偽王子と、甘い偽恋
 その日の夜。二十二時まで待っても帰ってこない臣くんに、諦めてお風呂に入ろうと立ち上がった瞬間だった。バタン、と玄関のドアが開く音が響いた。

 私は急いで玄関先まで駆け寄る。そこには、ちょうど家の中に入ってきたばかりの臣くんが立っていた。


「おかえり!」

「ん、ただいま」


 そう言いながら臣くんは私に歩み寄り、頭をポンポンと撫でてくれた。
 だけど、その直後、彼はあからさまに眉を顰め、動きを止めた。

 さっそく渋谷さんの香水の匂いが鼻を突いたのか、彼は確認するように、さらに一歩私へと顔を近づける。


「…くせぇんだけど」

「え?」


 私は白々しく小首を傾げ、何も知りませんよという無垢なフリをして見せた。

 臣くん、怒ってるかな。

 少しだけ期待しながら彼の顔を覗き込むと、そこには予想を遥かに超えて冷え切った表情があった。


(あ、やばい…)


 本能が警鐘を鳴らした時には、もう遅かった。

 ガンッ、と強めの衝撃と共に壁に押し付けられる。私の両手首は彼の一方の手で無造作に組み伏せられ、頭上へと持ち上げられた。

 至近距離で見下ろしてくるその瞳。怒っているなんて表現では、あまりに生温い。


「俺が他人とデートしたからって、浮気?」

「う、浮気なんか…!」

「じゃあ、どうやったら男物の香水の匂いなんて着くんだよ。抱きしめられでもした?殴りに行くから、そいつの名前言えよ」


 そんな低く威圧的な声に、私は必死で首を横に振った。


「こっちは行きたくもないデートに行かされてうんざりしてたのに、どこで誰とナニを、してたわけ?」


 逃げ場のない問いかけに、私は「き、聞いて!」と必死に彼の胸元を叩く。

 これ以上はまずい。このままだと本当に、彼は渋谷さんを殴りに行きかねない。

 正直、渋谷さんが殴られるのは自業自得な気もするけど、私まであらぬ疑いをかけられ続けるのは困る!
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