嘘つきな先輩は、エリート弁護士になった元カレにすべてを暴かれる
4. 知っている部屋
律人の言葉のとおり、部屋の中は、不思議なぐらいあの頃のままだった。
1LDKの、一人暮らしにしては少し広めの物件。ひろびろとしたダイニングの、対面式キッチンの上のコーヒーメーカー、小さなダイニングテーブル、パソコンデスク、二人掛けのソファとその向かい側にある大きなテレビ。もう一部屋は寝室になっていて、そちらも私が知っているままであれば、セミダブルのベッドとハンガーラックが置かれているはずだ。
時が止まったみたいな部屋に、思わず立ち尽くしてしまう。律人はそんな私の脇をすり抜けてキッチンに向かい、ごく軽くこちらに問いかけてきた。
「何か飲む? 酔い覚ましに」
「あ、……ええと、お茶とかがあれば……」
律人も私も珈琲党だったから、今見えているコーヒーメーカーも、二人でこだわって選んだものだ。とはいえ、この時間に珈琲を飲む気にも、昔を懐かしむ気も当然ならない。律人は「わかった」と言って電気ケトルのスイッチを入れ、私は少し考えてから、恐る恐るソファへと腰を下ろした。
落ち着いたグレージュのソファは、コーヒーメーカー同様、律人とふたりで選んだものだった。律人の部屋なんだから好きにすればいい、と言った私に、律人は『結婚して引っ越すことになっても持っていけるものにしたい』と言って譲らなかったのだ。
そう、律人は、私が同棲を断ったときひどく不満げで、『仕事に慣れたらプロポーズするから、絶対受けてもらうから』と、はっきり私に宣言していた。結婚指輪はどのブランドが良いかまで聞かれたのだ。
家庭環境があまり良いとは言えなかったらしい律人は、『円満な夫婦』や『幸福な一家』に憧れがあって──そう、まさしくこのソファに座って、律人はこんなことを言っていた。
『いちかさん。俺、子どもができたらべったべたに甘やかしたいんですよね』
『……気が早くない?』
『いやいや。そんなことないです』
真顔で言う律人が可愛くて、思わず私はくすくす笑った。まだ社会人としてはひよっこだったし、結婚も先のつもりだったけれど、彼と未来の話をするのは悪い気分ではなかった。
『……うち、あんまり、家族仲が良くなかったって言いましたっけ?』
『聞いたかも。それで家を出たくて必死で勉強した……みたいなこと言ってたよね』
『そうです。それはそれで、親が【子育て成功】みたいな顔してくるので嫌なんですけど、今は顔を合わせることもほぼないので……って、話がそれましたね。ともかく、厳しいばっかりの家だったので、子どもとは、ふつうの子がやる楽しいこと全部やりたくて』
『例えば?』
『……大きいホットケーキ焼いたりとか……?」
『したことないの?』
『ないんですよね。というか、ホットケーキを焼いてもらったこともない』
『それぐらいしようよいつでも。今する?』
『是非』
私の提案に律人は食い気味に頷いて、私は前見かけた某絵本のパンケーキの作り方のレシピを検索する。そうしてふたりで材料を買いに行き、市販のホットケーキミックスで作った分厚くもシンプルなホットケーキは、ごくありふれた味だったけれど──律人はひどく満足そうで、そのとき、私は思ったのだ。
ああ、きっと、律人と結婚したら──子どもができたら、楽しいだろうな、と。
「どうぞ」
──と、声をかけられて、私ははっと目を瞬いた。
強く刺すように胸が痛んで、咄嗟に声が出せなかった。過去はいつだって私の敵になり、手に入らない幸福を見せつけてくる。
「……ありがとう、……って、これ」
なんでもない顔でマグカップを受け取ろうとして、見覚えのある柄にぎょっとする。
「全部捨てて、って、言ったのに」
「お願いを聞く義理もないでしょう。あ、パジャマとかもそのままとってあるので、今日はそれ使って下さいね」
たしかに、律人には、私に対する何の義理もない。むっと口を閉ざし、吹き冷ましてから一口飲むと、じわりと広がる温かさにほんの少しだけ胸の痛みが和らぐ気がした。小さく呟く。
「……おいしい」
「なら良かった」
