婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 胸もとを、右手でぐっと押さえる。

 好きな人にそんなふうに言われて、うれしくないわけがない。これまで以上に鼓動が騒ぎだし、なかなか落ち着いてくれそうにない。

 彼の言葉につい浮かれそうになってしまう。
 でも、彼にとっては夫婦としての演技にすぎないのだろう。

 ふたりの事情は誰にも知られていない。だから、これから会う彼の従弟夫婦にも仲が良好だと見せる必要がある。
 私の演技力では心もとない。これはきっと、気持ちを盛り上げるための演出だ。

 凌也さんの目論見通り、リップサービスだとわかっていても私は密かに舞い上がっている。すっかり彼に恋している目になっているかもしれない。

 凌也さんに恋愛的な意味で好かれているなんて、勘違いしてはダメだ。繰り返し自身にそう言い聞かせていないと、愛されていると思い込んでしまいそうだ。

 悶々と考えている間に、凌也さんは私の手を引いて駐車場へと向かった。

 車に乗ってやってきたのは、ここのところ人気を博しているフレンチレストランだ。国内外からお忍びでやって来る有名人もいるのだともっぱらの噂で、予約を取るのも難しいと聞く。

 スタッフに個室へ案内される。
 少し早めに来たけれど、お相手はすでに席に着いていた。

「こんばんは」

 ふたりが立ち上がって、私たちを迎え入れてくれる。

「俺の秘書の本条一真(かずま)と、その奥さんの麻子(あさこ)さんだ」

 軽く挨拶を交わして、向かい合わせに席に着く。

「初めまして、凪さん。凌也さんにはいつもお世話になっています」

 物腰やわらかな雰囲気でそう言った一真さんが頭を下げると、それに倣って麻子さんも続く。
 恐縮した私は、慌てて挨拶を返した。

「は、初めまして。これからどうぞ、よろしくお願いします」

 緊張はするけれど、いつもは向かいに座る凌也さんが隣にいてくれると思うと心強い。それに一真さんたちもにこやかで、どうやら好意的だと安堵した。
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