クロスケと呼ぶには

黒猫を知る人

 帰宅してすぐ、私はソファに倒れ込んだ。
今日は本当に疲れた。
精神的にも、周囲の視線的にも。

「…ありさ。」

隣にすぐクロスケが座る。
距離が近い。相変わらず近い。

「なに?」
「怒ってる?」
「…怒ってる。」
「…ごめん。」

しゅん、と耳が垂れる。
ほんとに反省してる顔はするんだよなあ。
私、この顔弱いんだなぁと改めて実感した。

「でも」
「でも?」
「帰ってきたのはえらい。」
「…ん。」

少しだけ顔が上がる。わかりやすい。

「でも勝手に出るのはダメ、次やったらほんとに」
「しない」

即答だった。珍しく迷いがない。

「…ほんとに?」
「…ありさ、困るのやだ。」

まっすぐ言われて、少しだけ言葉に詰まる。
ならよし、と軽く頭を撫でると、クロスケは目を細めた。


 その夜、ゴミ出しを忘れていたことを思い出して私は外に出た。

「すぐ戻るから、今度こそ出ないでね?」
「…うん。」

若干不安そうな返事を背にドアを閉める。
夜の空気は昼より静かで、少しだけ落ち着く。
そんなことを思いながら、ゴミ袋を持って階段を降りると――

「…あれ?」

アパートの前に人影があった。背の高い男だ。
街灯の下に立っていて、顔ははっきり見えない。
こんな時間に誰だろう。
住人…ではなさそう。
なんとなく違和感を覚えながら、ゴミを置いて戻ろうとしたその時だった。

「…黒い猫、見ませんでしたか。」
「っ」

声をかけられ、思わず足が止まる。低くて、落ち着いた声。
振り返ると男がこちらを見ていた。
年齢は…20代後半くらいだろうか。
整った顔立ちだが、どこか無機質な印象を覚える。

「黒猫…ですか?」
「ええ…少し前から、このあたりにいたはずなんですが。」

胸が、ざわつく。まさか。

「さあ…見てないですね。」

とっさにそう答えていた。
男はじっと私を見つめる。
その視線が妙に鋭くて、落ち着かない。

「そうですか。」
「…はい。」
「…。」

沈黙を迎えよぎった感覚があった。
なんだろうこの感じ。ただの探し人じゃない。
探している“もの”が違う気がする…。

「もし見かけたら、教えていただけますか。」
「どうしてですか…?」

思わず聞き返してしまった。
私の問いに驚いたすぐ後に、男は一瞬だけ目を細める。

「…大事なものなので。」
「…はぁ。」

それ以上は何も言わなかった。
でも、その言い方は…。
“ペット”を探している感じじゃないような、ただ直感でそう感じた。

「失礼します。」
軽く頭を下げ男は去っていく。
その背中を見送りながら、私は無意識に腕をさすっていた。
寒気がした。これは夜風に当たっていたからだろうか、それとも──


 急いで部屋に戻るりドアを開けると――

「ありさ」

すぐにクロスケが寄ってきた。
その顔を見て、少しだけ安心する。

「ただいま。」
「おそい。」
「ちょっとね。」

靴を脱ぎながらクロスケ、と名前を呼べば「なに。」といつものように少し無愛想な返事をした。
聞くべきじゃないと分かっていながらも、さっきのことが頭から離れなかった。

「黒猫、探してる人がいた。」
「…。」

ぴたりと、クロスケの動きが止まった。

「この辺にいた黒猫、見なかったかって。」
「………。」

クロスケは何も言わずに、ただじっと床を見ているだけだ。

「…知ってる人?」
「…わかんない。」
「ほんとに?」
「…。」

少しだけ、間があく。
そして、小さく首を振った。

「…でも。」
「でも?」
「なんか、やだ。」
「やだ?」
「…あの人、やだ。」

その言い方は直感的だった。
理由じゃなくて、“感覚”。
猫だった頃の本能みたいなものかもしれない。

「…そっか。」

それだけで十分だった。
あの男は普通じゃない。そう思った自分の感覚と、クロスケの反応が一致している。

「じゃあ、もしまた来ても出なくていいからね。」
「…うん。」
「絶対だよ?」
「うん。」

クロスケは頷く。
でも、その耳は少しだけ下がったままだった。
とても不安そうに。
「…ありさ」と呼ばれ、さっきのクロスケのように今度は私が返事をした。

「なに?」
「ここ、いられる?」
「…当たり前でしょ。」

迷うような答えじゃなかった。
確かに出会って日は浅いし、クロスケが人間の姿になれていることも、過去のことも、好きな食べ物だって私はまだ何も知らない。
それでも、不思議とクロスケはずっとここにいる、そう思えたのだから。答えは明快だった。

「クロスケは家族で、うちの子なんだから。」
「…。」

一瞬、目を見開く。
それから、少しだけクロスケの頬が赤くなった。
また名前を呼ばれ返事をした。

「好き。」
「っ!?」
「ここが。」
「びっくりする言い方しないで!」
「なんで?」
「なんでじゃない!」

心臓がうるさい。
ほんとにこの子は、無自覚で爆弾を落としてくる。クロスケはそんな私を見て、少しだけ笑った。

でも――
その目の奥には、ほんの少しだけ不安が残っていた。
そして私はまだ知らなかった。
あの男が、ただの“黒猫探し”ではないことを。
クロスケの正体が、思っているよりずっと。


“普通じゃない”ことを───
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