先にあなたが捨てたのです。さようなら、陰の王家と呼ばれた一族は隣国にお引越しします
 ◇ ◇ ◇

 それから三時間後。
 孤児院の院長に洗髪剤を渡し、子どもたち十五人の髪を洗い終えた私は、孤児院の門を出て、ぐんと伸びをした。
「さあ、これで役目は果たしたわ」
 私の周りでは三人の洗髪精霊たちが、自分たちも頑張ったと言わんばかりにひらひらと飛んでいる。
 ポケットに入っていたキャンディーを渡すと、精霊たちは笑顔で受け取ってくれたので、ありがとうとお礼を言った。
 ―――私の母国は『精霊と暮らす国』と呼ばれている。
 それは、大陸中で唯一、精霊が棲み付く国だからだ。
 基本的に精霊は、私たちとは異なる世界である『精霊の国』に棲んでいる。
 しかしながら、ゼイロット王国にだけは『精霊の国』から精霊たちが扉をくぐってやってくることがあり、さらには精霊が棲み付くことがあるのだ。
 その結果、ゼイロット王国は精霊の恩恵を受けることができていた。
 ちなみに、精霊たちの移動手段である『精霊の扉』は、ゼイロット王国の王宮の庭にある。
 精霊が『精霊の国』からやってくるためには、必ず『精霊の扉』が必要だったから、母国から出奔した私は二度と精霊たちと会えないと思っていたのだけれど……。
 私は厳(おごそ)かな気持ちで、胸にかけたペンダントに視線を落とす。
 それは落ち着いた暗緑色の石が付いたペンダントで、エグバード様と婚約した際に『愛と復讐の大精霊』からもらったものだ。
 十五年もの間、大切に胸にかけていたもので、美しい装飾品だと思っていた。
 けれど、実際にはただの装飾品でなく、『精霊の扉』と同じ役割を持っていたようで、三か月前、エグバード様のことを思い出して一人で泣いていた時に、突然ぴかぴかと輝き出したのだ。
 びっくりして見つめていると、ペンダントの中から顔見知りの精霊が現れた。
 二度と会えないと思っていた精霊と再会した私は、目を見張った。
「あなた、いつも私の手作りクッキーを食べてくれた精霊ね」
 精霊は嬉しそうに笑うと、私の頬に残っていた涙を拭ってくれた。
 そして、その日から、ペンダントを通して、様々な精霊が私のもとに来てくれるようになったのだ。
 多分、これもペンダントをくれた『愛と復讐の大精霊』の加護なのだわと思いながら、ペンダントの中に消えていった精霊たちに手を振る。
 それから、私は空を見上げると、まだ日が高いことを確認した。
「無事に完了したことだし、寄り道でもしていこうかしら」
 理髪店のいいところは、兄妹三人でやっていることだ。
 一人抜けてもあと二人いるのだから、どうにかなるはずだ。
 私は漂ってきたいい匂いにつられて、ふらふらと賑やかな通りに向かってしまう。
「毎日、たくさんのお客さんの洗髪をするから、手が荒れちゃうのよね。だから、ハンドクリームがほしいと思っていたはずなのに、どうして私の足は雑貨屋でなく、屋台に向かっているのかしら。食べ物につられるあたり、私ったら食い意地が張っているみたいね」
 口ではそう言ったものの、人間だから仕方がないと諦める。
 生きているのだから、お腹は減るものよ。
 私は欲望に忠実に従うと、美味しそうな匂いがするお店で串肉を買い、大きな口でかぶりついた。
「美味しい! ああー、できたてで熱々のお肉って、どうしてこんなに美味しいのかしら!」
 それから、好き勝手に歩いて、興味があるものを眺めながら食べるのって、どうしてこんなに楽しいのかしら。
 川を見下ろせる歩道を歩きながら、この世の幸せを噛みしめていると、もふりとしたものが足に当たる。
 驚いて立ち止まり、足元を見下ろすと、白い毛の塊があった。
「いえ、毛の塊ではないわね。これは猫だわ!」
 突然の猫との遭遇に目を丸くしていると、ふわふわの白猫は後ろ足で立ち上がり、私の脚にしがみついてきた。
 猫の仕草にぴんときた私は、その場でしゃがみ込むと、白い猫ちゃんに串肉を差し出す。
「あなた、私のお仲間ね。美味しそうな匂いにつられたでしょう」
 案の定、白猫は勢いをつけて串肉に飛びつくと、大きな口を開けて食べ始めた。
「あら、私より美味しそうに食べるわね。負けたわ。全部あげるから、ゆっくり食べてちょうだい」
 白猫は夢中になって串肉を食べていたので、私はその白い体にこっそり手を伸ばす。
 等価交換よ。私は美味しい串肉をあげるから、白猫ちゃんは私にちょっとばかり撫でられてちょうだい。
 私の心の声が聞こえたわけでもないだろうに、白猫はおとなしく私に撫でられていた。
 けれど、串肉を食べ終わると、「もっと」と要求するように、私を見上げて鳴き声を上げる。
