あなたがいるから世界は美しい

第八章

「やだ。副社長、スマホを忘れてる」

 正午前に、彼は、社用車に乗って外に出かけている。お昼は、ゲーム会社の人達とホテルの一階でランチの予定になっている。午後一時から三時までは私用で街をうろうろすると言っていた。午後三時には、また会社に戻ってくる。それでも、スマホなしでは不便だ。

 彼のスマホを握り締めてタクシーに飛び乗った。

 月に一度のランチ。乙女ゲームの会社の主用なメンバーとホテルのバイキングを利用しているのだ。和気藹々と食事をしながら、闊達な意見交換をするのが慣わしとなっている。

 その会社は子持ちの女性や結婚したての女性スタッフも多い。女性に優しい環境になっており、会社の一階には保育園もある。プログラマーやディレクターや宣伝部も女子が大半を占めているというところに特徴がある。まさしく、女の園。

 鈴木蓮はゲームの開発に深くかかわっている。

 コスメとゲームの融合のプロジェクトを何としても成功させるつもりでいるので、頻繁にクリエーター達とミーティングをしているのである。

 寧々は、ゲーム会社からほど近い三ツ星のホテルに入った。鈴木蓮がいると思われるレストランへと進む。

 主婦と思われる少し着飾った女性もいれば、欧米のビジネスマンも混じっている。しかし、なぜか、鈴木蓮の姿はなかった。

 時刻は午後一時。もう食べ終えて解散したのかもしれない。ちなみに、寧々は昼食を食べていない。せっかくだから、ここで軽く昼食をとろうと思った。
 
 食べていると、背後にいる女性二人組みの話が耳に入ってきた。

 背もたれが衝立のようになっている。互いの姿は見えないが、寧々は、ケーキを取りに行っている彼女達の姿をチラリと見つめる。

 黒縁の眼鏡をかけた意識高そうなボブヘアの四十路の女性と、髪の先をピンクに染めた不思議ちゃん系のメイクの二十代後半の女性が何やら熱く語っていた。

「ねーねー、絶対に、あの二人、付き合ってるよね。みんなで別荘に行った時、蓮様と棚部さん、二人きりで話し込んでいた。蓮様が、棚部さんの頭をポンポンしていた。いやーん、羨ましい」
 
「棚部ちゃん、言ってましたよ。卒論の事で相談していただけだって。相談しているうちに泣き出してしまったそうですよ」
 
 不思議ちゃんは心配そうに語っているというのに、ボブの女史は小鼻を膨らませている。

「きゃーー。恋愛ドラマの展開そのものじゃん。蓮様ってガード固そうに見えるけど、一旦、心を許した相手には笑顔を垂れ流しにしちゃうじゃない? こんなあたしにも親切にしてくれるしさぁ。旦那のDVに悩んでたら、いい弁護士を紹介してくれて、マジで助かったわ」
 
「つーかさぁ、棚部ちゃんも鈴木ボスも継子だからシンパシーを感じてんじゃね?」

 どうやら、鈴木蓮と棚部さんの噂をしているらしい。息を詰めて聞き込む。

「似た者同士が惹かれ合うってのは恋愛のセオリーよ。あの二人、くつついちゃえばいいのにね。不動産王の中年男と結婚なんてバカバカしいわ。蓮様と駆け落ちでもすりゃいいのよ。蓮様も二十七才なのよ。そろそろ結婚してもいい年頃よ」

 寧々は、途中から、自分が何を食べているのかよく分からなくなってきた。背後にいる人達の口からは、棚部と蓮という名が頻繁に出ている。

 鈴木蓮と棚部杏さんの事だろうか。寧々は、耳を背後に寄せて聞き続ける。

「先週の土曜に棚部さんのマンションの部屋から、蓮様が出て来るのを見ちゃった。ほら、うちのマンション、棚部さんのマンションの真向かいなのじゃない?」

 ボブヘアの女史の言葉に、不思議ちゃんは鼻白んだように返答している。

「ああ、その日のことなら、あたしも棚部さんの部屋にいましたよ。別に、二人切りじゃありませんよ。もしも、二人切りだとしても、棚部さんは恋心とかないと思うな」

「だけど、棚部さんと蓮様って、どう考えても怪しいわよ。いつも、棚部さんの事を気にかけているんだもの。今だって、二人で、いそいそと出かけているじゃない」

「仕事ですよ」

「そりゃ、マーケティングの事で棚部さんを連れまわすのは分かるわよ。だけど、蓮様、棚部さんの卒業論文の手伝いまでやってるじゃん。そこまでやるなんて、怪しいわ」

「鈴木ボスと棚部ちゃんと仲がいいのは認めるッスよ。だけど、棚部ちゃんの好みは豪傑なマッチョですからね。何しろ、理想の人は筋骨隆々の逞しいレイン様ですよ。鈴木ボス、どっちかというと憂いのある繊細キャラでしょう」

 不思議ちゃんがデザートを食べ終える頃、ボブヘアの女史が席を立った。

「あっ、こんな時間だ。それじゃ、あたし、デスクに戻るわ」

「うぃーす。あたしは、ここで、もうちょっと食べてから帰りますね。キャラクターごとのサブシナリオに行き詰っちゃって苛々してまーす。何か、甘いものでも食べないとやってられないっスよ」

 二人が話していたのは鈴木蓮の事なのか……。ザワザワしたものが胸を駆け巡る。

 悶々としていると、寧々の携帯が鳴った。知らない番号だったが念の為に出てみると、鈴木蓮の声が聞こえてきた。

「あっ、羽生さんですか。僕です。鈴木です。スマホをデスクに置き忘れてしまいました。今、知人と一緒なので、その電話を借りてかけています」

 知人って誰?

