婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 鏑木さんが本条テクノロジーズを訪ねてくる当日。朝からずっと落ち着かない私にたいして、凌也さんはいつも通りだ。

「なにも心配はいらないから」

 靴を履いて振り返った凌也さんが、私の顔を見て苦笑する。

「わかってはいるけど……」

 純粋な意見交流を目的とした訪問なのかもしれない。
 そうだったとしても、あの人が私に関係のある人に近づくこと自体が嫌でたまらない。

「どんなやりとりをしたか、話せることはすべて凪にも教えるから」

 そこまで気を使わせるのは申し訳ない。でも、なにも教えてもらえなければ気になって仕方がないのは目に見えている。

「それじゃあ、いってくる」

「いってらっしゃい」

 扉がパタリとしまり、「ふう」と息を吐き出した。

 気を紛らせようと掃除に専念していたが、時間は遅々として進まない。お昼になっても食欲がわかず。

 ようやく面会予定の十五時になり、私の緊張もピークに達した。

「なにも、なければいいけれど……」

 なにかをしていても結局は上の空になってしまい、ソファーに座って祈るような気持ちで時間をやり過ごした。

 私が落ち着かない状態だろうと凌也さんもわかっていたようで、夜は早めに帰ってきてくれた。
 彼の表情に暗く沈んでいる様子はなくて、ひとまずほっとする。

 気になって仕方がないけれど、疲れているだろうと思うとなかなか尋ねられない。
 食事をしながらチラッと視線を向けると、目が合った凌也さんが小さく笑った。

「どうだったか、聞いていいんだぞ」

 言い当てられたことが気恥ずかしくて、頬が熱くなる。

「……その、嫌なことは言われませんでしたか?」

 ようやくそう口にした私に、凌也さんが笑みを深める。

「まったくなかった。うちが力を入れている事業に関する質問がメインだったな」

 鏑木さんのお父様は、私の父とも何度も会合を持っていた。ふたりの関係は傍から見る限り良好で、医療分野に力を入れる政治家なのだろうと想像していた。

 けれど、代替わりしてからはどうだっただろうか。
 私が知らなかっただけかもしれないが、鏑木さんが医療分野に特別力を入れている様子は感じられなかった。かといって、ほかに力を注いでいた様子もなかった気がする。

 本当にそれだけかと、さらに探るように凌也さんを見つめる。すると彼は、くすりと笑った。
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