婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
「鏑木にとって凪は、自分の所有物だったんだろうな。なにをしても許されるし、文句は決して言ってこない。そんな都合のいい存在を、反論の余地なく急に取り上げられた状態だ。逆恨みもいいところだが、腹が立つのだろう」

「私が、彼の言うことすべてに従っていのがいけなかったんでしょうね」

「凪の境遇を考えれば、それも仕方がない」

 あの頃の私は、鏑木さんに従順だった。そうしなければ実家からなにを言われるかわからなかったし、彼のマンションを追い出されたら行く当てもなかった。

「凪に直接なにかをしてくる可能性は低いと思うが、外出時は気をつけてほしい。できるだけ人通りの少ない場所は避けるように」

 もちろんだと、うなずく。

「心配かけちゃって、ごめんなさい」

 立ち上がった凌也さんが、私の手を握ってくる。ドキリとしながら彼を見上げた。

「凪はなにも悪くない。だから、謝ったり下を向いたりする必要はない。注意をするに越したことはないが、堂々としていればいいんだ」

 私を虐げる人たちの言動に、いちいち振り回されてはいけない。それが結果として、凌也さんの迷惑になるかもしれない。

「はい」

 素直に応じると、凌也さんは満足そうにうなずいた。

「そうだ凪。来月にちょっとした会がある。交流を目的にしたものだからそれほど畏まらなくていいが、凪には妻として同伴してもらいたい」

 話題が変わり、〝同伴〟と聞いて思わず背筋を伸ばして気持ちを切り替える。

「大丈夫です」

 凌也さんの役に立ちたい一心で、緊張するとか考える前に返事をしていた。

「頼もしいな」

 そう言って彼が微笑んでくれるから、私も前向きにがんばれる。

「それじゃあ今度、衣装を買いに――」

「たくさん買ってもらったし、まだ着ていないものもたくさんあるから」

 新調しそうな雰囲気に気づいて、慌てて止める。

「そうか?」

「そうです」

 これ以上、彼に散財させるわけにはいかない。
 きっぱり返した私に、凌也さんが笑い声をあげた。

「凪にはつい、あれこれ買ってやりたくなってしまうんだよ」

 蕩けるような甘い視線に見つめられて、ドキリとする。
 私のこれまでの境遇を知っているから、きっと同情心からそんなふうに思うのだろう。

「あ、甘やかしすぎたら、ダメですよ。調子に乗った私が、悪女になってあなたを振り回すかもしれませんから」

 自分で言っておきながら、とんでもない発言だ。
 凌也さんの笑みに胸が高鳴り、考えるよりも先にそう口走っていた。しまったと、後悔するも、もう遅い。

「こんなかわいい悪女なら、大歓迎だ」

 そんなことを言いながら色気を感じる視線を送られて、ますます鼓動が騒ぎだす。

「凪はもっと我がままになっていいんだぞ」

 もう限界だと、首を横に振る。

 初対面のときは、凌也さんを厳格な人だと思った。その彼が、こんなおどけた言動もするなんて意外すぎる。
 私だけが知る、凌也さんのプライベートの顔。おこがましいかもしれないけれど、密かにそう思うことで特別感に浸る。

 でも、その感情は絶対に表に出してはいけない。私たちは契約の関係なのだから、恋愛感情は必要ない。むしろ彼にとっては迷惑になるだろう。

「必要ならヘアメイクを予約してもいいし、足りないものがあれば言ってくれ」

「あ、ありがとう」

 そこまで考えてくれるのかと驚きながらも、その気遣いがうれしかった。


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