「えっと、副社長は、どこにおられるのですか?」

 この時間帯はランチとゲーム会社のスタッフとの打ち合わせとなっている。でも、あなたは、ここにいない。

「ああ、今、美形執事がいるカフェにいます。執事達に男性メークに関する悩みや要望を聞いているところです」

 ゴクッ。寧々は唾を飲み込む。

「どなたかと一緒にいるんですよね?」

「棚部さんです。ほら、前にも話しましたよね?」

「はい。もちろん存じております」

 ああ、やはり、鈴木蓮は棚部さんに何か特別な感情を持っているのかもしれない。

「午後三時半にはここを出て会社に戻ります。社用車を今から言う場所に到着させておいて下さい」

「はい。かしこまりました」

 表向きは淡々と呟きながらもモヤモヤしていた。

 真実を知りたいという欲求が募る。

 棚部杏という女性はどういう存在なのだろう。寧々は、彼の休日の過ごし方など知らない。ましてや、彼に恋人がいるのかどうかも、わからない。

 いずれにせよ、棚部さんが、鈴木蓮にとって大切な存在だという事は間違いない。

(もしかして、恋愛感情を抱いているのかな)

 胸がツンと針で刺されたような痛みが続いている。心が乱れる。執事喫茶に踏み込んで、二人がどんな顔で過ごしているのか見てみたいような気がしてきたけれど、でも、そんな事は出来やしない。

 寧々は、和洋中の多彩な料理をお皿に乗せたまま、半分以上を残していた。喉元が塞がった様な気持ちになり、どうしても食べる気が起きなかった。しばらく、隅っこの席でボーッとしていた。

(棚部さん……) 

 前にチラリと見たけれど、もう一度、寧々は、棚部さんのインスタをチェックしてみる。清楚な顔立ち。、涼やかな佇まい。

 サラサラと心が浄化されていくかのような清らかさがある。

 自分が男なら、こういう人に惹かれる。鈴木蓮は、こんなにも素敵な女性と一緒にいる。だけど、それは何なの?

 秘書の自分が上司の恋を気にするなんてどうかしている。

(いいわね。寧々、邪念は捨てるのよ)

 とはいうものの不安の根か張り付いている。寧々は沈んだ顔つきで会社に戻ると、資料の作成に取り掛かる。すると、午後三時半に会社に鈴木蓮が戻って来た。

寧々とのミーティングをこなすと、彼は、予定通りに来客と接見した。寧々は、自分を落ち着かせようと何度も思ったのだが……。

「あっ……。間違えた」

 客人にコーヒーを淹れようとして、うっかり、紅茶を用意してしまった。どうかしている。

 寧々も、自分の仕事に集中しようとしたけれども心が揺れてしまい定まらなかった。うっかり、鈴木蓮の出張の経費の処理を忘れてしまっている。おかげで経理の桑井に叱られてしまった。お礼状の作成もはかどらなくて、やっと出来たと思ったら、相手の名前を打ち間違えてしまっている。ああ、駄目だ。寧々は落ち込んで机に突っ伏した。

(ああ、やだ。マジで情けないわ……。ああ、あたし、何やってんのよ!)

 どこかチグハグした気持ちを抱えながら働いた。そして、鈴木蓮がスマホを忘れた日から五日後の金曜日。

 午前十一時半に受付から連絡が入った。

「棚部杏という女性が副社長に届けたいものがあるとおっしゃって、本日中の面会を希望されています。どうなされますか?」

 その内容を寧々が鈴木蓮に伝えると、彼は、驚いたように目を見張った。

「すごいな。もう完成したのか」

 そして、すぐに部屋に通して欲しいと告げたのだ。この時の彼は妙に嬉しそうだった。

「何だか嬉しそうですね」

「実は、棚部さんに、椿薔薇の幹部を説得する為のブレゼンの資料を作ってもらっていたんだ。例の、ゲームとコスメの融合による経済効果を分かってもらう為に、彼女が頑張ってくれたよ。それと、男性用コスメのニーズに合わせての企画書や市場戦略も一緒に練ったんだ。なくてはならないパートナーだよ。あっ、あの子、まだお昼を食べてないと思うから、お弁当を用意してくれるかな」

「松竹梅、どのランクにしますか?」
     
「値段うんぬんよりも、棚部さん、小食だから、あっさりしたものがいいかな。サンドイッチとか、そんな感じでいいよ。オレの部屋で一緒に食べて話を詰めるから、しばらく二人切りにさせてくれ」