律人が、おそろいのマグカップを手に、昔そのままの距離感で、ソファの隣に腰掛ける。ほのかに感じる体温に、思わず、体が固くなってしまう。私は慌てて口を開いた。
「パジャマは、ええと、ありがとう。あとは……このソファ、貸してもらえればいいから」
「何言ってるんですか」
律人が呆れた顔をする。
「お客さんのこと、ソファで寝かせられるわけないでしょう。ベッドもそのままですから、普通にふたりで寝られますよ」
「でも」
何もしない? と聞いたら、自意識過剰がすぎるだろうか。私の躊躇いを見抜いたみたいに、律人はこちらに視線を流してうっすら笑った。
「何もしません……って言ったら、信じます?」
「……、……信じるよ。今更、私相手になにかしたいなんて思えないし」
「あ、そういうこと言います?」
「言うよ。……正直、律人が何をしたいのかわかんない。恨み言があるなら聞くけど」
はっきり言っておかなければならない。私は律人をまっすぐに見て、ゆっくり、そしてきっぱりと断言する。
「……それ以上はできない。もし……万が一、やり直したいって言われても、無理だから。それだけは、先に言っておくね」
律人は僅かに目を眇めた。
私の言い分に呆れているようにも見えるし、どう切り崩そうかをゆっくり考えているようにも見える……と思うのは、やっぱり、私の自意識過剰なのだろうか? 律人は軽く頷いてから口を開いた。
「いちかさんの言い分はわかりました。……恨み言、ではありませんが、話は聞きたいと思っていますよ。少なくとも、あの日いちかさんが言っていた『理由』は、どうやら真実ではなかったようなので」
思わず軽く体を退いた私の前で、律人はわざとらしくにっこり笑った。
「でも、先にシャワーのほうがいいですね。疲れたでしょう。着替えはありますが、流石に化粧品の類は……使えませんよね、もう」
「……そのへんは、最低限はあるから、大丈夫」
私のものを何も捨てていない、私の後に誰もこの家に来ていない。手際よく伝えられる事実に、どんな感想を抱いたら良いのだろう。喜ぶことだけは間違っているとわかっているのに。私はマグカップを机に置いて、「じゃあ、シャワー借りるね」と、逃げるようにその場を後にしたのだった。
1LDKの、一人暮らしにしては少し広めの物件。ひろびろとしたダイニングの、対面式キッチンの上のコーヒーメーカー、小さなダイニングテーブル、パソコンデスク、二人掛けのソファとその向かい側にある大きなテレビ。もう一部屋は寝室になっていて、そちらも私が知っているままであれば、セミダブルのベッドとハンガーラックが置かれているはずだ。
時が止まったみたいな部屋に、思わず立ち尽くしてしまう。律人はそんな私の脇をすり抜けてキッチンに向かい、ごく軽くこちらに問いかけてきた。
「何か飲む? 酔い覚ましに」
「あ、……ええと、お茶とかがあれば……」
律人も私も珈琲党だったから、今見えているコーヒーメーカーも、二人でこだわって選んだものだ。とはいえ、この時間に珈琲を飲む気にも、昔を懐かしむ気も当然ならない。律人は「わかった」と言って電気ケトルのスイッチを入れ、私は少し考えてから、恐る恐るソファへと腰を下ろした。
落ち着いたグレージュのソファは、コーヒーメーカー同様、律人とふたりで選んだものだった。律人の部屋なんだから好きにすればいい、と言った私に、律人は『結婚して引っ越すことになっても持っていけるものにしたい』と言って譲らなかったのだ。
そう、律人は、私が同棲を断ったときひどく不満げで、『仕事に慣れたらプロポーズするから、絶対受けてもらうから』と、はっきり私に宣言していた。結婚指輪はどのブランドが良いかまで聞かれたのだ。
家庭環境があまり良いとは言えなかったらしい律人は、『円満な夫婦』や『幸福な一家』に憧れがあって──そう、まさしくこのソファに座って、律人はこんなことを言っていた。
『いちかさん。俺、子どもができたらべったべたに甘やかしたいんですよね』
『……気が早くない?』
『いやいや。そんなことないです』
真顔で言う律人が可愛くて、思わず私はくすくす笑った。まだ社会人としてはひよっこだったし、結婚も先のつもりだったけれど、彼と未来の話をするのは悪い気分ではなかった。
