだよ。それでオレは、そいつを殴ったんだ」
その際に相手は鼻の骨を折ってしまった。
「オレが全面的に悪いっていう空気になったけど平気だったよ。オレには吉良がいた。やがて、二人で公立の高校に入ってからは嫌なことは全部忘れていたんだ。吉良は、うちに下宿していた。一緒に自転車で通ったよ。とにかく、昔、誹謗中傷を書き込んだのは母さんだった。本人も無意識でやっているんだよ」
そこで、彼は恥じ入るように唇を噛み締めた。
「あんたには申し訳ない事をしたな。秘書だったオレのママと、あんたの存在をごっちゃにしてしまったのかもしれないあの人は、意識が飛んでいる間の出来事を何も覚えてないんだよ」
深く頭を下げる鈴木蓮。寧々は切ない気持ちを軋ませるようにして聞いていた。
「こうなったのはオレにも責任がある。母さんも必死だった。いい母親になろうと頑張り過ぎて頭がおかしくなった。ああいう事は、実の親子でも起こり得ることなんだ」
周囲からいい母親だと褒めてもらいたくて子供に怪我をさせたり病気にさせる。そういう症例が実際にある。
「オレが十歳の時、母さんは、オレを助けようとしてトラックに轢かれた。咄嗟に、オレを庇って脚を折っている。あの時の気持ちは本物だと思う。だけど、母さんは病んでいる。だから、女性の秘書は採用しないでおこうと思っていたんだ」
こんな事を告白するのは辛いようだ。それでも詳しく伝えようとしている。
「こないだはショックだった。オレを生む前、何度か堕胎していたんだなぁって思うとさ言葉を失ったよ……。オレの知らないママの過去を晒されてショックだった」
「もう、やめましょう。この件に関して副社長が気にすることはありません。楽しい事を話しませんか?」
空気を変えたかった。すると、彼が、子供みたいに頬杖ついたまま言った。
「それじゃ、あんたの家族について教えてくれよ。どんな感じなんだ?」
「父親は無口なんですけど、おっとりしていて真面目ですよ。あっ、そうそう。おっぱい猫事件があります」
おっぱい猫。この奇妙なフレーズに鈴木蓮が食いついた。寧々はここぞとばかりに語り出す。
「ユーチューブで猫が若い女の子のオッパイに吸い付く動画あるんですよ」
エッチなものではない。猫は飼い主をママだと思っているのか人間のオッパイを吸うのだ。寧々は猫の愛らしさにロメロメになった。
「試しに、妹と母が、うちの猫もオッパイに吸い付くかどうか確認したんですよ。ブラジャーを外して裸になって猫を抱きかかえて実験しました。でも、うちの猫は迷惑そうにしてましたよ。それで、妹が、あたしにも試せって言うから授乳しようとしたら、本格的に怒ってプイッと立ち去ったんです」
猫にオッパイを吸わせようとするなんて変な家族だ。説明しながらも寧々は吹き出してしまう。
「だけど、その翌日の朝、なーんと、猫の太郎が父の胸に抱かれていたんですよ。着替えようとした父親の乳首にいきなり吸い付いたそうなんですよ」
「ええーー。マジかよ?」
「マジです。うちの子、父さんのオッパイを無心で吸ってました」
その光景に家族みんながケラケラと笑った。父親は驚きながらも猫に吸い付かれて、まんざらでもない顔をしていた。その後、猫の太郎は団子虫みたいに丸まってゴロゴロという音を鳴らしながら父に甘えていた。