「はい。かしこまりました……」

 しばらくすると、棚部さんが寧々のデスクの目の前までやってきた。

「わたくし棚部と申します。正午に副社長と会う約束をしているのですが……」

「はい。承っております。もうじき、副社長もいらっしゃいます」

 彼女は寧々の前で会釈するとあどけない童女のようにニコッと微笑んだ。

 予想していたよりも小柄で華奢なのだ。寧々が百六十五センチ。おそらく、棚部さんは百五十ちょっとだろう。サラサラとした長い髪からはシャンプーの良い香りが漂い、清潔感の塊のように、どこもかしこも健やかで清らかだ。

 彼女の佇まいには濁りや澱みがない。

「どうぞ。こちらに……。お昼の用意をしました。サンドイッチです。飲み物はどうされますか? メロンソーダやミックスジュースなども食堂にはありますよ」

 メニュー表を見せると、彼女は控え目に呟いた。

「あの、レモネードをお願いします」

 彼女は大きな鞄を提げていた。その中にはパソコンや大量の資料が入っているようである。

 寧々が、サンドイッチと飲み物を運んで戻ってくると、続いて先刻まで電話で商談をしていた鈴木蓮はすぐに応接室に入ってきた。

「棚部さん、よく来てくれたね。忙しいのに、ほんと、ごめんね」

 鈴木蓮は棚部さんの対面に座り、何やら話し始めている。

「あっ、羽生さん。君も、お昼休みをとってくれ。オレ達は仕事しながら食事をする。そうだな。一時間後に温かいミルクティーを頼むよ。棚部さんも、それでいいよな」

「はい。もちろんです」

 サンドイッチというのは片手で食事をする為に生まれた食べ物だと誰かが言って言ったっけ。

 寧々は、休憩室でお弁当を咀嚼しながらも劣等感に苛まれていた。

 自分は有能な吉良君の身代わりに過ぎない。いや、身代わりにさえもなれない。

 桑井によると、吉良は、同じ大学の経営学部を卒業していて、いざとなったら代役を務められるほどに経営に精通しているという。秘書というよりも参謀なのだ。

 多分、棚部さんも、鈴木蓮を唸らせるような高い知識やスペックを持っている。

 寧々のやっている事は従者に近い。鈴木蓮の衣服を整えたり、デスクを整頓したり、スケジュールを把握して遅刻しないようにしたり……。

(こんなの、あたしでなくても出来る)

 応接室から出る直前、ドアを閉める際に、チラッと中を覗くと、二人は書類とパソコンを挟んで話していた。どちらも話に夢中になっている。あんな風に彼に信頼されている彼女が羨ましかった。棚部杏の賢そうな瞳の美しさが目に焼きついた。ああ、叶わないのだと感じる。胸に苦いものが込み上げてくる。

 結局、お弁当を半分以上残していた。そして、昼休みを終えて社屋に戻った寧々は、言われていたようにミルクティーを淹れ始めた。

 そして、片手でお盆を持って、応接室をノックしてから入ったのだが、一瞬、目を疑った。

「えっ?」

 棚部さんが、立っている鈴木蓮のはだけた胸元に顔を寄せている。彼は、ネクタイを外して、シャツのボタンを二つ外している。なぜか、彼女は、そんな彼に密着して肌に頬を寄せている。その光景を脳が認知した直後、手元の力が抜け落ちてお盆ごと床に落としてしまった。

 ガッシャン。ミルクティーが床を汚している。マイセンのカップがどちらも割れてしまっている。地面も寧々の心も混乱して泣き出しそうになりながらしゃがみ込む。

 しまった。客人を前にして、とんだ失態をやらかしてしまっている。

「も、申し訳ありません」
 
 慌てて、破片を盆に拾い集めようとするが、うっかり、指を切ってしまった。

「いたっ!」

 彼らの邪魔などしたくない。そんな想いに駆られていると、棚部さんが、フワッとシャンプーの香りを漂わせながら近付いてきた。

「大丈夫ですか? 血が出てますよ」

「羽生さん、片付ける前に血を止めた方がいいですよ。医務室に行きますか?」

「いえ、別に縫う様な怪我ではありません」
 
 寧々は青褪めている。すると、棚部さんが大きな鞄からお薬ポーチのようなものを取り出してきた。

「あの、見せてください。破片が皮膚の中にあるようならピンセットで取りますね。それに、消毒液も絆創膏もありますので使って下さい。あたし、心配性だから、いつも色々と持ち歩いているんですよ」

 すると、鈴木蓮が首元のボタンを片手で嵌めながら言った。

「そうなんだよ。棚部さん、オレのシャツのボタンがとれたのを見て直してくれたんだ。ほら、他のボタンと同じ紺色の糸で縫ってくれたんだ。助かったよ」
 
 ボタン直しなら、あたしが……。

 そう言おうとして口ごもる。寧々が用意している糸は白と黒だけ。彼のボタンはピンク色の糸で縫われていた。

 さすがに、そこまで用意していない自分が情けなくなる。

「良かった。破片は入ってないみたいです。傷口も浅いですね」

 どうやら、この娘は女子力が高いようだ。壊れたカップを前にして狼狽する寧々の右の手元を覗き込むと破片が刺さっていないかどうかを確認して、しかも、消毒をして人差し指に絆創膏まで巻いてくれた。

