婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
「はあ」
 彰さんのマンションにいても、安らぐ時間などありもしない。
 でも、帰るところがないという現実に怖くなってくる。

 とにかく、ここに居座るわけにはいかない。そう思って顔を上げると、少し先に立つひとりの男性と視線が合った。

 まさか、さっきまでのやりとりを見られていたのだろうか。彰さんの評判を傷つけるわけにはいかず、慌てて視線をそらしてそ知らぬふりをする。

「ちょっといいか」

 けれど、私が立ち去るより先に引き留められてしまう。

「なんでしょうか」

 恐る恐る振り返ると、男性はさっきよりも距離を数歩詰めていた。

 彰さんよりも身長がずいぶんと高く、女性としては平均的な私が見上げるくらいだ。きっちりとセットされた短めの黒髪に目つきの鋭さは、ごまかしの効かない厳格な人だと思わせる。見た目だけは温和な彰さんとは、まるで真逆の印象を受けた。

「どうして言い返さないんだ?」

 彰さんとの会話を聞かれていたのだろうと悟ったが、認めるわけにはいかない。なんの話だと、とぼけて首をかしげた。

「さっきの男は婚約者のようだが、それにしてはずいぶんな態度だった。まるで君を自分の所有物のように扱って、大切にはしていない」

 正確に言い当てられてたじろぐ。
 つまりこの男性は、私たちの会話をすべて聞いていたようだ。

 だからといって、認めるわけにはいかない。彰さんの評判を傷つけるのだけは、なんとしても回避しなければならない。

「ちょ、ちょっとした、行き違いがあっただけですから大丈夫です」

 振り切って立ち去ろうとしたが、一歩先に目の前に立たれてしまう。

「どう見ても、日頃からひどいことを言われ続けているようだったが?」

「それは……」

 彰さんにぶつけられた数々の心ない言葉がよみがえり、うろたえて視線が泳ぐ。
 そんな私の様子に、男性は事実だと受け取ったのだろう。

「君に自覚があるかはわからないが、あの態度はハラスメント、もしくは虐待だ。誰か、間に入って助けてくれる人間はいないのか?」

 なにも応えられず、うつむくしかない。

「放っておけないな。どういうことか、聞かせてほしい」

 初対面のよくわからない人に、話せるわけがない。
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