キスしない約束の恋

【下】第1話 はじめての名前

 ――初デート。

 

 そう言われても、まだ少しだけ現実感がない。

 

 待ち合わせ場所の前で、何度も時間を確認する。

 

 落ち着かない。

 

 心臓が、ずっと早いまま。

 

「……早い」

 

 小さく呟いたとき。

 

「シロ」

 

 後ろから声。

 

「……っ」

 

 振り向く。

 

 神崎くん。

 

 いつも通りの顔。

 

 でも。

 

 その呼び方に、少しだけ引っかかる。

 

「おはよ」

 

「……おはよう」

 

 並んで歩き出す。

 

 

 街の中。

 

 人が多くて。

 

 でも。

 

 隣にいるのが、この人だと思うと。

 

 少しだけ、安心する。

 

 

「どこ行く?」

 

「……任せます」

 

「じゃあ適当にぶらぶらするか」

 

 

 会話は少ない。

 

 でも。

 

 沈黙が、嫌じゃない。

 

 

「シロ」

 

 

 また、名前を呼ばれる。

 

 

 そのたびに。

 

 

 胸の奥が、少しだけ揺れる。

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 答える。

 

 

 

 でも。

 

 

 

 その名前は。

 

 

 

 もう、前の私のものな気がして。

 

 

 

 

 少しだけ。

 

 

 

 違うと思った。

 

 

 

 

「なあ」

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 

「手、繋ぐ?」

 

 

 

 

「……っ」

 

 

 

 

 急に言われて、固まる。

 

 

 

 

「……無理です」

 

 

 

 

「なんで」

 

 

 

 

「……恥ずかしいからです」

 

 

 

 

「顔赤い」

 

 

 

 

「見ないでください」

 

 

 

 

 くすっと笑う声。

 

 

 

 

 

 そのまま、少しだけ歩く。

 

 

 

 

 

 夕方。

 

 

 

 

 空が、少しだけオレンジに染まっている。

 

 

 

 

 

「……綺麗」

 

 

 

 

 思わず呟く。

 

 

 

 

 

「だな」

 

 

 

 

 隣で、同じ空を見る。

 

 

 

 

 

 そのとき。

 

 

 

 

 

「シロ」

 

 

 

 

 

 呼ばれる。

 

 

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 

 

 返事をして。

 

 

 

 

 

 ――少しだけ、間があく。

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

「神崎くん」

 

 

 

 

 

「ん?」

 

 

 

 

 

 心臓が、うるさい。

 

 

 

 

 

 でも。

 

 

 

 

 

 逃げないって、決めたから。

 

 

 

 

 

「シロじゃなくて……」

 

 

 

 

 

 声が、少し震える。

 

 

 

 

 

 それでも。

 

 

 

 

 

 顔を上げる。

 

 

 

 

 

「さ、な」

 

 

 

 

 

 一音ずつ、確かめるように。

 

 

 

 

 

「……私の名前」

 

 

 

 

 

 ちゃんと、伝える。

 

 

 

 

 

「沙奈」

 

 

 

 

 

 空気が、静まる。

 

 

 

 

 

 ほんの少しの沈黙。

 

 

 

 

 

 でも。

 

 

 

 

 

「……沙奈」

 

 

 

 

 

 神崎くんが、ゆっくり呼ぶ。

 

 

 

 

 

 その声が。

 

 

 

 

 

 優しくて。

 

 

 

 

 

 ちゃんと、大切にされている感じがして。

 

 

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 

 

 自然に、返事ができた。

 

 

 

 

 

 “シロ”じゃない。

 

 

 

 

 

 本当の名前で。

 

 

 

 

 

 ここにいる。

 

 

 

 

 

「いい名前」

 

 

 

 

 

 その一言で。

 

 

 

 

 

 胸の奥が、じんわり温かくなる。

 

 

 

 

 

 ずっと嫌だった名前なのに。

 

 

 

 

 

 初めて。

 

 

 

 

 

 嫌じゃないと思えた。

 

 

 

 

 

「じゃあ、沙奈」

 

 

 

 

 

 名前で呼ばれる。

 

 

 

 

 

 そのまま。

 

 

 

 

 

 そっと、手が差し出される。

 

 

 

 

 

「今度こそ、いい?」

 

 

 

 

 

 少しだけ迷って。

 

 

 

 

 

 でも。

 

 

 

 

 

 ゆっくり、手を重ねる。

 

 

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 

 

 指が、絡む。

 

 

 

 

 

 温かい。

 

 

 

 

 

 怖くない。

 

 

 

 

 

 ちゃんと、自分で選んだ。

 

 

 

 

 

 その感覚。

 

 

 

 

 

 ――“シロ”じゃない私で。

 

 

 

 

 

 初めて、誰かの隣に立てた気がした。
< 16 / 22 >

この作品をシェア

pagetop