 しかも、彼女は自分が持っていたタオルで床まで拭いている。

 絆創膏を巻いてもらった後、改めて寧々は恐縮したように言った。

「申し訳ありません。そのタオルを弁償しますね」

 消え入りそうな声になっていると、棚部さんはおおらかに首を振った。

「いえ、これ、雑巾候補生のタオルなんですよ。あたし、電車でゲロを吐く酔っ払いに遭遇した時、床を拭く為に持ち歩いているんです。とにかく、心配性で、いつも、色んな物を常備せずにはいられなくて……。いつ停電してもいいように小さなペンライトも持ってます」
 
「……それは凄いですね」

「供えあれば憂いなしですよ。今日は、こういう形でタオルが役立って良かったです」

 綺麗な目をしている。この娘にはかなわない。何で、こんなにいい子なのかしら。

 寧々は身体中の無駄な力が抜け落ちそうになる。その時、鈴木蓮が注意を促した。

「棚部さん、今日は御苦労様。そろそろ大学に戻らないとまずいよ。これ、君が食べたがっていたフィナンシェ。持って帰って食べるといいよ」

 それは、今朝、寧々が持ってきたものだった。寧々の手作りだ。

「これが、噂のフィナンシェですね。ずっと前から食べたかったんです。それじゃ、遠慮なく持って帰りますね」

 癒し系の無邪気な微笑みを浮かべると大きな鞄に荷物を詰め直して出て行った。寧々は、少し頭を冷やそうとして応接室を見回していく。

 それにしても、棚部さんと鈴木蓮の距離の近さは尋常ではない。

「副社長……。棚部さんと、すごく親しいんですね?」

「ああ、あの子は妹みたいなもんだよ。オレとあの子は似ている」

「えっ、似てますか?」

 顔の系統は全然違う。性格的にも違うように見えるのだが、鈴木蓮は言い切っている。

「正確に言うと、ガキの頃のオレに似ているんだ。いつも人の顔色を窺ってきた。あの子、こっちで就職したら、親の老後の面倒も見れなくなると思っているみたいなんだ。早く結婚して母親を安心させたいらしい」

 彼は、とんでもない言葉を放った。

「なぁ、もしも、来年から、あの子と暮らすと言ったら、あんたはどう思う?」

「えっ」

「そういうのを提案されると女の子って困るのかなぁと思ってさ。オレ、棚部さんに結婚してもらいたくないんだ。あの子も、本当は結婚したくないのに無理している。お金の心配ばかりしている。何とかしてやりたいんだけどな……。下宿すれば家賃もかからない。だけど、向こうは遠慮するだろうな」

 いきなり、そんな事を言うものだから、チクッという痛みを感じた寧々は胸に手を添える。

「要するに、副社長は、棚部さんと結婚して欲しくないんですね」

「いや、無理に結婚して不幸になるのを阻止したいという事だよ。あの子の才能を必要としている。親の言いなりになりたくないのなら、オレと偽装結婚するという手もあるぞって冗談で言っても、哀しそうに笑ってるだけなんだ」

 偽装結婚。まさか、そんな事を言い出すなんて……。

 寧々は、顔を強張らせたまま言った。

「副社長という立場で安直に契約結婚なんてするべきではないと思いますよ。何ていうか、財産分与とかそういう事も絡んできますし……」

「とにかく、あの子には不幸になってもらいたくない。ただ、それだけなんだ」

「……そうですね」

 ここまで彼に想われている棚部さんが羨ましくなる。言いようの無い虚しさが胸を締めつける。そんな自分を持て余していたのだった。

         ☆

 
 寧々としては二人の関係性を知りたいけれども向き合う事が怖くて仕方がない。

 一週間が経過していた。指に巻いた絆創膏は外しているが傷跡は残っている。 

(もしも、彼らが、本当に契約結婚をしたりしたら、あたしは家にはいたくない。だけど、あたしはどこにも行くあてなんてない。それに、ジェリーの世話を誰がするの?)

 モヤモヤとしたものが降り積もる中、この日、出張中の鈴木蓮の代理として葬儀に出席した。鈴木蓮からメールで指示されている。

『オレの代わりに最後のお別れをして下さい』

 亡くなったのは昭和を代表するメイクアップアーチストの百恵さんだ。

 戸籍上は男だ、中味は天真爛漫な乙女。いわゆる女装家で椿薔薇コスメの愛用者だった。

 晩年は、辛口、お姐タレントとして活躍している。

 享年六十二歳。心筋梗塞。ここには彼女を慕う大勢の人達が集まっている。昭和のスターや文豪という豪華な面々だ。

 生前、自分が死んだなら華やかに送り出してと言っていた。だから、御友人方の衣服も喪服というよりもドレスやお洒落着が多い。

 寧々は普通の黒いワンピースを着ていた。焼香を済ませた後、会場の片隅に友則がいる事に気付いた。

 ああ見えて、百恵さんは高校時代にラグビーをしていたのだ。カラオケでヒーローを熱唱してその場を盛り上げる彼女だからこそ友則とも気が合っていた。

(友則、寂しそうだな。仲良かったもんね……。突然のお別れはキツイよね)