「でも、Youtubeの女性の乳首には反応しているって事は、彼女の乳首は相当小さいって事だよねって母達と話したんです」
「寧々ちゃんの家族はあったかいな……」
はぁ? 今、寧々ちゃんと言いましたか? 驚いていると明かりが灯った。応接間と違って、キッチンは眩しいほどに明るい。鈴木蓮が立ち上がった。
「さてと、御馳走様。オレさ、明日、出張で朝が早いから、もう寝るわ」
寧々の中でスケジュール帳の文字が浮かんだ。
明日、この人は大阪へと飛ぶことになっている。一泊二日の出張。大阪の名士の方達との会合に出席した後、様々な展示会に足を運ぶ。
そうか。だから、今日は、いつもより早く帰宅したのだと気付いた寧々はサッと立ち上がる。
「さぁさぁ、もう遅いですよ。副社長、明日は五時に起きなきゃですよ。早く寝てくださいね! さぁ、お願いです! 何なら、荷作りを手伝いましょうか? 朝、起きられますか?」
「いや、荷造りの必要はない。それに。オレを起こす必要ない。あんたは、週末、ゆっくりと過ごしてくれ」
その夜。寧々は何度も何度も寝返りを打っていた。
なかなか寝付けなかった。あのシーンを思い浮かべずにはいられない。
真剣な顔で駆けつけてくれた。抱きかかえてくれた。あの刹那、眩暈を促がすほどに優しい温もりを感じて嬉しかった。額へのキスに意味なんてないのかもしれない。でも、泣いている寧々を慰めようとしてくれた。それで充分だ。
激しかった雨が止んでいる。
(詠子さんとのことも告白してくれたわ)
この人は誤解されがちだけど。みんなが思うよりも純粋で繊細だ。優しい人だ。そんな彼の事を密かに想わずにはいられない。
もしかしたら、自分の片思いのまま終わってしまうのかもしれない。それでもいいから、この人のことを支えたい。
でも、その翌週、思いがけない出来事に遭遇することになる。
久しぶりに桑井からランチに誘われたのだ。桑井も、中傷の書き込みを見ていたようだ。冷房の効いた店内で蕎麦を豪快に食べながら語りかけてきた。
「あたしが思うに誹謗中傷したのは奥さんかもしれないよ。あいつの奥さん、けっこうイタイからね。きっと嫉妬して書いたのよ」
「でも、なんで嫉妬するの」
「寧々が職場に戻って来たって事を聞いただけで、奥さんが嫉妬してもおかしくないわよ。何しろ、安曇は寧々に昔からゾッコンだったからね」
桑井が酒やけしたハスキーボイスで言う。
「安曇のお弁当ってさ、ぜーんぶ冷凍食品なんだよね。たまに、すごく凝ったおかずの時もあるけどね、それって、デパートの幕の内弁当をそのまま詰めてるだけなの」
「きっと子育てで忙しいのよ」
主婦は、お惣菜や冷凍食品を利用すればいい。桑井を見つめ返すと、彼女も分かってるわよというように苦笑した。
「だけど、安曇は、そういうのがすごく嫌だったみたいよ。それでも、何とか夫婦として暮らしていたのよ。でもね、半年ぐらい前から明らかに様子が変になったの。安曇は、まるで殺人鬼みたいな顔で出社してたんだよ。ほーんと、怖かったわ」
桑井は友則の大学のサークルの先輩だ。
「思えば、ちょうどあの時から別居してたんだろうね。安曇は、その日以来、弁当を持って来なくなった。それでね、寧々が会社に戻ってきてから虚ろだった安曇も溌剌としてきたって訳よ」
どう相槌を打てばいいのか悩む。
「あいつ、あんたに未練がある。気をつけなさいよ。奥さんに目を付けられたら大変だよ。慰謝料なんて払えないでしょう?」
