婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 それからどれくらい経っただろうか。
 玄関のカギが開く音に、パッと顔を上げる。

「ただいま」

「お、お帰りなさい」

 条件反射のように立ち上がり、小走りに玄関に向かう。
 けれど、いつもより手前で足が止まってしまった。

「凪?」

 いくら多忙でも、凌也さんは決して疲れた顔を見せない。たまに冗談で『癒してくれ』と甘えられるときはあるけれど、私を心配させるようなことはしない。

 そっと彼をうかがい見る。
 一見したところ、変わった様子はない。

 そうこうしているうちに、靴を脱ぎ終えた凌也さんが近づいてきてしまう。
 前触れもなく、広い胸もとに抱きしめられていた。

「すまなかった」

 なにに対する謝罪かと、不安が大きくなる。

「ディナーの約束をしていたのに、守ることができなかった」

「え?」

 彼との別ればかりを考えていたせいで、ディナーの件はすっかり頭の片隅に追いやられていた。

「凪は楽しみにしていただろ? 今夜の服も、時間をかけて選んでいたようだし」

 気づかれていたなんて、ちょっと恥ずかしい。

「あの実家では、イベントも行事も凪は参加できなかったんじゃないか? だから、今年こそは楽しませてやりたいと思っていたのに。ごめんな」

 抱きしめられたまま、頭をなでられる。こうされていると、状況を忘れてしまいそうだ。

「次は絶対に記憶に残る一夜にしてやる。いや、それだけじゃないな。誕生日もほかのイベント事も全部だ」

 凌也さんが、私の髪に顔を埋めてくる。

「来年だけじゃない。これからずっとだ」

「ずっと……?」

 首をかしげると、少し顔を離した凌也さんが顔を覗き込んできた。
 私の瞳が潤んでいることに気づいた凌也さんが、目じりに口づけてくる。

 どう受け取ったのか、凌也さんがにわかに慌て始めた。

「特別な約束を守れなかった俺に、幻滅しているのか? 愛想を尽かせてしまったのか?」

「え?」

 もしかして、涙が込み上げてきた理由を勘違いさせていたかもしれない。

「そ、そんなわけ、なくて。その……私のせいで、凌也さんの会社が大変な目に遭っているって……」

「凪のせいではないが、どうしてそれを?」

 つい、すっと視線を逸らせる。
 私の頭にポンポンと手を乗せた凌也さんが、とりあえずリビングへ行こうと促す。そこではじめて、彼がまだスーツのままだったことに気づいた。
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