 友則に気付かれぬように出たのだが、タクシーに乗ろうとした時に友則に肩を叩かれて振り返る。

「おまえも来てたのか。飯はまだまだよな。こないだ小鳥が世話になったお礼をするよ。ていうか、おまえに、クリーニング代とかを払いたいからさ、一緒に飲まないか?」

 すっかり忘れていたけれどお金を立て替えている。

 素直に奢ってもらう事にしよう。いいよと答えると、友則は白い歯を見せて笑った。

 徒歩圏内にある小さな店に入った。トイレの付近に衝立がありテーブル席になっている。衝立の向こうは予約席で女性客がいるようである。

 寧々と友則はカウンター席で飲むことにした。この近くに寧々が働いていたキャバクラがある。まだ、寧々が人気ナンバー3だった頃に通っていた店なので今から五年前のことである。

 最初の頃は、夜の仕事も誠心誠意やろうとしていた。けれども、ストーカー被害に遭ってからは、この界隈には来ていない。

(お店の御主人は、あたしの顔を覚えているのかな……)

 ここの奥さんも口下手なのでほとんど話した事はない。席に着いて一気にビールを飲み干すと、友則が照れくさそうに言った。

「何度か寧々が働いている店に行こうとした事がある。でも、無理だった。だから、ここに座って、おまえが客を連れて歩く姿を見ていてたんだ」

「ストーカーみたいで怖いよ」

 冗談めかして言ってみたものの、友則の哀しげな顔を見ていると切なくなってきた。

 今も、友則のことは友人として好きだが、異性として惹かれるのは……。。

 そんなことを考えていると、大型犬みたいな顔で嬉しそうに言った。

「聞いてくれよ。こないだ、やっと椿から離婚届けの用紙が届いたんだよ。達筆だった。あいつのおふくろさんが勝手に書いて判を押した可能性が高いな。まぁいいさ。これでやっと離婚できた。オレは独身に戻ったぞ。おまえと堂々と付き合えるぞ」

「えっ、嘘。ちょっと待ってよ」

 しかし、友則は無邪気に寧々の肩を抱きながら楽しげにビールを注いでいる。

「さぁさぁ、祝杯をあげようぜ。やっと自由の身になれたんだ」

「本当に離婚しちゃったの?」

「おう、だから、もう障壁はないんだ」

 友則は乾杯しようぜと言いながら、グラスを握りしめている。すると、その時、隣の席からヌッと顔を突き出した男がいた。

 四十代の色黒で大柄な男だ。ロレックスの時計とヴィトンのポーチ。そいつはドロッと澱んだ目つきをしている。

「おいおい、あんた、マダムバタフライの亜里沙ちゃんだよな。最近、顔を見ないと思ってたんだぜ。何やってたんだ。いいから、オレに酒を注いでくれよ」

 この男は酔うと暴れる。キャバクラ時代に何度か指名されて接客した覚えがある。金払いはいいがセクハラが半端ないので、みんなから嫌われていた。ちなみに、亜里沙は当時の源氏名。その名で呼ばれたくない。

「あたし、亜里沙じゃありません。人違いです」

 しかし、相手はしつこく追いすがろうとする。

「いやいや、その顔は亜里沙ちゃんだ。豊満なおっぱいに見覚えがあるぞ。つーか、亜里沙ちゃんは、ケツもブリッとしてて、ほんといい女だなぁ」

 の背中に手を回して引き寄せようとした。おい、おっさんと言いながら、友則がブチ切れて立ち上がる。そして、親父の腕を掴んで椅子から引きずり落としたのだ。
 
「てめぇ、寧々に触るな!」

 カウンターの向こうにいる店主も従業員も老人だ。どうしたものかとハラハラしている。警察に連絡しようかどうか迷いながら事態を見守っている。

 友則の傍らで蒼褪める寧々。男は友則に詰め寄ってきた。

「はぁーーー。おまえ、キャバ嬢と付き合ってんのかよ。つーか、金なら、オレの方が持ってるぞ。おまえ、安っぽいスーツを着てるなぁ。そんなんで、よく、こんないい女を口説けるよなぁ」
 
 その言葉にカッとなった友則が顔色を変えた。殴りかかろうとしている。寧々は友則の背後から抱きつくと泣きそうな声で囁く。

「ここで喧嘩なんてしたら小鳥ちゃんの親権はどうなるのよ? 会社だって解雇されるかもしれないんだよ」
 
 元はといえば、自分が水商売をしていたのが原因だ。無理に笑みを浮かべて酔った男に告げた。

「お酒、一杯だけ注ぎますね。そ、それでいいですね」

「おお、亜里沙ちゃんは気立てがいいな。相変わらず、いいオッパイだよな」
 
 キャバクラにいた頃の嫌な記憶が蘇る。こいつ以外にも失礼な客は大勢いた。

 こんな奴に卑屈な態度をとらなければならない事が辛い。泣きたくなる。黙り込んでいると、それは了承したサインだと考えたのか、そいつは、お酌しようとする寧々の尻を撫でまわした。寧々は嫌な顔を滲ませながらも耐えようとした。

