婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
「あのさあ、足を引っぱるくらいなら婚約は白紙に戻そうか。正式な結納の場を設けたわけでもないし、なかったことにするのに手続きがいるわけでもない。まあ、君の親がなんて言うかは知らないけど」

 彰さんとの婚約を両親に命じられてから、会社は退職し実家を追い出されるようにして彼のマンションに移った。
 それからというもの、彰さんの身の回りの世話をする家政婦のようなことをして過ごしている。

 父はもちろん、私を疎んでいる後妻や義妹は、実家に戻ることを許さないだろう。
 それどことか婚約者の心をつなぎ留められないのかと、幼少期からされてきたように暴力を振るわれるかもしれない。そんな場面が脳裏をよぎり、思い出した痛みに耐えるように唇を噛みしめた。

「それは……困ります」

「困っているのは、こっちなんだけど」

 婚約が決まるまでの私は、医療機器を扱う実川(じつかわ)メディカルで事務員をしていた。いくら父が社長を務めている会社とはいえ、出戻ったところでもう一度雇ってくれるとは思えない。

 普段は私に無関心で都合よく利用することしか考えない父は、彰さんとの関係が上手く築けなかったとなればどんな態度に出るだろう。
 今後を想像すると、怖くてたまらない。震える指先を、ぐっと握り込んだ。

 実母は、私が六歳の頃に亡くなっている。それからすぐに、義母が嫁いできた。彼女は母が生きている頃から父と親密な関係にあったのだと、後に知ることになる。

 義母が嫁いできてからというもの、二十七歳になる今日まで辛くあたられてきた。逃げ出す勇気などはなから削がれ、彼女たちに従順になるしかなかった。

「凪はもう、いらないかな」

「そ、んな……」

 今ここで、彰さんに嫌われるわけにはいかない。

 彼のことを好きなわけじゃない。
 それどころか婚約した早々に体の関係を迫ってきたこの人が怖いし、嫌悪している。
 なんとか身を守れたのはよかったが、それからというもの彼はほかの女性との逢瀬を散々重ねてきた。

 政治家の彼にとって、スキャンダルは命とになる。
 外で女性と会っていることを誰かにかぎつけられるわけにはいかないと、私も滞在している自宅マンションに女性を呼び寄せることが何度もあった。その女性の身の回りの世話も、当然のように押し付けられる。
 これで彰さんに好意を抱くわけがない。

 それでも、ここで見放さられるわけにはいかなかった。
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