「だから、友則とは何もないってば……。ヨリを戻す気もないよ」
「だけど、ないものを証明するのってのは、悪魔の証明だっけ?」
あれを書き込んだ人物が友則の妻かどうかが気になってきた。もしも、友則の奥さんが犯人ならば、あの種の嫌がらせが続いてしまう可能性がある。
「安曇は大学ではラグビーの花形選手だったの。奥さん、ラグビーの試合を見て一目惚れしたそうだよ。憧れていた人と近付きたくて合コンをぶちあげて、見事に略奪結婚に成功したって訳なのよ」
そんな事を聞くと、書き込みは椿さんのような気もしてきた。墨汁を垂らしたような影が胸に際限なく広がっていく。相手が誰だろうとも、妄言を書かれては困る。
とにかく、友則とは距離を置きたい。だから、この日の夕方、友則の会いたいという誘いに乗って、きちんと話す事にした。
ファミレスの駐車場にはお迎えの車が待っている。長居するつもりはない。
「あたしはすぐ帰るよ。それで、話って何なの」
「今朝、オレの欄を書いて離婚届を郵送したんだよ。改めて言わせてくれ。おまえが好きなんだ。ずっと好きだった」
「そんな訳ないでしょう。新婚時代は奥さんと仲が良かったでしょう」
子供が生まれた時、あなたは照れ臭そうに輝くような笑みをこぼしていたじゃないか。
「育児休暇も取得していたよね?」
「それでも、ずっと心の底では寧々のことが気になっていた。おまえが退社してからキャバクラで勤めているっていう噂を耳にした時はマジでショックだった」
そんな呟きに対して、寧々は不快そうに眉をしかめて非難していく。
「ねぇ、前にも思ったんだけど、そういうのは奥さんに対して失礼だよ。上手くいかないのも当たり前だよ。つーか、ネットの書き込みってさ、奥さんの仕業なんじゃないの?」
「いや、違う」
「なんて言い切れるの?」
「ちゃんと句読点があった。椿は、絶対に句読点をつけない」
「……」
「それに、アバズレなんて古めかしい言葉を椿は知らねぇよ。普通はビッチと書くぞ。この女は卑しい私生児ですとか、何じゃそりゃ。こんなの昭和生まれじゃないと出てこない。蛇の巣のような汚い髪とかはマジで意味が分からんわ。ゴーコンだっけ? 頭が蛇の魔物が西洋にいたよな。つまり、化け物って言いたいのかな? マジでキモイ文章だな」
アバズレというフレーズを前にどこかで聞いた気がする。ムズムズしてきた。思い出せそうで思い出せない……。
「副社長は二人の男をクビにしているから、犯人はそいつらかもしれない」
一人は就職浪人の二十代のインテリ男性。もう一人は五十代後半の小太りのオジさん。
「どっちもコミュ力がねぇからクビになっているんだぜ。オレが思うにおっさんの方が犯人なんだよ。ちょっとした腹いせに書いたのさ」
そういえば、マーケティングの女性社員が言っていたっけ。コスメサイトのレビューは、言葉遣いで年齢や性別などが透けて見える。
寧々を中傷した言葉には歪み切った憎悪が滲んでいる。相手を見下そうという必死さがあるように見受けられる。
蛇の巣のような頭。意味が分からないと寧々も思ったのだが、その時、天啓のように浮かんだ。髪の毛……。まさか、天然パーマに対する侮蔑はまさか! 寧々の中で息苦しいほどの鼓動が波打ってきた。そして、その女性の顔が浮かんだ。
(もしかして、あれを書いたのは詠子さん?)