『……うち、あんまり、家族仲が良くなかったって言いましたっけ?』
『聞いたかも。それで家を出たくて必死で勉強した……みたいなこと言ってたよね』
『そうです。それはそれで、親が【子育て成功】みたいな顔してくるので嫌なんですけど、今は顔を合わせることもほぼないので……って、話がそれましたね。ともかく、厳しいばっかりの家だったので、子どもとは、ふつうの子がやる楽しいこと全部やりたくて』
『例えば?』
『……大きいホットケーキ焼いたりとか……?」
『したことないの?』
『ないんですよね。というか、ホットケーキを焼いてもらったこともない』
『それぐらいしようよいつでも。今する?』
『是非』
私の提案に律人は食い気味に頷いて、私は前見かけた某絵本のパンケーキの作り方のレシピを検索する。そうしてふたりで材料を買いに行き、市販のホットケーキミックスで作った分厚くもシンプルなホットケーキは、ごくありふれた味だったけれど──律人はひどく満足そうで、そのとき、私は思ったのだ。
ああ、きっと、律人と結婚したら──子どもができたら、楽しいだろうな、と。
「どうぞ」
──と、声をかけられて、私ははっと目を瞬いた。
強く刺すように胸が痛んで、咄嗟に声が出せなかった。過去はいつだって私の敵になり、手に入らない幸福を見せつけてくる。
「……ありがとう、……って、これ」
なんでもない顔でマグカップを受け取ろうとして、見覚えのある柄にぎょっとする。
「全部捨てて、って、言ったのに」
「お願いを聞く義理もないでしょう。あ、パジャマとかもそのままとってあるので、今日はそれ使って下さいね」
たしかに、律人には、私に対する何の義理もない。むっと口を閉ざし、吹き冷ましてから一口飲むと、じわりと広がる温かさにほんの少しだけ胸の痛みが和らぐ気がした。小さく呟く。
「……おいしい」
「なら良かった」
律人が、おそろいのマグカップを手に、昔そのままの距離感で、ソファの隣に腰掛ける。ほのかに感じる体温に、思わず、体が固くなってしまう。私は慌てて口を開いた。
「パジャマは、ええと、ありがとう。あとは……このソファ、貸してもらえればいいから」
「何言ってるんですか」
律人が呆れた顔をする。
「お客さんのこと、ソファで寝かせられるわけないでしょう。ベッドもそのままですから、普通にふたりで寝られますよ」
「でも」
何もしない? と聞いたら、自意識過剰がすぎるだろうか。私の躊躇いを見抜いたみたいに、律人はこちらに視線を流してうっすら笑った。
「何もしません……って言ったら、信じます?」
「……、……信じるよ。今更、私相手になにかしたいなんて思えないし」
「あ、そういうこと言います?」
「言うよ。……正直、律人が何をしたいのかわかんない。恨み言があるなら聞くけど」
はっきり言っておかなければならない。私は律人をまっすぐに見て、ゆっくり、そしてきっぱりと断言する。
「……それ以上はできない。もし……万が一、やり直したいって言われても、無理だから。それだけは、先に言っておくね」
律人は僅かに目を眇めた。
私の言い分に呆れているようにも見えるし、どう切り崩そうかをゆっくり考えているようにも見える……と思うのは、やっぱり、私の自意識過剰なのだろうか? 律人は軽く頷いてから口を開いた。
「いちかさんの言い分はわかりました。……恨み言、ではありませんが、話は聞きたいと思っていますよ。少なくとも、あの日いちかさんが言っていた『理由』は、どうやら真実ではなかったようなので」
思わず軽く体を退いた私の前で、律人はわざとらしくにっこり笑った。
「でも、先にシャワーのほうがいいですね。疲れたでしょう。着替えはありますが、流石に化粧品の類は……使えませんよね、もう」
「……そのへんは、最低限はあるから、大丈夫」
私のものを何も捨てていない、私の後に誰もこの家に来ていない。手際よく伝えられる事実に、どんな感想を抱いたら良いのだろう。喜ぶことだけは間違っているとわかっているのに。私はマグカップを机に置いて、「じゃあ、シャワー借りるね」と、逃げるようにその場を後にしたのだった。