嘘つきな患者と、私の先生。

世那視点③

まぶたが、ゆっくり開くのが見えた。


焦点の合っていない視線。


浅い呼吸。



——間に合った。


ほんのわずかに、胸の奥の張りが緩む。



「……せ、な……せん、せ」



かすれた声。


呼ばれた名前に、心臓が一瞬だけ強く鳴る。



「いるよ」



できるだけ落ち着いた声で返す。



本当は、さっきまで余裕なんてなかったくせに。



手を握る。

冷たい。頼りない。

さっきまで、この手が力なく落ちていたことを思い出す。

——もう二度と見たくない。

そんな感情が、先に出る。




「吐いて」



短く声をかける。



呼吸のリズムに合わせて、ゆっくり整えていく。

少しずつ、戻ってくる呼吸。

それを確認して、ようやく息を吐く。



「もう大丈夫」


そう言いながら、
まだ“大丈夫じゃない”ことも分かってる。

だから、目が離せない。



そのとき。


菜月がわずかに動く。


起き上がろうとする気配。

反射的に、手に力が入る。




「……帰る」



予想通りの一言。



(やっぱり言うよな)




「今は無理だよ、ちゃんと様子見なきゃ」



できるだけ柔らかく返す。

強く言えば、絶対に意地を張る。



でも、聞いてない。

視線が逸れてる。

もう“帰る”しか見えてない顔。



手を重ねる。

背中に触れて、支える。

体がちゃんと支えられていないのが分かる。

こんな状態で、よく“帰る”なんて言える。



「菜月、嫌かもだけど、入院しよ」




「やだ」



即答。




(ほんと頑固)




「また倒れるよ」

少しだけ強めに言う。

ここで引いたらダメだ。




「病院嫌い、頑張れない」



その一言で、言葉が止まる。



(……知ってる)




それでも。

ここで折れるわけにはいかない。



「俺もなるべく顔出すようにするからさ」


気づけば、そんな言葉が出ていた。



(……は?)



一瞬、自分で引く。

医者としては余計な一言。

必要以上に踏み込んでる。



なのに。

止めようと思わなかった。



「がんばろ?」



「……やだ」



さっきより弱い声。



(揺れてる)



「やだって言っても、今回はダメ」



今度は少しだけはっきり言う。



「帰る……」



「歩ける?」



沈黙。



(ほらな)




「今の状態で帰したら、また倒れる」



淡々と伝える。




「……いいもん」



その強がりに、少しだけ胸が痛む。



「よくない」


すぐに返す。




「菜月が苦しくなるの、見たくない」




言った瞬間、わずかに息が止まる。




(……何言ってんだ、俺)




「さっき、怖いって言ってたよね」


静かに重ねる。



(怖がらせたくない)


(もう、あんな顔させたくない)



「もう繰り返さないために」
「頑張ろ?」





沈黙。




迷ってるのが分かる。

全部顔に出てる。




「……どのくらい」




(……来た)




「長くはしない」
「落ち着いたらすぐ帰す」

即答する。




「……ほんと?」




「ほんと」



少しの間。




「……ちょっとだけ」



その瞬間。


張り詰めていたものが、一気に緩む。



握っていた手に、思わず力が入る。



「ありがと、菜月」



(……なんでお礼なんだよ)



自分でも分からない。



ただ。



(このまま帰されなくて、よかった)



そう思った時点で、もう誤魔化せなかった。



ただの患者に対して抱く感情じゃない。



こんなふうに、
安心したり、
焦ったり、
手を離したくないと思ったり。



(……ああ)



やっと気づく。



(俺、菜月のこと——)



一瞬、思考が止まる。


認めたくないみたいに、言葉を濁す。



でも。



目の前で、弱っている菜月を見て。


この手を離したくないと思ってる時点で。



もう、分かってる。



(……好きなんだ)
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