花束を叩き回っていた光景がフラッシュバックして身が竦みそうになる。鈴木蓮の母親への憎しみは強烈で異様だ。完全に病んでいる。寧々とアンナさんをゴチャ混ぜにして憎む可能性はある。確か、心理学では投影というのではなかったか……。
例えばこうだ。
禿げ頭の人を見てゾッとした恐怖を抱く女性がいたとする。幼い頃に、虐待してきた父親も禿げていて、それで、剥げた人すべてに嫌悪感と恐怖を抱かずにはいられない。そんなカラクリがあるという。
短大の心理学の授業で聞いた事がある。
もしかしたら、詠子さんは、アンナさんへの憎しみを寧々に重ねているのかもしれない。
いやいや、あの書き込みの犯人が詠子さんなら逆に安心だ。街で会っても逃げられるもの。
(だけど、詠子さんのことは誰にも言えないよ)
寧々は深刻な顔で考え込んでいると、ポンと頭を撫でられた。
「おい、寧々……。そんな顔するな」
オレがついていると言いたげな友則と目が合った。そういえば、昔、仕事でミスをしてへこんでいたら慰めてくれたっけ。寧々は少しソワソワしたように言った。
「でもね、クビなった人達は無関係だと思うよ」
その人達が濡れ衣を着せられたりしたら気の毒だ。
「こめん。あたし、忙しいの。副社長の家に犬がいるの。あたし、ペットシッターの仕事も兼ねているの。もういいよね。話したいことはそれだけなら帰るね」
「待ってくれよ。ここからが本題なんだ」
急に、友則の雰囲気がシリアスなものへと変化した。感情を押し殺したような声で言う。
「次女が生まれた時、おかしいと気付いた。椿とセックスしていない時期に妊娠している。オレ、椿に黙って親子鑑定をしたんだよ。そしたら、次女とオレは他人同士だと分かった」
えっ。なんですって。気持ちが凍りつくような恐ろしい事実に唖然となる。
「二回も鑑定したから間違いないよ。結果は同じ。オレ、疑心暗鬼になって小鳥も調べた。でも、幸い、小鳥とは親子だったからホッとしたよ」
それで、友則が妻に鑑定書を突きつけると白状した。次女はホストの子。ごめんなさいと妻は泣いて詫びたのだが、どうしても許せなくて友則はマンションを出たというのである。
「すっかり我慢の糸が切れちまった。椿は、謝れば済むと思っている。事実が分かったからには、次女とは親子関係を続けられない」
「それなら、あたしもそうだよ。仮に、あたしが友則と結婚したとして、あたしが、小鳥ちゃんを愛せると思っているの?」
「思っている。おまえのことは信じられる」
「そんなの分かんないよ。友則にバレないように小鳥ちゃんをネチネチと苛めるかもしれないじゃない。ていうか。次女はどうなるの! 汚い大人の事情に振り回されて見捨てたりしたら可哀想だと思わないの!」
「本当の父親がその子を愛せばいいんだよ! オレが小鳥を何よりも愛したように愛せばいい。それが親だ!」
その表情には迫力が滲んでいる。
「オレは、自分の本音を押し殺して暮らしてきた。この七年間、椿の夫として精一杯のことをしてきた。我侭な椿に嫌気がさしても浮気もせずに働いた。好きでもない女と暮らした結果がこれなのかよ! オレは寧々が好きなのに、椿と結婚したんだ」
「そんなの自業自得だよ!」
あの当時の惨めさや、絶望や、憤りが、まざまざと蘇ってきて吐き気を感じる。同僚からの憐憫の視線に曝されて、針で心を掻き毟るような痛みを感じて逃げるように退社してしまったのだ。ドロップアウトしてからの寧々は社会の片隅で細々と生きてきた。
本当はキャバクラで働きたくなかったけれど、そうするしかなかった。
身体を酷使して友則を忘れようとした。それほど、友則の裏切りは寧々を痛めつけたのだ。
(クタクタになるまで働いたわ。そうやって、やっと、あなたの事を忘れたんだよ……。なぜ、今更、あたしを混乱させるの! ひどいよ!)
あなたの胸板をパラパラに刻んで壊してやりたい。力任せに、友則の顔を叩いて怒りをぶつけてズタズタにしてやりたい。自分と同じ苦しみを体験させてやりたい。
(こっちの気持ちも知らないで何なのよーーー)
しかし、友則は、寧々に対して最大限の熱量を放っている。
「今からでも遅くない。オレ、やっぱり、おまえと結婚する運命なんだ。やり直そう」
「勝手なこと言わないでよ!」
やっと、リセットしたのに……。
「愛している。今度こそ、おまえを大切にする」
まさかこんな展開になるなんて……。頭がどうにかなりそうだ。話したくない。逃げ去るようにして離れようとする。
「さよなら!」
泣いてしまいそうになる。でも、強引に気持ちを押し込むために唇を結ぶ。
運転手の江藤に動揺を悟られたくない。レクサスの後部席に乗り込むと険しい顔のまま仕事をしているフリをして、パソコンを開いた。雨雲のレーダーをチェックすると予報は雷雨を告げていた。
林道に入る頃に強い雨が降り出した。江藤が穏やかに告げた。
「今日はジェリーの散歩はやめといた方がいいですね。雷が落ちるかもしれないよ。わたしも畑に行くのは無理だな」
「今日は予定より遅くなって申し訳ありませんでした」
「いやいや。とんでもない。それじゃ、また、明日」
いつものようにレクサスを車庫に入れると江藤は去っていった。彼は、林の向こうの民家で暮らしている。この時の寧々は、荷物を玄関先に置いたまま放心していた。どうしても、まっすぐに部屋に入る気になれなかったからだ。
ザーザー。乱暴な雨音。蜘蛛の糸のようにも見える雨の線を見上げたまま、唇を噛み締めていく。ノイズのように、友則の言葉が寧々の脳内を引っ掻いている。
『寧々、やり直そう』
今更、告げるなんてどうかしている。自分が結婚に失敗したからといって言い寄ってくるなんて卑怯だ。
どんな気持ちで、あなたを忘れたと思っているのよ?
