婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 もしかして私……凌也さんを好きになっちゃった?

 多忙な凌也さんを労わりたいと思うのは、彼が恩人だから。最初はたしかにそんな気持ちでいたはず。

 でも今は、それだけじゃない。

 つい彼を目で追ってしまうのは、なにをすれば彼が喜んでくれるのかを知りたいから。そうして見つけるのは、彼のいいところばかり。

 ハンドルに添えられた、彼の手をチラッと見る。男性らしく骨ばって、ごつごつとしている。
 あの大きな手は、自信がない私の背中を優しく後押ししてくれる。ときには頭にポンポンと添えられて、褒めたり励ましたりもしてくれる。
 そうされると家族には与えてもらえなかった愛情を彼に注がれているようで、心が温かくなる。

 だから手放すのが惜しいのかといえば、そうじゃない。

 あの手で、ほかの女性に触れてほしくない。優しい笑みを、私以外の人に向けないでほしい。そんな仄暗い感情が、体の奥でうごめいている。

 自分の中にいつの間に生まれていた独占欲を、嫌でも認めざるをえない。

 私は凌也さんのことが、異性として好き。
 契約の関係でもいいから、そばにいさせてほしい。

 気づいてしまった想いを静めるように、胸もとを手で押さえる。
 これは一方通行な気持ちだ。私たちは契約の関係でしかないから、いずれ別れるときがくる。

「どうかしたか?」

 すっかり考え事に没頭していると、凌也さんが心配そうに声をかけてきた。
 彼から見えていないかもしれないが、慌てて笑みを浮かべる。

「外は、暑そうだなって思って」

 とっさのごまかしを、変に思われていないだろうか。

「本当にな。凪、疲れていないか?」

「大丈夫。それより、食事が楽しみ」

 明るい口調を心掛けてそう言うと、前を見すえたまま凌也さんは口角を上げた。

 今夜連れてきてくれたのは、イタリアンのお店だ。ドレスコードのある豪華なお店で、利用客は男女とも着飾っている。
 私は店内の雰囲気だけで緊張してしまうけれど、凌也さんはいたっていつも通りだ。

 個室に案内されて、向かい合わせに席に着く。
 穏やかにこちらを見つめる彼に対して、私の表情は強張っていたかもしれない。

「――それなら、今度の休みは一緒に映画を見に行こうか」

 話題が豊富で聞き上手でもある凌也さんとのおかげで、少しずつ緊張が解れて行く。

 話の流れで、最後に映画を見たのはもう数年前だと明かした。というか、映画館には数回しか行ったことがない。

「楽しみ」

 笑みを浮かべた私に、凌也さんは「それくらいで満足してもらったら困るぞ」と言う。

「凪の行ったことのない観光地にもたくさん行こう。遊園地にも行こう。それから、冬になったらウィンタースポーツに挑戦するのもいい」

 実家で、私は家族だと認められていなかった。だから多くの子どもが経験するだろうお出かけを、私はほとんど知らない。三人が出かけている間、私は家に置いていかれていた。

 大人になって美琴が誘い出してくれることはあったけれど、宿泊を伴うような外出に関しては『贅沢をするな』と義母らに咎められて叶わなかった。

「この先、時間はたくさんあるんだ。いろいろなところに出かけて、たくさんの経験をしよう」

 そう言ってくれた彼の優しさに、ジワリと瞳が潤む。涙がこぼれてしまわないように目に力を込めて、衝動をやり過ごした。

「はい!」

 笑みを浮かべて明るい口調で返した私を、彼は目を細めて見つめた。




< 31 / 55 >

この作品をシェア

pagetop