 我慢すればいい。騒ぎを起こしてはいけない……。

 けれど、そこで、ブチンと友則の我慢の糸が切れたらしい。友則が親父の胸ぐらを掴んだ。電光石火のスピードで相手を地面に組み伏せていく。馬乗りになると、力任せに顔面を殴ろうとしたので寧々は顔を引き攣らせて叫ぶ。

「友則、駄目だよ!」

「でも、こいつが……。寧々を侮辱したんだぞ」

「あたし達が店を変えたら済むことだよ。小鳥ちゃんのこと、考えてよ! 友則、ほら、行くよ」

「いや、そうはいかねぇな」

 そう言ったのは友則ではなくて酔った男だ。毛深い腕にはロレックス。血走った目を向けながら言う。

「てめぇ、ざけんな。タダで済むと思ってやがるのか。詫びろ」

 怒号に対して友則は覚悟を決めたように目を閉じた。

「すみませんでした!」

 友則は、男を立たせると直立不動の姿勢で頭を下げた。しかし、酔った男は苛々したように叫ぶ。

「てめえ、土下座して詫びろ」

 すると、友則は意外な行動を取り始めたのである。膝をついて地べたに正座している。

「分かった。それなら、オレを殴ればいいさ。好きなだけ殴って、ここでストレス発散すればいいんだ。さぁどうぞ」

 友則は覚悟を決めたように言う。すると、酔った男は試すようにして友則の脇腹を足蹴にしたのである。

 何度も何度も蹴っ飛ばしている。それを、友則は無抵抗で受け入れている。

 そういえば、昔もこういう事があった。酔っ払いに絡まれた時、オレを殴って下さいと言ってその場を収めたのだ。

 これは、友則なりの処世術。あとで問題になっても友則は被害者でいられる。何しろ、友則は身体が丈夫なので、たいてい、殴る側が疲れて途中でやめてくれる。

 しかし、寧々としては、何も悪い事をしていない友則が犠牲になるのは嫌だった。困った事に酔った男は友則が痛みに呻く様子を見て興奮したようだ。

「てめぇ、騎士気取りかよ」

 粋がってんじゃねぇぞとクダを撒いて唾を吐きかけている。

 気の弱そうな店主はハラハラしながら様子を窺っている。酔っ払いは興奮したように叫んでいる。

「てめぇ、おっばいのデカイ女と付き合ってるからって偉そうにしやがって。こんちくしょう。おまえら、オレのこと馬鹿にしてんだろう。いい気になってんじゃねぇぞ!」

 これは明らかに理不尽な暴力だ。しかも、相手はしつこい。寧々は、半泣きになりながら、警察に通報しようとしていると、背後から凛とした声が響いた。

「やめて下さい!」

 細くて硬い声。どこかで聞いたような気がすると想っていると、なぜか、棚部さんがいた。彼女は、店の奥まったテーブル席から出てきたのだ。

 彼女の連れの女性はショートカットの地味な若い女。もしかしたら、女子会をしていたのかもしれない。
 
 棚部さんは、少年剣士のように凛と姿勢で酔った男に告げている。

「いい加減にして下さい。あなたの暴力を会社に報告しますよ」

「はぁーー。おまえ、誰なんだ?」

 酔っ払いが、濁った目をいからせて問うと棚部杏が硬質な声で答えた。

「わ、わたしはこの女性の仕事関係の知り合いです」

 酔っ払いの男に向けて自分のスマホをかざしながら言う。

「あ、あなたの振る舞いを撮影しましたよ。あなた、マーベル会社の宣伝部の方ですよね? 酔って女性に触るのは犯罪ですよ」
 
「うるせぇ、マーベルだとぉ。そんなのしらねぇよ。ごちゃごちゃ言うんじゃねぇよ。ぶっ殺すぞ!」

 すると、彼女は自分の鞄から名刺を引っ張り出して声高に叫んだ。

「いいえ、武藤課長ですよね」

 いきなり背中にナイフを向けられたかのように男の顔色が変わる。

「覚えてませんか。わたしは二年前、大学のフィールドスタディでお世話になった者です。これが、あなたの会社の常務の二階さんの名刺です。そして、こっちが宣伝部の狭山部長の名刺です。あなた、痴漢行為と暴力がバレたら、出世街道から外されて左遷になりますよ。コンプライアンスって言葉を御存知ですよね」

 最初は、その男も青白い顔の小娘と思っていたらしい。しかし、上司の名刺を渡されるとビビり始めた。

「おい、待ってくれよ。ちょっとふざけただけだろう……。おい、その動画を削除してくれよ。おい、聞いてんのかよ!」

「あなたが、すみやかに立ち去るというのなら水に流します。というか、この方に謝罪して下さい」

「てめぇ……」

 寧々は棚部さんの足元を見てハッとなる。よく見るとその細い脚は小刻みに震えていた。

(この娘、あたし達の為に闘ってくれたんだ……)

