先にあなたが捨てたのです。さようなら、陰の王家と呼ばれた一族は隣国にお引越しします
新天地でハッピーライフ
しゃかしゃかしゃかと髪を洗う音と、かぐわしい洗髪剤の匂いがする。
私は慣れた手つきで髪を洗いながら、気持ちよさそうに目を瞑(つぶ)る男性に話しかけた。
「それでね、ジンさん、驚くことに目覚めたら朝だったのよ! 人間って八時間連続で寝ても溶けないのね」
「いやいや、それくらいで溶けるわけがないっしょ。これまでどんな生活をしていたんだよ。オレなんか、昨日十六時間連続で寝たけど、全然溶けなかったからね! ちょっと顔がよだれまみれになって、髪がぼさぼさになっただけで……あっ、そこ」
ジンさんが気持ちよさそうな声を出したので、その部分を重点的に洗う。
「ここかしら?」
「そこ! あー、もう最高! ルルシャちゃんに髪を洗われると、気持ちいいだけじゃなく、体全体が浄化されたような心地よさを感じるんだよね。浄化ってのはもちろん、大金を積んで教会に依頼する例のやつだよ」
私たちが引っ越してきたのはバシュラ魔導帝国で、この国にはごく少数ながら魔術師が存在している。
そして、癒しの魔術を使える者たちは教会に所属していて、大金と引き換えに『浄化』―――疲れを取り、頭をすっきりさせる魔術をかけてくれる。
「ふうん、浄化してもらうには一財産必要だから、貴族や大商人でないと体験できないものだと思っていたわ」
「ルルシャちゃん、これでもオレにはものすごいコネがあるんだよ。だから、一度だけ浄化を体験したことがあるんだけど、全身を雲に包まれたような最高の快感だったよ! そのせいで、ずっと忘れられなかったんだけど、どういうわけかルルシャちゃんに洗髪されるたびに、浄化の快感と同じものを感じるんだよね」
そうでしょうねと、私は視線を手元に落とすと、一緒に髪を洗ってくれている小さな精霊に微笑みかけた。
私の手のひらくらいの大きさの精霊は、小さな手で一生懸命ジンさんの髪を洗っており、浄化と同等の効能を彼にもたらしている。
「この理髪店はもはや、この街になくてはならないお店だよ!!」
ジンさんが感情を込めてそう言うと、精霊は嬉しそうに微笑んだ後、高く飛び上がった。
私は花瓶に飾られていた花を一輪摘まんで精霊に手渡した後、首にかけていたペンダントを精霊に向ける。
すると、精霊は私に手を振りながらペンダントの中に消えていった。
仕事の報酬をもらった精霊は、満足して精霊の国に戻ったようだ。
私は髪をすすぎ終わったジンさんの上半身を起こすと、彼の濡れた髪を拭いていった。
鏡に映るのは、茶髪に焦げ茶の目をした人好きのする顔立ちの好青年で、年は二十代後半くらいだろう。
湿った髪で鏡越しに見つめてくるジンさんは、人懐っこい笑みを浮かべていたので、つい軽口がついて出る。
「本当? 兄さんにパイナップルみたいな頭にされた時、ジンさんは正反対のことを言っていたわよ」
「ああー、パイナップルヘアーのよさを分かっていなかったあの時のオレね! 若かったんだよ。許して」
調子のいいジンさんの声を聞きながら、彼の髪を整えていく。
「ふふ、今日はパイナップルヘアーでもないし、とっても男前にできたわよ!」
鏡に映ったジンさんに笑いかけたところで、離れた場所から不機嫌な兄の声が響いた。
「ルルシャ、それは言いすぎだ。せいぜい何とか見られるくらいになった、というところだ」
長兄の辛辣なセリフにめげることなく、ジンさんは楽しそうに言葉を続ける。
「いやー、大兄さんさすがだね! 客商売なのに一ミリも客に媚びないその態度。というか、常に客に喧(けん)嘩(か)を売りつけるウエメセスタイル! それなのにお店はいつだって満員なんだから、このお店の優れっぷりが分かるってもんだ」
「だったら帰れ! お前の言う通り、今日も朝から働き詰めだったんだ。これ以上お前の相手をして疲れるつもりはない」
閉店の時間をすぎているにしても言いすぎだわと顔をしかめたけれど、ジンさんは気にすることなく楽しそうにお金を払う。
「この悪口も慣れると癖になるよね。閉店ギリギリに来たのに、引き受けてくれてありがとね。あー、ルルシャちゃん一家が引っ越してきてくれてよかった! オレは幸せだよ」
またねと言って出ていくジンさんを見送った後、扉の前にかけていた『営業中』のプレートを裏返して『閉店』に変える。
それから、お店の中に戻った私は、部屋の中を見回した。
理容椅子、シャンプー台、鏡台といった理容室専用の設備が揃う中、理容師の格好をした二人の兄がこちらを見ている。
茶髪に青い目の長兄ブラッドリーと、私と同じく赤髪緑目の次兄キャメロンだ。
