婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 父と再婚してからの美香子さんは、事あるごとに私にきつくあたった。

「いい? あんたは仕方なく、この家に置いてあげているの」

 ここで泣こうものなら、背中やお腹をぶたれてしまう。美香子さんは服を着ればわからないところばかりを狙っていたし、家政婦さんのいる時間には決して手を出さない。

「私たち家族には、絶対に関わらないでちょうだい」

 理不尽に責められる私を、父は見て見ぬふりをした。というより、やっぱり関心がなかったのかもしれない。

 唯一、優しい声をかけてくれたのは家政婦さんだけだ。暴力については知らなかっただろうけれど、私が疎まれていたことは感じていたのだと思う。

 でも彼女だって表立って私を庇えば、雇い主の意向に逆らうことになってしまう。彼女は三人が不在になると『助けてあげられなくて、ごめんね』と涙ながらに謝罪し、ちょっとしたお菓子をくれた。

 義母に逆らう気力は早々に削がれ、おとなしくしていれば酷いことはされないと早々に学んだ。
 家にいるときは常に息をひそめ、言われたことはなんでも素直に受け入れる。生きていくためには、そうやって下を向いて過ごすしかなかった。

* * *

「はあ……」

 元婚約者の顔を久しぶりに見たせいで、嫌なことを思い出してしまった。

 テレビを消して立ち上がったところで、玄関から聞こえた物音にハッとする。
 時刻はもうすぐ二十二時になる。すっかり考え込んでいるうちに、思いのほか時間が経っていたようだ。

 慌てて出迎えに行くと、私と目が合った途端に凌也さんが笑みを浮かべた。

「おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

 彼の表情の変化やちょっとした反応に、私を好意的に受け入れていると感じて安堵する。

「今日はなにをして過ごしていたんだ?」

 廊下を進みながら、凌也さんが尋ねてくる。受け取った鞄を手に、あれこれ話しながらその背後をついていく。
 彼が私のことを知ろうとしてくれている。それだけで、さっきまでの憂鬱だった気分が少しずつ晴れていった。




< 36 / 107 >

この作品をシェア

pagetop