*Lily*
2.
「伊央先輩、またそんなに身を乗り出して……。危ないですよ」

聞き覚えのある呆れた声。

張り込み中の雑居ビルの屋上。

手すりから身を乗り出し、双眼鏡を覗き込んでいた伊央は、背後から伸びてきた腕にぐいっと腰を引き寄せられた。

「わっ……! ちょっと、慧くん、急に触らないでよ!」

「触らないと、先輩がそのまま空を飛びそうだったんで」

慧は伊央の腰を支えたまま、耳元で低く笑う。

至近距離で感じる彼の体温と、ふわりと香るシトラスの香りに、伊央の鼓動がうるさく跳ねた。

指導係は私なのに、いつの間にか彼の方が「守る側」のような顔をしているのが、なんだか悔しくて、でも少しだけ心強い。

「……私は、一刻も早くあの取引の証拠を押さえたいだけよ。正義はスピードが命なんだから!」

「はいはい、正義の味方さん。でも、倒れたら正義もクソもないでしょう?

ほら、少し座ってください。コーヒー、淹れてきましたから」

慧が差し出した紙コップを受け取ると、指先がふっと触れ合った。

伊央は慌てて視線を逸らす。

慧はひょうひょうとしているが、時折見せるその眼差しには、孤独な幼少期を過ごした影……誰にも頼らず生きてきた者の鋭さと、寂しさが混じっている。

「……ねえ、慧くん。たまには私を頼ってもいいのよ? 一応、先輩なんだし」

「……頼ってますよ。伊央先輩のその、真っ直ぐなところ。眩しすぎて、僕には毒なくらいです」

冗談めかして言う慧の横顔に、伊央はかける言葉が見つからなかった。

そんな静かな夜を破るように、警察無線が激しく鳴り響いた。

『各局、マル被(容疑者)が逃走中。付近の署員は直ちに現場へ向かえ!

……繰り返す、現在警官一名が刺されたとの入電あり。凶器を所持、極めて危険な状態だ!』

「――っ! 行くわよ、慧くん!」

「先輩、待って! 深追いは禁物です!」

伊央は慧の制止も聞かず、雨の降り出した街へと駆け出していく。

それが、二人の運命を大きく変える事件の始まりだとは、まだ知らずに。
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