 他に串肉を持っていなかったので、私は「それでおしまいなのよ」と申し訳ない気持ちで告げると、最後に白猫を一撫でして立ち上がった。
「じゃあね、猫ちゃん。また会えたら、その時も撫でさせてちょうだいね」
 ばいばいと手を振りながら見送っていると、道の反対側から二十代くらいの男性三人組がやってきた。
 三人組は大声でしゃべりながら、横一列になって歩いていたため、他の通行人が迷惑そうに彼らを避けている。
 しかし、三人組は一切周りを気にすることなく、げらげらと笑いながらゆっくり歩いていた。
 その時、彼らの一人が白猫に目を留め、他の二人を肘で小突く。
 すると、残りの二人も白猫に視線を移し、次の瞬間、三人揃ってにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
 嫌な予感を覚えていると、彼らは素早く近寄って白猫を囲み、その首根っこを掴んで持ち上げる。
「えっ?」
 びっくりしている間に、三人組は持っていた布袋に掴んだ白猫を投げ込むと、口をぎゅっと縛って乱暴に肩に担いだ。
 白猫を手荒に扱い、得意気に笑う様子を見て、きっと三人組は白猫の飼い主ではなく、猫泥棒だと思ったため、彼らの前に進み出る。
「すみません、あなたが袋に入れたのは私の猫です!」
 正直に「あなたの飼い猫ですか?」と尋ねた場合、虚実にかかわらず「そうだ」と返されるのは目に見えていたため嘘をつく。
 いずれにしても、この三人が白猫の飼い主でないことを確信していたので、彼らが猫を返してくれるのを静かに待った。
 三人組は突然話しかけた私を物珍しそうに見つめた後、まるで私がおかしなことを言ったかのように大声で笑い始める。
「あひゃひゃひゃひゃ、すっげえな! 白い絨毯皮をただで拾ったと思ったら、かぶりつきたくなるほどの美女が現れたぞ!」
「ホントだな! こんな美女見たことねえ! 今までどこに隠れていたんだ?」
「おっじょうさん、猫を返してほしければ、オレたちに付き合いな」
 三人組の応対から、間違いなく白猫の飼い主ではないと確信できたので、私は両手を伸ばすと、もう一度訴える。
「申し訳ありませんが、あなた方に付き合う時間はありません。私の猫を返してください」
 どこまで冗談か分からないけれど、彼らは白猫のことを『白い絨毯皮』と表現した。
 こんな連中にあのふわふわの白猫を任せていられないわ!
 伸ばした手の上に猫の袋を置いてもらうことを期待したけれど、なぜか三人組のうち一番太った男性が私の手を握ってきたので、目を丸くする。
 えっ、手を握られたわ。予想もしないことをしてくるわね。
「はー、お前の手は柔らかくて気持ちいいな。よし、オレん家に着くまで、お前の手を握っておいてやる」
 私は洗髪のしすぎで手が荒れているはずだけど、褒められちゃったわ。
 でも、初めて会った男性と手を握るほど、破廉恥じゃないのよね。
「放してください。そうでないと、放り投げるわよ」
「放り投げる? あひゃひゃ、できるならやってみ……」
 どすん。
 許可をもらったので、私は思いっきり太った男性を投げつけた。
 私は王太子妃教育の一環で護衛術を習っており、専属講師から合格だと太鼓判を押されたほどの腕前なのだ。
 さすがに屈強な騎士を投げ飛ばすことはできないけど、正式な訓練をしていない相手であれば、投げることは簡単だ。
「は? な、何をした!」
「ふざけるなよ!」
 残った二人が驚いたように掴みかかってきたけれど、その動きは緩慢でちっともキレがなかったので、一人目と同じように投げ飛ばす。
 ちなみに、三人目の男性を投げる前に、その男性が抱えていた猫の袋を私は素早く取り返した。
 三人が地面に寝そべり、苦悶の声を上げるのを横目に見ながら袋の口を開けると、中で縮こまっている白猫に声をかける。
「白猫ちゃん、大丈夫? もう安全だから出ていらっしゃい」
 白猫は袋の口に向かって少しだけ前足を伸ばしたけれど、その時、横から手が伸びてきて、猫の袋を奪われた。
 はっとして顔を上げると、体格のいい短髪の男性が冷えた目で私を見下ろしていた。
「兄貴! た、助けてください!」
「この女がオレたちの絨毯皮を奪って、恥をかかせたんです!」
「やっつけてください!!」
 私に投げ飛ばされた三人組は、地面の上に寝ころんだまま短髪の男性に訴える。
 どうやら、新たに現れた四人目の男性は、三人組の仲間のようだ。
 短髪の男性は三人組と違い、明らかに訓練された者特有の雰囲気をまとっていた。
 マズいわね。これはちょっと勝てそうもないわ。
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