嘘つきな先輩は、エリート弁護士になった元カレにすべてを暴かれる
5. 一夜の約束
脱衣所の洗面台に、私の姿が写っている。
メイクを落としてしまえば凡庸以下になる顔立ち、太っても痩せてもいない体、大きくも小さくもない胸。取り立てて特徴のない私の体に──ひとつだけ、すこしも『凡庸』ではない箇所がある。私はそこを──下腹部に走る大きな傷跡を、そっと撫でた。
これだけは、知られたくない。
そう、これこそが、私が決して律人に告げられない『本当の理由』だ。すべてを聞き出すつもりだろう律人を相手に、私は、口を割らずにいられるだろうか? 今からでも、他のそれらしい理由をでっち上げておくべきだろうか? いや、ここは小細工を弄するより、『会社を辞めたあと振られてどうしようもなくなって地元に帰った』とでもしておくべきだろう。まさか会社の人に話を聞いているとも思えな……
(……聞いてるかも……)
なにせ、彼の職業は弁護士だ。数々のフィクションにより形作られた勝手なイメージに過ぎないが、聞き込みや情報収集はお手の物、という感じがする。事実としてあゆみからは情報が抜かれているわけだし。私は深くため息を吐いた。
(考えてもしょうがない。……律人は、きっと、納得がいかないんだ。未練……も、あるのかもしれないけど、それもきっと、理由がわからないからもやもやが強くなってるだけで。とにかく……こちらが折れなければ大丈夫、のはず)
かつてと同じシャンプー、コンディショナー、ボディーソープ。懐かしい香りに包まれながら、必死に自分に言い聞かせる。手早くシャワーを浴び、見知った場所にあるタオルを借りてから、一年ぶりに見るパジャマに腕を通す。濡れ髪をタオルで拭いながら部屋に戻ると、律人は「ドライヤーは寝室だから」と言って、入れ替わりに浴室に向かって行った。
寝室に入るには、少しの勇気が必要だった。
変わっていないことを突きつけられるたび込み上げる苦しさ、そして感じてはいけないはずの仄暗い喜びがあって、いっそ変わり果てていてくれたら良かったのにと思う。そうして開けた扉の先はやっぱり見知った景色のままで、ベットや枕のカバーの柄さえ変わっていないのに、目眩がするみたいだった。
もう、認めないわけにはいかない。
どうしよう。どうしたらいい。機械的に髪を乾かしていると、やっぱり見慣れたパジャマに身を包んだ律人が、タオルドライしながら部屋に入ってくる。
私の姿を認めて、律人が、軽く目を細める。その表情が意味するものを考えたくなくて、私はドライヤーのスイッチを切って、律人に差し出した。
「……使う?」
「うん。ありがとうございます」
何気ないやりとりが、私たちを否応なくあの頃に引き戻していく。もう寝てしまおう、とも思えず、ベッドに座ってぼんやりしている私の隣に、髪を乾かし終えた律人が座った。
「……聞きたいことは、色々ありますけど」
さっきより温もりを感じるのは、入浴後の体温の高さのせいだろうか。
「だいたいはわかってるつもりです。好きな人とかなんとか言ってたのは全部嘘で、仕事を辞めて地元に帰った。あゆみさんは、それ以上の事情は知らなかったらしいですが……会社、休みがちだったらいしですね」
やっぱり、と半ば諦めながら思う。外堀は埋まっていると見た方がいい。
「通院しているみたいだった、って、会社の人が言ってました。……忙しくて、全然気づかなかった。会う機会が減ってるのは、お互い仕事が忙しいからなんだって。……体調、崩してたんですね?」
「……プライバシー……」
「世間話の範疇ですよ。会社の人も、いちかさんのことを心配してました」
そうなのか。まだ二年目で、たいした仕事もできていなかったから、堪え性がないと思われたかと思っていた。お世話になっていたOJTの先輩の顔を思い出し、ありがたさと申し訳なさが同時に込み上げてくる。私だって、辞めたいわけではなかったのだ。