寧々は夢遊病者のような足取りのままフラフラと歩き出す。
前にも、こうやって暗い森の中を歩いたことがあった。あの時も完全に自分を見失っていた。オールの無い船に乗っているみたいだ。どうすればいいのか。指標を失っている。心細くなって泣きたくなる……。
七年の歳月が無駄になっている。せっかく乗り越えたのに……。今更、こんな形で残酷な真実を伝えないで欲しい。
張り裂けんばかりに大声で叫んでやりたい。何度も悲鳴のような雄叫びをあげながら、ゲリラ豪雨に打たれ続けていた。全部、ぜーんぶ、洗い流してしまいたい。
膝をついて座り込むと天を仰いだまま悔しげに地面を叩く。泥が跳ね上がる。
身体は冷えているのに気持ちは熱を帯びてショートしそうだ。
新たな出会いを求めて突き進む勇気もなかった。魂の抜け殻みたいになって暮らしてきた。
ザーザー。友則の言葉で揺れている。元カレを選んだら楽だ。都合がいい。年老いた両親も安心するだろう。そうよ。友則となら気楽に暮らせる。でも、安易なところに逃げ込もうとする自分に腹が立つ……。
(我ながら情けないわ。ほんとに嫌になっちゃうわ)
腕時計に目を向けると午後七時半になっていた。空腹で眩暈を感じた。雨に打たれて肌寒くてクシャミをした。
早く熱いシャワーを浴びたかった。パンツスーツの膝から下が泥にまみれている。玄関に入ってすぐに上着とスボンを脱いだ。濡れたシャツも脱ぎ捨てて下着姿になってから、泥のついた衣服を綺麗にくるんで自室へと歩こうとしたのだが……。
ワンワン。おかえりなさい。
ジェリーが駆け寄ってきた。ジャンプするように二本足で立って襲い掛かってくる。うわっと重みを感じた寧々は後方にのけぞった。受け止められずに仰向けになる。
ジェリーに顔を嘗め尽くされていた。ジェリーの熱烈な反応に困っていると、車のヘッドライトが差し込んできた。エンジン音が止まっている。まずい。あの人が帰ってきた。
(早く、移動しなきゃ!)
