婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
「結構ですので」
「さっきの、政治家の鏑木彰だろ? 俺にきちんと言い聞かせておかないと、ここで見聞きしたことをそこら中で話して回るかもしれないぞ」
脅し、だろうか。
こんなことを言われたら、さすがに放っておけない。
「え? あっ、ちょっと。待ってください」
喧嘩をしただけだとでも言っておこうかと考えていた最中に、男性が歩きだしてしまう。
横暴だと思いつつ、あることないことを吹聴されるのは困ると慌てて後に続く。
そうして料亭の隣に建つ、同じ系列の和風のカフェに連れていかれた。
個室に通されて、男性の向かいに座る。飲み物のみオーダーして、彼に遠慮がちに視線を向けた。
「とりあえず、自己紹介をしておこうか」
男性の差し出してきた名刺を受け取る。
「本条凌也さん……え? 本条テクノロジーズの、社長?」
思わず名刺と彼を見比べる。
本条グループの傘下で主要企業である本条テクノロジーズは、主に医療機器を扱っている。
実家の実川メディカルと同業者だから、もちろん私も知っている。といっても世界中に事業を展開している本条グループとの規模は、雲泥の差だ。
『本条テクノロジーズの社長は、三十五歳とかなり若い』
ライバル視するのもおこがましいというのに、父はそう忌々しそうにこぼしていた。
でも目の前の彼からは、年齢で侮られないほどの風格を感じる。
「鏑木彰の婚約者は、実川の人間だと耳にしているが?」
隠しているわけではないから、知られていてもおかしくはない。それにこの人には下手なごまかしなど通用しないだろうから、素直に答えた方がよさそうだ。
「そうです。鏑木彰の婚約者の、実川凪と申します」
気弱な姿を見せてはいけないと、堂々とした態度を心掛ける。語尾がわずかに震えてしまったことに、彼が気づいていなければいいけれど。
下げた頭を上げると、興味深そうにこちらを見つめる本条さんと目が合った。
「元、婚約者でいいんじゃないのか?」
「それ、は……」
軽い口調で、でも試すようにそう聞き返されて言葉に詰まる。
情けないことに、早々にうろたえる姿を晒している。
「たしか、いらないとまで言われていたはずだ」
帰ってこなくていいと突き放されてもいる。彰さんは衝動的に口走っただけかもしれないが、かなり腹を立てていたのは間違いない。
これまでもいろいろ言われてきたけれど、ここまで突き放されたのは初めてだ。
どうにか挽回しなくてはと必死で考えているが、彰さんをこれ以上怒らせない方法がわからない。
思っていることはあっても、すぐに口にできない。人の顔色をうかがってばかりいるから、彰さんにも愛想を尽かされてしまうのだ。