嘘つきな先輩は、エリート弁護士になった元カレにすべてを暴かれる

10. やり直しのプロポーズ

 怒っている。
 律人が、途方もなく怒っている──その、はじめて向けられた怒りに触れて、私は思わず後ずさった。手首を掴む手の強さはもう痛いほどだ。

「馬鹿にするのも大概にしてくれ」
「……ば、……馬鹿になんて、してな……」
「してないんだったらなんだって言うんだ? あなたと生きる道しかない? 俺はその道しかほしくなかったし、その道を手に入れるためだけに必死だったのに!? あなたにはひとつも伝わってなかったって!?」

 律人は叫び──その声が震えていることに、そのとき気付いた。
 顔を上げる。

「……え?」

 律人は、きつく眉を寄せ──唇を噛み締め──その瞳に強い怒りを宿して、泣いていた。

「えっ、待って、律人、なんで泣いて……」
「なんで」

 平板な鸚鵡返しが、律人の怒りを却って表しているようだった。律人は怒っていた。彼の誠意を、彼の愛情を蔑ろにし、その愛情を信じず、一方的に放り投げた私に対して怒っていた。当然の怒りだ。
 そして。

「……いちかさん、いっぱい泣いたでしょう」

 目元を乱暴に拭い、赤くなった目で、憤りのままに律人が私を見る。

「検査の結果が出るまで、手術が終わるまで、ずっとずっと怖かったですよね……どうして俺は、あなたのその涙ひとつさえ、拭ってやる権利を持たなかったんだろう。……後悔で頭がおかしくなりそうだ。まだ就職してないから、指輪を買う金がないからって、あなたへのプロポーズを何度も見送った。そんな馬鹿な見栄を張るんじゃなかった!!」

 律人の怒りは、当たり前に、誰より、彼自身へと向けられていた。私は思わず彼に手を伸ばした──律人は逆らわず、私が彼を抱きしめやすいよう、僅かに体を屈めてくれさえする。私は律人の、私がひどく傷つけてしまった愛しい子の頭を、自分の胸にかき抱いた。
 
「……なにもないけど、あなたが欲しいって。跪いてでも縋り付いてでも、俺は、あなたに結婚してもらわなきゃいけなかったんだ。あなたを縛り付けなきゃいけなかったんだ。強いあなたが、『俺のために』なら俺を切り捨てられるって、予想できて然るべきだった……」
「違う、……それは違う、私は……」

 私が律人を切り捨てたのは、決して強さ故ではない。逆だ。私の弱さが、『私のせいで律人が不幸になるかもしれない』という可能性に耐えられなかった、『律人と一緒に生きていきたい』という願いを抱き続けられず、未来への恐怖に屈したの弱さが、私に律人を突き放させた。そして彼を傷つけた。こんなにも手酷く。泣く資格もないのに涙が溢れて、律人がその涙を唇で掬ってくれる。
 唇と唇が、当たり前みたいに、お互いの弱さを認め合うみたいに、そっと重なる。
 
「……いちかさん」

 律人が、息が触れるぐらいに近い距離で、私に囁く。

「家は、怖くない場所の方が良い。それはそうだ。でもね、いちかさん」

 涙で滲んだ目と目が合って、私は、私がまだ怯えていることに気づく──こんなにも、こんなにも好きだ。律人も私も。でも。
 でも、好きなだけじゃ──好きだからこそ、この怖さは、なくならない。未来への不安。この幸福が高い確率で失われてしまうことへの恐怖。そんな私を掬い上げるみたいに、律人は笑った。

「でも、同時に、家は、思う存分に怖がれる場所でもあるべきなんだ。怖いことのない人生なんてない。怖いからこそ、怖がっても大丈夫だと……『怖くてもいい』と思える場所があるべきなんです」
「……怖くても?」
「そうです。……だから」

 律人が、私の手をそっと持ち上げて、その指先に口付ける。

「荷物だなんて、馬鹿げたことを言わないでください。あなたと生きる道しかない、んじゃない。あなたと生きる道しか要らないし、あなたに人生を縛られたいし、あなたの人生を縛りたいんだ。幸せな家庭もなにもかも、あなたとじゃなきゃ何の意味もない。怖くたって一緒に居たい。俺はいつでも、あなたが隣りにいる未来ばっかり思い描いてたって」

 その動作の意味がたしかにわかった。

「……もう、信じてもらえますよね?」

 律人の視線が問う──或いは、許しを乞うている。私に尋ねている。
 視界が滲む。
 怖い。不確定な未来が、待ち受けているであろう未来が──私の不幸に律人を巻き込んでしまう可能性が、どうしたって、恐ろしい。その気持ちがなくなることはない。

 けれども、──『怖くてもいい』と律人は言った。

 だから。

「……うん」

 私は頷いた。頷いた瞬間に涙がこぼれ落ちて、ぽろぽろ溢れて止まらなくなる。律人がそっと、私の指に指輪を嵌める。涙で滲んだ視界の向こうで、きらきら、光っているのが確かに見えた。
 律人が、私を抱きしめる。
 その腕の強さに、私を包む体の温かさに──私は強く彼を抱きしめ返し、子どもみたいに、大声で泣きじゃくることが出来たのだ。



 ……ちなみにその後、律人が労働局に私の元の勤め先の問題点──私以外にも、あまり良くないやり方で退職を勧告された社員が多く居たらしい──を通告する意外と執念深い面を見せたり、あゆみに元サヤ報告をして「本当に良かった!」と祝福されたり、入籍だけ済ませて結婚式は後日盛大に……の予定が、想定外の妊娠で狂ってしまったり、と、大小の後日談が発生することになり、最終的には男女一人ずつの子どもに恵まれ、律人が思い描いていたとおりの『幸福な家庭』を築くことになるのだが。
 この時の私は、当然、そんなことは知る由もなく──ただ、律人の腕の強さと温かさに、漠然とした未来への希望みたいなものだけを、感じ取っていたのだった。


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