温厚柔和な若旦那さまは、愛のためなら喧嘩上等!
 屋敷や寺の築地塀(ついじべい)がだんだん少なくなり、煉瓦造りの建物が増える。馬車が何台も往来し人々のざわめきが耳に入るようになった。ここは東京市の中心街。
 人力車を乗りつけた百貨店は石造り三階建てだった。ごった返すほどではないが客が途切れず出入りしている。

「さあ茜さん」

 うながされた茜は、そっと徹に手を伸ばしかけ慌てて引っ込めた。ずっと腕を組む練習をしていたから癖になっている。徹の瞳にいたずらな色が踊った。

「つかまって下さい。迷子にならなくていい」
「……意地悪おっしゃらないでくださいませ」
「ははは。ほら、顔を上げて歩くんじゃないんですか」

 恥ずかしそうにしながらも言い返してきた茜に、徹はひそかな満足をおぼえた。少しずつ、距離が縮まっているのではなかろうか。


「――まあ!」

 店内に足を踏み入れた茜は感嘆の吐息をもらした。
 広いフロアにガラスのショーケースが並び、舶来の貴重な品々がおさめられている。棚にも同じく、花瓶だの人形だの服に仕立てられる前の布だのが美しく並んでいた。楽しいことには天井にまで色とりどりの手ぬぐいがぶら下がり、飾られているのだった。

「なんでも好きな物をながめていいんですよ」
「でも私……目移りしてしまいます」

 電灯が煌びやかに照らし出す品々。茜は浮き浮きと店内を見渡した。すると徹にそっと背を押される。帯の上からとはいえ触れられて、体の近さに鼓動が速まった。
 徹が導いた先は女性用の装飾品売り場だ。帯締め、帯揚げ、替え鼻緒などの和装小物や、櫛に簪。錦で作られた香り袋や練り香もある。

「こういう売り場は楽しいですか?」
「……はい! いちどにたくさんの物を見比べられて、あれこれ欲しくなってしまいそう」
「それが百貨店の狙いですよ」

 茜は高揚した笑顔でほう、と棚を見つめる。やはりいつも遠慮して暮らしているのだと感じて、徹は申し出た。

「欲しい物があれば言って下さい先日のお礼に買って差し上げましょう」
「え……いえ、そんな」
「駄目ですよ茜さん。僕はそのつもりで来ているんですから」

 後ろを通る客のため、徹は一歩茜に近づき通路を空ける。ぶつかりそうでぶつからないスレスレに立つ徹から見おろされ、茜は呼吸が難しくなった。徹がかがんでささやく。

「今日は茜さんを甘やかす日だから。覚悟して下さい」

 ――そう、視察なんて嘘。
 これは徹が茜を落とすための騙し討ちデエトなのだった。


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