「いちかさん。何があったんですか」
「……言いたくない」
「俺のことが嫌いになったんですか。……俺じゃあ、頼りになりませんでしたか?」
切々と訴える声が、その言葉ひとつひとつが、胸を抉る。頼りにならないなんてことはなかった。ただ──律人は若く、忙しく──そして何より、輝かしい未来があったのだ。
なんて言ったところで、怒らせるだけだということはわかっている。わかっているから口には出さない。
「もうバレてると思いますけど。いちかさん、俺はまだ、あなたが好きです。一年経っても忘れられなくて、あゆみ先輩の結婚式にかこつけて罠に掛けるみたいな真似をして家に連れ込んで、……このままなし崩しに復縁しようって、そう考えてるぐらいには」
わかっている、わからないわけが、思い知らないわけがなかった。この部屋には、私の存在が残りすぎている。
それはそのまま、律人の中に、私がまだ残り続けているということだった。
律人の手が、膝の上で縮こまっている私の手の上に、そっと重なる。つい先刻、指輪のない手を確認するように掴まれたときとは違う穏やかさで、柔らかく、包むように手を握られる。
温かい──かと思いきや、彼の緊張を表すように、その手はすこしひんやりしていた。
「いちかさんは? ……俺の考えなんてお見通しですよね。それでも家までついてきてくれるぐらいには、俺のこと、好きでいてくれてるんじゃないんですか」
「私は、……」
律人の手に包まれた手が勝手に動いて下腹部に伸びそうになるのを、必死で止める。
言えるわけがなかった。あの時も、今も、私の結論は同じだった。
「……律人とは、付き合えない。どうしても」
法律は心を縛れない。
婚約状態でもない男女の関係を裁く法律はなく、律人はなにひとつ私に強要できない。そして、法律は、個人の秘密を暴けない──勿論、人と人との間のこと全てが、法で片付けられるわけではないけれど、少なくともその事実は、私にとってただひとつの、お守りみたいな縁(よすが)だった。
律人の手が、僅かに震える。何かを堪えるような沈黙が落ちる。
私はずるい。律人の優しさを、人間としての正しさを知っているから、律人がここで私を罵倒したり、追い出したりしないことがわかって言っているのだ。
「……そうですか」
絞り出すような声だった。思わず腕を伸ばしたくなる──自分がつけた傷なのに、抱きしめて、大丈夫だよと言ってあげたくなる。私は思わず律人を見て、その瞬間、視線をこちらに向け直した律人と、目があった。
「……!?」
肩を掴まれる。避けることは元より、目を閉じることさえできなかった。甘さのひとつもない、噛みつくような口づけに驚いている間に、呼吸を奪うように舌をねじ込まれる。
「っ、……!」
嫌がるべきだ。
けれども、そう思っている時点で、心はそう感じていないということだ。私は目を閉じて、思わず、握られたままの手を握り返した。
「……じゃあ、」
僅かに離れた唇の間から、吐息のように、言葉が吹き込まれる。
「今日だけでいいから、あの頃みたいに、俺のいちかさんでいてくれませんか。そうしたら」
恐る恐る持ち上げた瞼の向こうで、至近距離にある律人の顔が、律人の目が、溢れる何かを堪えるようなかたちに歪む。
「……いちかさんのこと、諦めるから」
どうするべきなのか、わからない。
正しい道はもう失われていて、私はただ、律人の泣きそうな顔を、見ていることができなかった。
正しい道はもう、失われているけれど。
「……ふたつ」
「え?」
「約束してくれる?」
更に間違った選択だと、わかっている。わかっていて、私は律人に囁いた。
「明かりは消して。……あと、上の服……脱がさないで」
見られたくないから。その言葉を、律人はどう受け取っただろうか。律人はただ「わかりました」と頷いて、ベッドサイドのリモコンを手にとって明かりを消し──私がなにか言うのを嫌がるように、再び、私の唇を唇で塞いだ。