兄二人は、一目で私と兄妹と分かるくらい顔立ちがそっくりだった。
この三か月間、慣れ親しんだ光景を目にしたことで、自然と顔に笑みが浮かぶ。
「まさか兄妹三人で理容店を開く日が来るとは思わなかったわ。でも、すごく楽しいわね!」
「……悪くないな」
ブラッドリー長兄の言葉に、キャメロン次兄が顔をしかめた。
「兄上ったら、相変わらずカッコつけた回答だね。悪くないどころか、僕はすごく楽しいよ! 言うことを聞かない騎士たちを説教する仕事に比べたら百倍楽しい」
「私も王太子妃教育がなくなって、好きなところに行って好きなものを食べられて、大口を開けて笑える生活なんて最高だわ!」
軽口を叩き合いながら後片付けをしていると、長兄に名前を呼ばれる。
「ルルシャ、この生活を守りたいのであれば、ジンにはあまり近付くな」
手を止めて顔を上げると、長兄が真剣な顔で警告してきた。
「気付いているだろうが、ジンは貴族だ。本人は隠しているつもりのようだが、時おり見せる所作と発音が市(し)井(せい)の者とは異なる。そして、今日の浄化発言だ」
そうね、あの発言はうかつだったわと思いながら頷く。
「貴族には貴族用の理髪店がある。それなのに、ある日ふらりとこの店にやって来(き)たと思ったら、それ以降、ジンは足繁く通ってくるようになった。初めのうちはオレも散髪に慣れていなかったから、とんでもない髪形にカットしたというのにだ」
キャメロン次兄が楽しそうに話を引き取る。
「さっき、ルルシャと話していたパイナップルカットのことだね! あの時は、さすがにジンも怒って、『二度と来るもんか!』と出ていったよね。それなのに、二週間ほど経ったら、何事もなかったかのようにケロリとして通ってきたから、僕もちょっとおかしいなと思ったよ。ここに通い続ける理由があるはずだとね」
そう言いながら、次兄は意味あり気に私を見た。
「とはいえ、理由の大半はルルシャの洗髪精霊のせいじゃないかな。毎回必ず恩恵にあずかれるわけではないとはいえ、最上級の癒しである浄化と同等の効果を、洗髪するだけで味わえるとなったら、頻繁に通いたくもなるはずだ」
ジンさんがお忍びで通ってくる理由を私一人に押し付けられそうになったため、慌てて言い訳する。
「だって、精霊はお手伝いをしたくて私の前に現れるのよ。頼むことはないと追い返すのも悪いでしょう」
私は慣れた手つきで髪を洗いながら、気持ちよさそうに目を瞑(つぶ)る男性に話しかけた。
「それでね、ジンさん、驚くことに目覚めたら朝だったのよ! 人間って八時間連続で寝ても溶けないのね」
「いやいや、それくらいで溶けるわけがないっしょ。これまでどんな生活をしていたんだよ。オレなんか、昨日十六時間連続で寝たけど、全然溶けなかったからね! ちょっと顔がよだれまみれになって、髪がぼさぼさになっただけで……あっ、そこ」
ジンさんが気持ちよさそうな声を出したので、その部分を重点的に洗う。
「ここかしら?」
「そこ! あー、もう最高! ルルシャちゃんに髪を洗われると、気持ちいいだけじゃなく、体全体が浄化されたような心地よさを感じるんだよね。浄化ってのはもちろん、大金を積んで教会に依頼する例のやつだよ」
私たちが引っ越してきたのはバシュラ魔導帝国で、この国にはごく少数ながら魔術師が存在している。
そして、癒しの魔術を使える者たちは教会に所属していて、大金と引き換えに『浄化』―――疲れを取り、頭をすっきりさせる魔術をかけてくれる。
「ふうん、浄化してもらうには一財産必要だから、貴族や大商人でないと体験できないものだと思っていたわ」
「ルルシャちゃん、これでもオレにはものすごいコネがあるんだよ。だから、一度だけ浄化を体験したことがあるんだけど、全身を雲に包まれたような最高の快感だったよ! そのせいで、ずっと忘れられなかったんだけど、どういうわけかルルシャちゃんに洗髪されるたびに、浄化の快感と同じものを感じるんだよね」
そうでしょうねと、私は視線を手元に落とすと、一緒に髪を洗ってくれている小さな精霊に微笑みかけた。
私の手のひらくらいの大きさの精霊は、小さな手で一生懸命ジンさんの髪を洗っており、浄化と同等の効能を彼にもたらしている。
「この理髪店はもはや、この街になくてはならないお店だよ!!」
ジンさんが感情を込めてそう言うと、精霊は嬉しそうに微笑んだ後、高く飛び上がった。
私は花瓶に飾られていた花を一輪摘まんで精霊に手渡した後、首にかけていたペンダントを精霊に向ける。
すると、精霊は私に手を振りながらペンダントの中に消えていった。