 その数分後、酔っ払いの男は、寧々たちの分も支払うと、逃げるようにして去っていったのだ。

 謝罪はしていないが、去り際にヒョコンと頭だけは下げてくれた。その瞬間、棚部さんは動画を削除している。自分の名前や身分がバレた途端に、態度を変えた男に対して寧々は呆れずにはいられない。

 店が静かになると寧々はホッとした。用事があるからと言って、棚部さんの友人は先に帰ってしまっている。寧々達は、そのまま飲み屋に残った。

 寧々は田邊さんに言った。

「どうも、ありがとうございます」

「いえ、あたしも無我夢中で……。レイン様に似ている男性が殴られていると思うといてもたってもいられなくて……」

 友則は、眉根を寄せて怪訝そうに首をかしげている。

 寧々も、突然、出てきたレインという名に首を傾げた。

 レイン・ターナー。寧々はファンタジー小説のキャラクターが脳裏に浮かんだ。

『転生したらヒロイン・フラグが立ちました!』 

 平凡な女子大生が異世界に飛ばされて色々なタイプのイケメンと恋をするストーリーだ。あれは爆売れしてアニメ化されている。

 王子、詩人、軍人、音楽家、大商人、大地主など、色々なイケメンがいる。ガッシリとした体型の勇猛果敢な軍人キャラがレインなのだが……。

「それ、もしかして、愛する者の為なら命も捨てるレイン大佐の事ですか?」

 豪放磊落なレイン大佐は非業の死を遂げる。その男気に惚れたファンによるネット上で行なわれた葬儀も話題になったものである。

「はい。そうです。七つの戦場を駆け巡る偉大なる軍人のレイン様です。顔とか体型とか目付きがソックリですね」

 棚部さんがパーッと明るい顔で笑っている。

(ゲームに疎い友則に言っても理解できていないだろうな)

 彼女は、かなりディープなオタクのようである。

「レイン様が村人に扮してスパイ活動をするシーンがあるんですよ。わざと、ごろつきどもに殴られるんです。自己犠牲の精神が素晴らしくて萌えるんです。レイン様は、サブキャラなんですけど推しなんです。あっ、そんな事より、大丈夫ですか? 先刻の人、思いっきり背中を蹴り上げてましたよね」

 友則は、急に涙目になった棚部さんを不思議そうに見下ろしている。

「別に、あんなのどうって事ないぜ。オレ、ラグビーの試合でぶつかり合うのには慣れてるからな。でも、助かった。ありがとう」

 友則がそう言うと、棚部さんはポッと頬を赤らめた。

「声も似ているんですね。素敵です。羽生さんが羨ましいです。こんなに素敵な恋人がいて……」

「えっ、違いますよ。知り合いですってば!」 

「いや、オレはこいつに惚れてますよ。口説いている最中です」

 棚部さんは、キョトンとしてからクスッと微笑んだ。

「そうなんですね。あたしは親が厳しくて、ずっと、彼氏もいませんでしたから……。空想の世界の人を好きになるしかなくて……。美男美女でお似合いですね」

「いいえ! あたしは友則のこと何とも思ってませんから!」

「いや、オレはこいつを狙ってます」

 また棚部さんがクスッと笑った。

「羽生さんって、すごく女性的で美人だから好きになる気持ちは分かります。秘書としても優秀だそうですね。鈴木さんも、いつも、寧々さんのことを褒めてますよ」

 寧々は、前から聞きたかったことを口にしていた。

「いえ、棚部さんこそ、すごく優秀な学生さんだと聞いています。ぜひ、就職してもらいたいって言ってましたけど……。就職活動していないって本当ですか?」

「はい。父が、あたしに結婚したらどうかって言ったんです。相手は店舗の大家さんなんです。あたしより十五歳年上の人が、あたしに一目惚れしたらしくて。父は、その人に借金があるらしくて」

 その言葉に対して友則は憤ったように言う。

「なんだ、そりゃ。オレが親ならマグロ漁船に乗り込んででも、自分の借金は自分で返そうと奮闘するぞ」

「あたしと父とは血が繋がっていないんです。小学三年の時に母が再婚したんです。大学にどうしても行きたくて無理を言って進学したんです。学費も父に負担してもらっています。あたし、充分、大学生活を満喫する事が出来ました。あとは、娘としての義務を果たすべきだと思っています。就職するより、お金持ちと結婚する方が安定すると思うんです」

「へーえ、相手はどんな奴なんだ」

 好奇心に駆られたのか友則か尋ねている。昔からそうなのだが、普通の人が聞きにくい内容も友則は遠慮なく尋ねることが出来るのだ。

(初対面の女性に、それは踏み込み過ぎじゃない?)