目の前に階段が見える。そこを曲がれば自室だ。移動しようと焦ったがいけなかった。濡れた足で廊下を走ろうとして無様に前のめりに転んでいた。脱いだ服を抱えていたおかげで、無防備に右の肩を打ちつけて悶絶しいた。
いてててっ。早く、どこかに移動したい。それなのに無情にも玄関の扉が開いてしまうのだ。まずい。彼が、飛び込むように駆け込んでくる。
「おい、どうした!」
鈴木蓮が驚いて声をあげたまま血相を変えて飛んできた。必死の形相で寧々の顔を覗き込もうとしているけれど、寧々は目を合わせるのも恥しくて視線を逸らした。
「いえ。あの……。何でもありません……」
集めた衣服で身体を隠しながら怯えたように後ずさっていると、彼は鋭く尋ねた。
「誰に襲われた? 犯人の顔は見たのか?」
「えっ?」
どうやら、彼は寧々が誰かに襲われたと勘違いしている。
この恰好ならば、最悪の事態を浮かべるのは当然だ。
いえ。あの、違いますよ……。口をパクパクさせていると、次の瞬間、寧々の身体が浮いていた。寧々を運ぶと、応接間の長椅子に横たわったのだ。そして、真剣な声で問いかけてきた。
「怪我をしたのか? 殴られたのか?」
尋ねる瞳が濡れたように揺らめいている。もどかしさを感じているような声音にドキッとなる。そんなふうに見つめられると胸が痛む。ごめんなさい。寧々は申し訳無さそうに首を振る。
「そ、そういうんじゃないんです。本当に違うんです。外に出た時に雨に濡れちゃって……。行儀悪く、玄関先で脱いで歩こうとして……。あたし一人で勝手に転んだだけなんです!」
「本当なのか?」
「ちちろん、本当ですよ」
恥しいジェリーが粗相をした時、どこかに隠れようとする気持ちが分かる。三十四歳にもなって人様の家で何をしているのだろう。
いたたまれなくなり目を瞑っていると、雨に濡れた冷たい頬に手を添えられてハッとなる。彼は、指先で寧々の頬を包み込み、指先でなぞるようにして囁いている。
「……そっか。あんたが無事で良かったよ」
えっ。何が起こったの?
寧々の濡れた前髪を優しく憩うようにして撫でている。優しい仕草だった。思いがけない言葉と温もりに驚いて顔を上けだ
彼の顔が近付いてきた。ヒラリと花びらがと超の羽が重なるように淡く額に口付けられた。
結晶が生まれたように時が止まる。寧々は潤んだ瞳を向けながら想った。
(この人のことが好きだ……)
こんなふうに視線を注がれると、心臓が高鳴り心にジワッと温かなものが広がる。寧々は、そっと彼の胸に頬をうずめると、消えてしまいそうな声で囁いた。
「心配かけてごめんなさい……。あたしって、ほんとに馬鹿ですね……」
ゴロゴロ。遠くで雷鳴が響いている。抗い難い何かが寧々の胸に息づいている。
彼は、何か告げようとしているが、次の瞬間、家中の電気が一斉に、プツンと消えてしまった。
ピクッとした寧々は鈴木蓮にしがみつく。彼は、寧々の耳元で囁いた。
「大丈夫だよ。オレがいるから」
☆
先刻の優しい額へのキスは何だったのか。深い意味なんてなかったのかもしれない。彼は、何事もなかったかのように言う。
「やべぇ、停電だな。きっと、雷が近所で落ちたんだ」
「えっ……」
館ごと揺らすような雷が轟いた直後、いきなり、ハプニングが起きた。大きな雷の音に怯えたジェリーが玄関マットの上でオシッコを漏らした。独特のニオイで分かる。
ゴロゴロ。不気味な轟音が続いている。死ぬほどに震えているのだろう。シェリーがキュンキュンと鳴き続けている。
「大丈夫だよ。何も怖くないからね。ほらほら、だっこしてあげるね。はいはい、何も怖くないよ。いい子だね。よしよし」
ジェリーの背中に覆いかぶさるようにして抱きつくと、鈴木蓮が携帯で寧々を照らしながら言った。
「頼むから、着替えてくれ。つーか、風邪引くぞ。早く服を着ろよ。オレ、この場で性犯罪をやらかすかもしれないぞ」
「えっ?」
寧々を見下ろす彼の顔は暗くてよく見えないが、彼は視線を逸らしている。
