野いちご源氏物語 五三 手習(てならい)
また紀伊(き)の守(かみ)の声が聞こえる。
「だいぶ前に都には戻ってきていたのですが、任期(にんき)終わりの報告などで忙しく、すぐにこちらに上がれませんでした。本当は昨日参るつもりだったのですが、薫(かおる)の君(きみ)のお供(とも)をすることになりましてね。亡き八(はち)の宮(みや)様の宇治(うじ)の山荘(さんそう)へ行かれたのです。

伯母君(おばぎみ)はご存じでしょうか。薫の君は八の宮様の姫君(ひめぎみ)を恋人になさっていたのですが、その人がお亡くなりになった後、妹という人をひそかに宇治に住まわせなさいました。しかし去年の春、その人もまた亡くされまして、近いうちに一周忌(いっしゅうき)のご法要(ほうよう)をなさるそうなのです。昨日はそのことで宇治のお寺の僧侶(そうりょ)とご相談なさいました。

ところでご法要には私も着物をお供(そな)えしなければならないのですが、こちらで仕立てていただけませんか。布地(ぬのじ)は急いで用意いたしますので」
自分の一周忌のことだと気づいて、浮舟の君は動揺(どうよう)を隠(かく)しきれない。
<女房(にょうぼう)たちがあやしむだろう>
と、さりげなく背を向ける。

「あら、亡き八の宮様の姫君はおふたりでしょう。ご姉妹の妹君(いもうとぎみ)の方は匂宮(におうのみや)様の奥様ではありませんか」
「ご姉妹の下に腹(はら)違(ちが)いの妹がいらっしゃったそうなのです。それほど大切にお扱(あつか)いでもなかったのですが、亡くなるとひどくお悲しみになりましてね。大君(おおいぎみ)がお亡くなりになったときも、それはそれは深いお嘆(なげ)きだったのですよ。あのときはもう、出家(しゅっけ)してしまわれそうなほどで」
紀伊の守は薫の君にお仕えしている人だと思うと、浮舟の君は息をひそめる。

「恋人をつぎつぎと亡くされた宇治ですから、昨日もお気の毒なご様子でした。川の近くへ行って流れを覗(のぞ)いてごらんになりながら、ひどくお泣きになるのです。山荘に戻っていらっしゃると、柱に何かお書きになりました。
あとでこっそりと拝見したところ、『川面(かわも)にあの人の姿が映ったらよいのに。ただ私の涙が落ちるばかりだ』とありましたよ。はっきりとお口には出されませんが、いかにもおつらそうなご様子でした。

世間の女性たちがもてはやすのももっともなお美しい方です。少年のころから優美(ゆうび)で、他の貴公子(きこうし)とは格が違っていらっしゃいましたからね。ご身分だけでいえばもっと上の貴族もおいでですが、私は薫の君一筋(ひとすじ)にお仕(つか)えしているのです」
浮舟の君は薫の君の落ち着いたご態度を思い出しながら、
<このくらいの身分の人でもよく分かっているほど、すばらしい方だったのだ>
と思う。

「光(ひか)る君(きみ)と呼ばれた、亡き源氏(げんじ)の君(きみ)のご子息(しそく)でいらっしゃいますものね。さすがに父君(ちちぎみ)のお美しさにはお負けになるだろうと思いますけれど。それでも今の世の中では、源氏の君のお血筋(ちすじ)が特別に大切にされているご一族でしょうね。夕霧(ゆうぎり)大臣(だいじん)様と、薫の君と」
「大臣様も気(け)高(だか)くてお美しい方です。貫禄(かんろく)がおありで、貴族のなかでは別格でいらっしゃいます。その他に優(すぐ)れた方と申せば匂宮様でしょうね。もし私が女だったら、おそばでお仕えしたいほどです」
尼君と紀伊の守はまるで別世界の物語のように話す。
浮舟の君は、自分の奇妙(きみょう)な人生も物語の一部のような気がした。
ぺらぺらと話すだけ話して、紀伊の守は帰っていった。
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