 さすがに渋るかと思いきや、棚部さんは素直に答えた。

「バツイチです。普段はいい人なんですよ。でも、酔うと暴力を奮う事があって、それが理由で、前の奥さんと別れたみたいなんです」

「あんた、馬鹿なのかよ。そんな奴と結婚するなんてやめとけ。いつか、どこかで破綻するぞ。あんた、本当は結婚したくないんだろう。義理の娘に犠牲を強いるなんてろくなもんじゃねえな」

 いつもそうだが、友則は直球を投げ込む。棚部さんは面食らったように目を開いている。そして、潤んだ瞳を細めながら訴えた。

「いいえ、父さんは、そんな人ではありません。結婚がイヤなら辞めてもいいと言ってます。でも、でも、あたしが結婚しないと店が潰れてしまいます」

「そんなもん、あんたのエゴだ。自分の善行に酔うな」

 スコーンと野太い声で一刀両断してしまった。友則の声は真っ直ぐで熱い。

「あんた、自分の親のことをみくびってんじゃねぇのよか。自分の借金ぐらい自分でケリをつけるさ。繰り返して言うが、自分の気持ちを偽って結婚すると生きた屍になるぞ。オレ、嫁さんに本気で殺意を抱いた事もあるんだ。今でも腸が煮えくり返っている」

 そんなディープな事を急に言われて棚部さんも困っている。しかし、友則の魂の熱弁は続いている。

「つーか、相手の男も幸せになる権利があるんだぞ。中途半端な気持ちで結婚したら、そいつも不幸になる。そいつの幸せを思いやったらどうだ。あんた、そいつを幸せにする自信はあるのか? 結婚ってのは、そういう事だぞ」

「……えっ」

 棚部さんは息を止めるような顔つきのまま絶句している。

「あたし、そういう観点から考えた事はありませんでした」

「そうか、それなら、そういう観点から考えろよ」

 友則がニッと笑うと、棚部さんが胸に手を当てた。

「あたし、顧客のニーズに関する分析には自信を持っています。でも、自分の結婚については盲目になっていましたね。相手の人を幸せにする自信も意欲もないのにどうかしてました」

 澄んだ眼差しで言い切る彼女に対して友則がブハッと吹き出した。そこ、笑うシーンなの?

 そして、友則は、更に棚部さんに向けてズケズケと踏み込み続けている。

「つーか、あんた、もういい歳なんだぜ。惚れている相手はいないのかよ?」

「いません。あたし、二次元の男子の事ばかり考えて生きてきましたから」

「ふうん。もったいないな」

 言いながら、友則は、喉が渇いたのかビールを注文している。

 寧々は、おせっかいかしらと想いながらも呟いた。

「副社長も、あなたのことを心配していましたよ。棚部さんと一緒に仕事をしたいそうです。就職する方がいいと思いますよ」

「あたしも、働きたいんです。だけど、父さんが失業するのに、自分だけ好きなことをすることが心苦しくて……」

「家賃が払えなくて困ってるのなら店を移転させるとか、他にも色々と解決方法はあるぞ。従業員は多いのか?」

「父さんと母さんと職人見習いの人の三人です」

 すると、友則が腕組みをした。

「見習いさんは余所の店でも働けると思うぞ。親父さんは、ネット販売に限定すればいいんじゃねぇのか。やれる事はいくらでもあるぞ。人身御供みたいな真似は絶対にするなよ」

 棚部さんは、スーッと何か光を見たかのように目を細めている。

「他にも、ワゴン車で団地や公園に向かう移動販売とかもありますよね。そうですね。色々と道はありますね。やだ、なんで思いつかなかったんだろう」

「そりゃ、あんたが悲劇のヒロインの思考回路に陥っているからだ。親父さんにも色んな可能性があるって事を忘れるなよ」

 率直な物言いは昔と少しも変わっていない。昔は、そんな友則が好きだった。だけど、もう、この人への恋愛感情はない。

 友則には未練の欠片もない。憎しみの感情もなく穏やかに凪いでいる。彼のことで悩まなくていいのだと自信を持って言える。

「あっ、友則、それじゃ、あたしは帰るね」

 帰りの電車の時間を気にしている寧々が帰ろうとすると、棚部さんもハッとしたように腰を上げた。

「それじゃ、あたしも帰ります。今夜は、色々とあたしの愚痴を聞いてもらってすみませんでした」

 三人で店を出る。棚部さんと友則は同じ地下鉄に乗った。寧々はバスの吊り革を持ったまま、あれこれと考える。

(友則、身体はデカイけど、お酒はそんなに強くないんだよなぁ……。昔、酔っ払って道端で寝てたこともあるからなぁ)

 途中で座り込んで眠ってしまわないかどうか心配になるけれど、あんな大きな男を襲う猛者はいない。なぜか、気持ちがスーッと楽になっている。

(友則って、あたしにとっては、もうトラウマじゃないみたいだ)

 さようなら……。ある種の爽快感のようなものが突き抜けている。

 夏の星座は綺麗だ。生暖かい夜風を頬に感じながら目を細めていく。

 この時、寧々は鈴木蓮のことを考えていた。友則も優しい人だったけど、今は、鈴木蓮の優しい仕草やぬくもりに心が震える。

(あたし、副社長の事で頭がいっぱいなんだよ……)

 今や、すっかり寧々の人生の座標が変わっている。一日の終わりに見たいのは友則ではなく鈴木蓮なのだと改めて確信していた。

 さようなら。友則、今後、あなたのことで泣いたりしない。あなたも幸せになってね。

 キラキラ瞬くお星様を見上げると、自分が帰るべき銛の館へと帰ろうとしていたのだった。
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