寧々は顔を真っ赤にして慌てて私室に飛び込む。着替えてから、玄関マットの汚れを拭うとしたが暗くてよく分からない。
そうしていると、彼が台所からランタンを持ってきた。
「雷が落ちたのかもしれない。停電が長引くとやっかいだな。オレ、今夜は家で飯を食うつもりだったんだ。といっても、インスタントのラーメンだけどな」
「実は、あたしも夕飯を食べてないんです。すぐに作りますね。一緒に食べましょう」
カセットのコンロなら使える。温かいものを食べたいのでラーメンの袋を取り出してサッサッと作った。キャベツと舞茸。そこに卵を入れると出来上がり。
「ここであんたと食うのって初めてだな。家では、公私混同はしないようにしていたからな」
二人は野菜炒りのラーメンを食べ終えていた。迷ったように黙っていたが、やがて、ポソッと告白した。
「実は、話さなくちゃならない事がある。あんたを中傷した犯人に心当たりがあるんだ」
喉の底に何か詰まったように苦しげに眉根を寄せている。
「いきなり言うのも何だが……、オレは愛人の子なんだ」
「……そうですか」
頷いていると、彼は寂しげに微笑んだ。
「ああ、その顔……。前から知ってたのか。そりゃそうだよな。社内のみんなが知ってる事だよ。小学校の同級生も近所の人も知っていたよ」
出来る事なら言いたくないのだろう。彼は、長い溜め息をついて睫毛を伏せていた。積年の葛藤のようなものが口許に滲んでいる。
「実は、うちの家族は複雑なんだ。オレが実家を出て、じいさんと暮らし始めたのには理由がある。カッコ悪い話だけど聞いてくれ……」
詠子さんの家の家政婦から聞いた事と、ほとんど同じ内容だった。
しかし、新しく知ったこともある。詠子さんは不妊治療を9年も続けたが、ある時を境についに諦めた。乳癌になり、子供を諦めたというのだ。
「オレは七歳の春に鈴木家の養子になった。そのせいで、父の妻、つまり、今の母さんの精神は蝕まれていった」
辛い過去を引っ張り出すようにして、詠子さんが自分にしてきた事を話そうとしている。
彼の気持ちを思うと切なくなる。
「母さんの事を優しいおばさんだと思っていた。オレの好きなおやつを必ず用意してくれた。血の繋がりはないけれど、うまくやれていると思っていたんだけれども甘かった。少しずつ見えないところで歪みが生まれてたようなんだ」
語りながらも、その瞳をくすませている。
「小学校の時、吉良とオレは苛めの対象となった。オレは愛人の子とからかわれて、吉良はオカマと笑われた」
二人の絆は強くなり、私立の名門中学に進んだ。坊ちゃんが集う男子校だった。吉良君は想い人に告白するとイジメの対象になった。
「そいつ、吉良のことを馬鹿にして気持ち悪いと罵って小突きまわして笑い者にしたんだよ。それでオレは、そいつを殴ったんだ」
その際に相手は鼻の骨を折ってしまった。
「オレが全面的に悪いっていう空気になったけど平気だったよ。オレには吉良がいた。やがて、二人で公立の高校に入ってからは嫌なことは全部忘れていたんだ。吉良は、うちに下宿していた。一緒に自転車で通ったよ。とにかく、昔、誹謗中傷を書き込んだのは母さんだった。本人も無意識でやっているんだよ」
そこで、彼は恥じ入るように唇を噛み締めた。
「あんたには申し訳ない事をしたな。秘書だったオレのママと、あんたの存在をごっちゃにしてしまったのかもしれないあの人は、意識が飛んでいる間の出来事を何も覚えてないんだよ」
深く頭を下げる鈴木蓮。寧々は切ない気持ちを軋ませるようにして聞いていた。
「こうなったのはオレにも責任がある。母さんも必死だった。いい母親になろうと頑張り過ぎて頭がおかしくなった。ああいう事は、実の親子でも起こり得ることなんだ」
周囲からいい母親だと褒めてもらいたくて子供に怪我をさせたり病気にさせる。そういう症例が実際にある。
