温厚柔和な若旦那さまは、愛のためなら喧嘩上等!
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 徹が茜に買ったのは、舶来のハンカチだけだった。それのみが茜の許せる値段だったのだ。
 高価な物を見せられて泣きそうになる茜が可愛かったので、徹はまあよしと引き下がる。そのかわりカフェーにも付き合わせているので上々といえよう。

 明るい光の入る店内にはテーブルと椅子が並び、紳士淑女がさんざめく。白い陶器の皿に盛られたサンドイッチと湯気の立つコーヒーを前に茜は緊張した面持ちだった。

「手づかみでいいんですよ、こんなものは」

 徹がひょいとつまんで食べてみせる。
 そういえば徹はヨーロッパ帰りなのだ。こういう食事が当たり前の旅をしてきた人だと思い出し、茜の気持ちがほぐれた。真似して食べると分厚いハムの旨味が口いっぱいに広がる。ニッコリする茜に徹が提案した。

「あんパンを買って帰りましょう。ヨネにも土産がないと」
「ヨネさんをとても大事になさっているのですね」
「そうですね。あの人は僕のばあやみたいなものだ」

 徹にとっては藤ヶ森の人々よりも家族といえるのがヨネだそう。そうして寂しく生きてきた徹なのに、こんなに強く明るく振る舞えることを茜は尊敬してしまう。
 ほろ苦いコーヒーに砂糖を混ぜて飲んだ茜は、店内で立ち働く女給たちのことを目で追う。

「皆さんテキパキなさって……私もこんなお仕事ができたらと思ってしまいます」
「おや。うちに勤めるのは嫌ですか?」
「そんなことは! こんなに良くしていただいているのに……でも私そのうち、どこかへ嫁げと父に言われますでしょう?」
「……結婚後も働けばいい。お志乃だって職業婦人ですよ。太一郎はそれでいいと。あと、先日の夜会に出るのだって立派な仕事ですね。西洋との付き合いに夫人の存在は欠かせない。茜さんならそういう立場もこなしていけそうだ」
「そう、でしょうか」
「……事業を起こそうと思っているんです」

 徹はゆったりと背もたれに身を預けた。

「呉服商は小売りの業態を変えていっている。でも僕は――製造の方に目をつけた。洋装の、です」
「せいぞう?」
「注文して仕立てる洋装ではなく、誰もが着られる服を作るんてすよ。仕立ててある服がさっきの百貨店のような店に並んでいたら誰でも買いたくなるでしょう? 女学生だって動きやすい袴を好むようになっている。そこに西洋の服が食い込めるとにらみました」
「……すごい」

 急に言われたことが完全には腑に落ちていないが、茜は目をパチパチさせた。驚いたのだ。
 徹はふらふらと遊び歩いているように思われている。店の切り回しはしないが、代わりに社交で取引相手を引っぱって来る手腕でギリギリ許されているのだと。なのに新たな仕事を計画していたなんて。

「徹さまは、家業の先を見ていらっしゃるのですね」
「……まあいちおう。男として、独り立ちできないと妻も迎えられませんから」

 匂わせてみたが、茜は感心したようにコクリとするだけ。自分に関りがあるとは欠片も思っていない顔だ。

(今日はこんなものか――)

 徹だって本気の相手には慎重になる。いきなり求婚などできたものではなかった。
 茜からのまなざしに尊敬の色が見えただけでも徹はおおむね満足だった。

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