仕事の報酬をもらった精霊は、満足して精霊の国に戻ったようだ。
私は髪をすすぎ終わったジンさんの上半身を起こすと、彼の濡れた髪を拭いていった。
鏡に映るのは、茶髪に焦げ茶の目をした人好きのする顔立ちの好青年で、年は二十代後半くらいだろう。
湿った髪で鏡越しに見つめてくるジンさんは、人懐っこい笑みを浮かべていたので、つい軽口がついて出る。
「本当? 兄さんにパイナップルみたいな頭にされた時、ジンさんは正反対のことを言っていたわよ」
「ああー、パイナップルヘアーのよさを分かっていなかったあの時のオレね! 若かったんだよ。許して」
調子のいいジンさんの声を聞きながら、彼の髪を整えていく。
「ふふ、今日はパイナップルヘアーでもないし、とっても男前にできたわよ!」
鏡に映ったジンさんに笑いかけたところで、離れた場所から不機嫌な兄の声が響いた。
「ルルシャ、それは言いすぎだ。せいぜい何とか見られるくらいになった、というところだ」
長兄の辛辣なセリフにめげることなく、ジンさんは楽しそうに言葉を続ける。
「いやー、大兄さんさすがだね! 客商売なのに一ミリも客に媚びないその態度。というか、常に客に喧(けん)嘩(か)を売りつけるウエメセスタイル! それなのにお店はいつだって満員なんだから、このお店の優れっぷりが分かるってもんだ」
「だったら帰れ! お前の言う通り、今日も朝から働き詰めだったんだ。これ以上お前の相手をして疲れるつもりはない」
閉店の時間をすぎているにしても言いすぎだわと顔をしかめたけれど、ジンさんは気にすることなく楽しそうにお金を払う。
「この悪口も慣れると癖になるよね。閉店ギリギリに来たのに、引き受けてくれてありがとね。あー、ルルシャちゃん一家が引っ越してきてくれてよかった! オレは幸せだよ」
またねと言って出ていくジンさんを見送った後、扉の前にかけていた『営業中』のプレートを裏返して『閉店』に変える。
それから、お店の中に戻った私は、部屋の中を見回した。
理容椅子、シャンプー台、鏡台といった理容室専用の設備が揃う中、理容師の格好をした二人の兄がこちらを見ている。
茶髪に青い目の長兄ブラッドリーと、私と同じく赤髪緑目の次兄キャメロンだ。
兄二人は、一目で私と兄妹と分かるくらい顔立ちがそっくりだった。
この三か月間、慣れ親しんだ光景を目にしたことで、自然と顔に笑みが浮かぶ。
「まさか兄妹三人で理容店を開く日が来るとは思わなかったわ。でも、すごく楽しいわね!」
「……悪くないな」
ブラッドリー長兄の言葉に、キャメロン次兄が顔をしかめた。
「兄上ったら、相変わらずカッコつけた回答だね。悪くないどころか、僕はすごく楽しいよ! 言うことを聞かない騎士たちを説教する仕事に比べたら百倍楽しい」
「私も王太子妃教育がなくなって、好きなところに行って好きなものを食べられて、大口を開けて笑える生活なんて最高だわ!」
軽口を叩き合いながら後片付けをしていると、長兄に名前を呼ばれる。
「ルルシャ、この生活を守りたいのであれば、ジンにはあまり近付くな」
手を止めて顔を上げると、長兄が真剣な顔で警告してきた。
「気付いているだろうが、ジンは貴族だ。本人は隠しているつもりのようだが、時おり見せる所作と発音が市(し)井(せい)の者とは異なる。そして、今日の浄化発言だ」
そうね、あの発言はうかつだったわと思いながら頷く。
「貴族には貴族用の理髪店がある。それなのに、ある日ふらりとこの店にやって来(き)たと思ったら、それ以降、ジンは足繁く通ってくるようになった。初めのうちはオレも散髪に慣れていなかったから、とんでもない髪形にカットしたというのにだ」
キャメロン次兄が楽しそうに話を引き取る。
「さっき、ルルシャと話していたパイナップルカットのことだね! あの時は、さすがにジンも怒って、『二度と来るもんか!』と出ていったよね。それなのに、二週間ほど経ったら、何事もなかったかのようにケロリとして通ってきたから、僕もちょっとおかしいなと思ったよ。ここに通い続ける理由があるはずだとね」
そう言いながら、次兄は意味あり気に私を見た。
「とはいえ、理由の大半はルルシャの洗髪精霊のせいじゃないかな。毎回必ず恩恵にあずかれるわけではないとはいえ、最上級の癒しである浄化と同等の効果を、洗髪するだけで味わえるとなったら、頻繁に通いたくもなるはずだ」
ジンさんがお忍びで通ってくる理由を私一人に押し付けられそうになったため、慌てて言い訳する。
「だって、精霊はお手伝いをしたくて私の前に現れるのよ。頼むことはないと追い返すのも悪いでしょう」