「オレが十歳の時、母さんは、オレを助けようとしてトラックに轢かれた。咄嗟に、オレを庇って脚を折っている。あの時の気持ちは本物だと思う。だけど、母さんは病んでいる。だから、女性の秘書は採用しないでおこうと思っていたんだ」
こんな事を告白するのは辛いようだ。それでも詳しく伝えようとしている。
「こないだはショックだった。オレを生む前、何度か堕胎していたんだなぁって思うとさ言葉を失ったよ……。オレの知らないママの過去を晒されてショックだった」
「もう、やめましょう。この件に関して副社長が気にすることはありません。楽しい事を話しませんか?」
空気を変えたかった。すると、彼が、子供みたいに頬杖ついたまま言った。
「それじゃ、あんたの家族について教えてくれよ。どんな感じなんだ?」
「父親は無口なんですけど、おっとりしていて真面目ですよ。あっ、そうそう。おっぱい猫事件があります」
おっぱい猫。この奇妙なフレーズに鈴木蓮が食いついた。寧々はここぞとばかりに語り出す。
「ユーチューブで猫が若い女の子のオッパイに吸い付く動画あるんですよ」
エッチなものではない。猫は飼い主をママだと思っているのか人間のオッパイを吸うのだ。寧々は猫の愛らしさにロメロメになった。
「試しに、妹と母が、うちの猫もオッパイに吸い付くかどうか確認したんですよ。ブラジャーを外して裸になって猫を抱きかかえて実験しました。でも、うちの猫は迷惑そうにしてましたよ。それで、妹が、あたしにも試せって言うから授乳しようとしたら、本格的に怒ってプイッと立ち去ったんです」
猫にオッパイを吸わせようとするなんて変な家族だ。説明しながらも寧々は吹き出してしまう。
「だけど、その翌日の朝、なーんと、猫の太郎が父の胸に抱かれていたんですよ。着替えようとした父親の乳首にいきなり吸い付いたそうなんですよ」
「ええーー。マジかよ?」
「マジです。うちの子、父さんのオッパイを無心で吸ってました」
その光景に家族みんながケラケラと笑った。父親は驚きながらも猫に吸い付かれて、まんざらでもない顔をしていた。その後、猫の太郎は団子虫みたいに丸まってゴロゴロという音を鳴らしながら父に甘えていた。
「でも、Youtubeの女性の乳首には反応しているって事は、彼女の乳首は相当小さいって事だよねって母達と話したんです」
「寧々ちゃんの家族はあったかいな……」
はぁ? 今、寧々ちゃんと言いましたか? 驚いていると明かりが灯った。応接間と違って、キッチンは眩しいほどに明るい。鈴木蓮が立ち上がった。
「さてと、御馳走様。オレさ、明日、出張で朝が早いから、もう寝るわ」
寧々の中でスケジュール帳の文字が浮かんだ。
明日、この人は大阪へと飛ぶことになっている。一泊二日の出張。大阪の名士の方達との会合に出席した後、様々な展示会に足を運ぶ。
そうか。だから、今日は、いつもより早く帰宅したのだと気付いた寧々はサッと立ち上がる。
「さぁさぁ、もう遅いですよ。副社長、明日は五時に起きなきゃですよ。早く寝てくださいね! さぁ、お願いです! 何なら、荷作りを手伝いましょうか? 朝、起きられますか?」
「いや、荷造りの必要はない。それに。オレを起こす必要ない。あんたは、週末、ゆっくりと過ごしてくれ」
その夜。寧々は何度も何度も寝返りを打っていた。
なかなか寝付けなかった。あのシーンを思い浮かべずにはいられない。
真剣な顔で駆けつけてくれた。抱きかかえてくれた。あの刹那、眩暈を促がすほどに優しい温もりを感じて嬉しかった。額へのキスに意味なんてないのかもしれない。でも、泣いている寧々を慰めようとしてくれた。それで充分だ。
激しかった雨が止んでいる。
(詠子さんとのことも告白してくれたわ)
この人は誤解されがちだけど。みんなが思うよりも純粋で繊細だ。優しい人だ。そんな彼の事を密かに想わずにはいられない。
もしかしたら、自分の片思いのまま終わってしまうのかもしれない。それでもいいから、この人のことを支えたい。
でも、その翌週、思いがけない出来事に遭遇することになる。