嘘つきな先輩は、エリート弁護士になった元カレにすべてを暴かれる

8. 逃れられぬ朝

 安っぽいシルバーの指輪は、かつてと同じ場所、テレビ台の上の小物入れの中に、変わらぬ輝きで収まっていた。

「……ごめんね」

 これは窃盗にあたるのだろうか? と考えながら、指輪を回収して財布の中にしまい込む。
 昨日着ていた二次会用のワンピースをもう一度着るのは躊躇われたから、置きっぱなしにしていた服の中から、季節感の合うものを選んで身につける。その他の服、パジャマ、置き去りにしていた小物の何もかも、かつてと同じ場所にしまわれていたそれらを回収し、すべてをどうにか紙袋の中に詰め込むことに成功した。

 カーテンも開けないままの部屋は薄暗く、朝の静寂の中で、終わりを刻む音がする。

 今度こそ、なにも残さないようにしなければ。心も、未練も、なにもかも。ぐるりと部屋を見回して、回収し忘れているものがないかを再度確認し──私は、荷物を手に立ち上がった。

 さよなら、と呟いた声は、音にならずに空気に溶けていく。これで終わりだ。部屋を出ようとした私の背後に──その声は、ごくなんでもない調子で掛けられた。


「忘れ物ですよ、いちかさん」


 振り返る。
 寝室から出てきた律人が、明らかに寝起きではない顔で私を見て、ごく穏やかに微笑んでいる。そうして律人は、ゆっくり私に歩み寄り、手の中のものを差し出した。

「手を出して」
「……え?」
「忘れ物です。……一年前の」

 私の手のひらに、小さな箱が落とされる。
 記憶の奥底から、会話が蘇ってくる。『婚約指輪を買うなら何が良いのか』と問われ、そもそも要らないと答えたあとに、さんざん粘られてなんとなく口にしたブランドだった。

「笑ってくれていいですよ。……いちかさんの様子が可笑しいのは、なんとなく気づいてました。でも、あの頃の俺には余裕がなくて、ゆっくり話を聞く時間をとるとか、そういう方法じゃなく、最も安直な手段を選んだ。……いや、違うか」

 律人が、自嘲のかたちで唇を歪める。

「いちかさん、結婚式に呼ばれたりしていたでしょう。就職して少しして、ちょうどそういう時期だったから。……だから、いちかさんの悩みが、『そろそろ結婚したい』なんだと思い込んで、……そう思いたくて、こんなものを買ったんです。とんだ自惚れだと笑って下さい。あるいは、何にも気付けなかった大馬鹿者だと」

 何も間違っていない、と言ってあげたかった。友人たちの間で少し早い結婚ブームが起きていたのは確かだったし、律人が言ったような悩みを抱いた時期も確かにあった。
 それが些細な悩みになるほどの、重大な問題が起きてしまった、というだけだ。そして、私はそれを律人から必死に隠した。隠されたものを暴けなかったことは、罪ではない。律人には、一つの落ち度もなかった。

「いちかさん」

 律人の視線が、僅かに下がる。

「何があったんですか。……すみません、駄目だと言われたのに、その、……夜、体を拭いているときに、見てしまって」

 起きたとき、下腹部の汚れは拭き取られ、下着と服は着せ直されていたから、そうだろうとは思っていた。シャワーも浴びずに眠りこけてしまった私が全面的に悪い。それでもばつが悪そうに、けれどもはっきりと、律人は私に問いを差し出した。

「……腹部にあったのは、手術痕ですよね?」

 やはり、気付かれてしまっていたか。
 まだ新しい傷跡は、下腹部を切り開くようにまっすぐに走っていて、とても『ただの傷』と言い張ることはできないだろう。咄嗟に手のひらで下腹部を押さえた私に、律人が、逃げることを許さないように詰め寄ってくる。

「それが、いちかさんが俺を振った、本当の理由なんですか」

 本当の理由。
 そうだ、とも言えたし、そうではない、とも言えた。どちらにせよ、回答を拒否し続けることのほうが不誠実であることだけは確かだった。私は、観念して口を開いた。


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