メイクを落としてしまえば凡庸以下になる顔立ち、太っても痩せてもいない体、大きくも小さくもない胸。取り立てて特徴のない私の体に──ひとつだけ、すこしも『凡庸』ではない箇所がある。私はそこを──下腹部に走る大きな傷跡を、そっと撫でた。
これだけは、知られたくない。
そう、これこそが、私が決して律人に告げられない『本当の理由』だ。すべてを聞き出すつもりだろう律人を相手に、私は、口を割らずにいられるだろうか? 今からでも、他のそれらしい理由をでっち上げておくべきだろうか? いや、ここは小細工を弄するより、『会社を辞めたあと振られてどうしようもなくなって地元に帰った』とでもしておくべきだろう。まさか会社の人に話を聞いているとも思えな……
(……聞いてるかも……)
なにせ、彼の職業は弁護士だ。数々のフィクションにより形作られた勝手なイメージに過ぎないが、聞き込みや情報収集はお手の物、という感じがする。事実としてあゆみからは情報が抜かれているわけだし。私は深くため息を吐いた。
(考えてもしょうがない。……律人は、きっと、納得がいかないんだ。未練……も、あるのかもしれないけど、それもきっと、理由がわからないからもやもやが強くなってるだけで。とにかく……こちらが折れなければ大丈夫、のはず)
かつてと同じシャンプー、コンディショナー、ボディーソープ。懐かしい香りに包まれながら、必死に自分に言い聞かせる。手早くシャワーを浴び、見知った場所にあるタオルを借りてから、一年ぶりに見るパジャマに腕を通す。濡れ髪をタオルで拭いながら部屋に戻ると、律人は「ドライヤーは寝室だから」と言って、入れ替わりに浴室に向かって行った。
寝室に入るには、少しの勇気が必要だった。
変わっていないことを突きつけられるたび込み上げる苦しさ、そして感じてはいけないはずの仄暗い喜びがあって、いっそ変わり果てていてくれたら良かったのにと思う。そうして開けた扉の先はやっぱり見知った景色のままで、ベットや枕のカバーの柄さえ変わっていないのに、目眩がするみたいだった。
もう、認めないわけにはいかない。
どうしよう。どうしたらいい。機械的に髪を乾かしていると、やっぱり見慣れたパジャマに身を包んだ律人が、タオルドライしながら部屋に入ってくる。
私の姿を認めて、律人が、軽く目を細める。その表情が意味するものを考えたくなくて、私はドライヤーのスイッチを切って、律人に差し出した。
「……使う?」
「うん。ありがとうございます」
何気ないやりとりが、私たちを否応なくあの頃に引き戻していく。もう寝てしまおう、とも思えず、ベッドに座ってぼんやりしている私の隣に、髪を乾かし終えた律人が座った。
「……聞きたいことは、色々ありますけど」
さっきより温もりを感じるのは、入浴後の体温の高さのせいだろうか。
「だいたいはわかってるつもりです。好きな人とかなんとか言ってたのは全部嘘で、仕事を辞めて地元に帰った。あゆみさんは、それ以上の事情は知らなかったらしいですが……会社、休みがちだったらいしですね」
やっぱり、と半ば諦めながら思う。外堀は埋まっていると見た方がいい。
「通院しているみたいだった、って、会社の人が言ってました。……忙しくて、全然気づかなかった。会う機会が減ってるのは、お互い仕事が忙しいからなんだって。……体調、崩してたんですね?」
「……プライバシー……」
「世間話の範疇ですよ。会社の人も、いちかさんのことを心配してました」
そうなのか。まだ二年目で、たいした仕事もできていなかったから、堪え性がないと思われたかと思っていた。お世話になっていたOJTの先輩の顔を思い出し、ありがたさと申し訳なさが同時に込み上げてくる。私だって、辞めたいわけではなかったのだ。
「いちかさん。何があったんですか」
