婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 人気の少ない廊下を足早に進む。
 飛び込むようにして入った手前のパウダールームには誰もおらず、ようやくほっとした。

 鏡に近づき、自身の顔を見つめる。
 羞恥心に頬はほんのり色づき、すっかり熱に浮かされたような顔をしている。
 今日は仕事で来ているというのに、これではダメだと両手で頬を軽く叩いた。

 それにしても……と、会場内での出来事を思い起こす。

 凌也さんはどこにいても女性の視線を集めていたように思う。
 優秀で地位もあり、あれだけ容姿が整っているのだからそれも当然だ。憧れるなという方が無理というもの。
 そんな男性に、演技とはいえ甘くささやかれ親しげに触れられる。しかもそれは、私だけに向けられるもの。

「ますます好きになっちゃうじゃない」

 優しくしてくれる彼に、私は依存しているだけかもしれない。そんなふうに何度も立ち止まって考えてきたものの、気持ちはまったくあせない。それどころか、大きくなっていく一方だ。

 ここで顔を合わせた中には、実川メディカルよりも大きな会社の令嬢も何人かいた。私よりも若くて、綺麗な人ばかりだ。
 彼女たちの堂々と振る舞う様は、隣にいる父親の価値をますます高めていたのは間違いない。

 私にそれができていただろうか。

 実川と結びついたといっても、私は家族にずっと疎まれていた上に今となっては縁を切ってしまっている。それでは、凌也さんにとってなにもメリットがない。

 唯一、彼の役に立っているといえば縁談避けくらい。それだって、女性たちから向けられたあからさまな視線から、私の方が彼に庇われる始末。凌也さんの足を引っぱっているようなものだ。

「はあ……」

 凌也さんをがっかりさせているんじゃないか。
 彼から贈られた高級な服やアクセサリーを身につけているものの、中身は引っ込み思案な私だ。生粋のお嬢さまとはわけが違う。今日は上手くごまかせても、張りぼてでしかない私ではすぐにボロが出てしまいそうだ。

 いつか凌也さんにも見放されてしまうんじゃないかと、どんどんマイナス思考に傾きそうになる。

 でも……。

 すっかり下がっていた視線を上げて、鏡の中の自分と目を合わせる。

 助けてくれた凌也さんに、私はまだなにも返せていない。彼が隣にいていいと言ってくれている間は、ちゃんと務めを果たしたい。
 背筋を伸ばして、弱気になってはダメだと気持ちを奮い立たせる。

 軽く化粧を直してパウダールームを後にすると、廊下に出たすぐのところでひとりの女性と出くわした。
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