「……言いたくない」
「俺のことが嫌いになったんですか。……俺じゃあ、頼りになりませんでしたか?」
切々と訴える声が、その言葉ひとつひとつが、胸を抉る。頼りにならないなんてことはなかった。ただ──律人は若く、忙しく──そして何より、輝かしい未来があったのだ。
なんて言ったところで、怒らせるだけだということはわかっている。わかっているから口には出さない。
「もうバレてると思いますけど。いちかさん、俺はまだ、あなたが好きです。一年経っても忘れられなくて、あゆみ先輩の結婚式にかこつけて罠に掛けるみたいな真似をして家に連れ込んで、……このままなし崩しに復縁しようって、そう考えてるぐらいには」
わかっている、わからないわけが、思い知らないわけがなかった。この部屋には、私の存在が残りすぎている。
それはそのまま、律人の中に、私がまだ残り続けているということだった。
律人の手が、膝の上で縮こまっている私の手の上に、そっと重なる。つい先刻、指輪のない手を確認するように掴まれたときとは違う穏やかさで、柔らかく、包むように手を握られる。
温かい──かと思いきや、彼の緊張を表すように、その手はすこしひんやりしていた。
「いちかさんは? ……俺の考えなんてお見通しですよね。それでも家までついてきてくれるぐらいには、俺のこと、好きでいてくれてるんじゃないんですか」
「私は、……」
律人の手に包まれた手が勝手に動いて下腹部に伸びそうになるのを、必死で止める。
言えるわけがなかった。あの時も、今も、私の結論は同じだった。
「……律人とは、付き合えない。どうしても」
法律は心を縛れない。
婚約状態でもない男女の関係を裁く法律はなく、律人はなにひとつ私に強要できない。そして、法律は、個人の秘密を暴けない──勿論、人と人との間のこと全てが、法で片付けられるわけではないけれど、少なくともその事実は、私にとってただひとつの、お守りみたいな縁(よすが)だった。
律人の手が、僅かに震える。何かを堪えるような沈黙が落ちる。
私はずるい。律人の優しさを、人間としての正しさを知っているから、律人がここで私を罵倒したり、追い出したりしないことがわかって言っているのだ。
「……そうですか」
絞り出すような声だった。思わず腕を伸ばしたくなる──自分がつけた傷なのに、抱きしめて、大丈夫だよと言ってあげたくなる。私は思わず律人を見て、その瞬間、視線をこちらに向け直した律人と、目があった。
「……!?」
肩を掴まれる。避けることは元より、目を閉じることさえできなかった。甘さのひとつもない、噛みつくような口づけに驚いている間に、呼吸を奪うように舌をねじ込まれる。
「っ、……!」
嫌がるべきだ。
けれども、そう思っている時点で、心はそう感じていないということだ。私は目を閉じて、思わず、握られたままの手を握り返した。
「……じゃあ、」
僅かに離れた唇の間から、吐息のように、言葉が吹き込まれる。
「今日だけでいいから、あの頃みたいに、俺のいちかさんでいてくれませんか。そうしたら」
恐る恐る持ち上げた瞼の向こうで、至近距離にある律人の顔が、律人の目が、溢れる何かを堪えるようなかたちに歪む。
「……いちかさんのこと、諦めるから」
どうするべきなのか、わからない。
正しい道はもう失われていて、私はただ、律人の泣きそうな顔を、見ていることができなかった。
正しい道はもう、失われているけれど。
「……ふたつ」
「え?」
「約束してくれる?」
更に間違った選択だと、わかっている。わかっていて、私は律人に囁いた。
「明かりは消して。……あと、上の服……脱がさないで」
見られたくないから。その言葉を、律人はどう受け取っただろうか。律人はただ「わかりました」と頷いて、ベッドサイドのリモコンを手にとって明かりを消し──私がなにか言うのを嫌がるように、再び、私の唇を唇で塞いだ。