きみだけのぬくもり

わ きみだけのぬくもり

季節が、少しだけ進んでいた。

教室の空気も、日差しも、何もかもが変わっていくのに。変わらないものが、ここにある。

隣の距離。

当たり前みたいに座っている。凛がいる。それがもう、最初からそうだったみたいに馴染んでいる。

「眠そう」

小さく言われる。

「……ちょっとだけ」

答えると、軽く笑う気配がする。

「昨日遅かったもんね」

その一言で、胸がわずかに揺れる。

思い出す。

触れていた温度。離れなかった距離。逃げられなかった時間。

それが、今も続いている。

「ちゃんと来てるね」

机の下で、指先が触れる。絡む。

もう、振りほどこうとは思わない。

「……うん」

それでいい。

そう思ってしまう。

ふと、前を見る。

一つ前の席。

空いている。

ずっと、空いたまま。

最初は違和感だった。

でも今は、ただの風景になっている。

誰も触れない。

誰も話題にしない。

まるで最初から、そこには何もなかったみたいに。

「ねえ」

凛の声が落ちる。

「ちゃんと見てる?」

何を、とは聞かない。

聞かなくても分かる。

今の自分。

ここにいる自分。

「……見てる」

静かに答える。

嘘じゃない。

ちゃんと見ている。

壊れていることも。

戻れないことも。

全部。

「いいね」

小さく笑う。

その言葉が、やけにやさしい。

授業が進む。時間が流れる。

でも、その中で変わらないものがある。

触れている距離。

離れない温度。

それだけが、確かで。

それ以外は、少しずつ曖昧になっていく。

昼休み。

屋上。

風が吹く。

隣にいる。

もう、何も言わなくても分かる距離。

「さ」

凛が、少しだけ視線を寄せる。

「後悔してる?」

不意に聞かれる。

心臓が、わずかに揺れる。

答えは、決まっているはずなのに。

ほんの一瞬だけ、別のものが浮かぶ。

あの時の笑顔。

変わらなかった優しさ。

何も言わずに、離れていった背中。

――あの時。

ほんの少しだけ。

戻れたかもしれない時間。

でも。

「……してない」

口が、先に動く。

それが、今の答え。

「ほんとに?」

確かめるみたいに聞かれる。

逃げ場を残さない問い。

「……うん」

もう一度、頷く。

その瞬間。

凛が、少しだけ満足そうに笑う。

「いいよ」

優しく言う。

「ちゃんと選べてる」

その言葉が、すべてを固定する。

選んだ。

自分で。

間違いなく。

逃げられない形で。

「ねえ」

さらに距離が近づく。

「もうさ」

低く囁く。

「いらないでしょ」

何が、とは言わない。

でも、分かる。

もう一つの可能性。

もう一人の存在。

全部。

「……うん」

小さく答える。

それで終わる。

完全に。

凛の手が、ゆっくりと重なる。

指が絡む。

強く。

逃げられないくらいに。

でも、痛くはない。

ただ、離れないだけ。

「大丈夫」

囁かれる。

「ずっと一緒だから」

その言葉に、安心してしまう。

どこかが壊れているのに。

それでも、安心する。

それが、今の自分。

風が吹く。

少しだけ冷たい。

でも、その中で。

握られている手だけが、あたたかい。

それだけでいいと、思ってしまう。

ふと、視線が落ちる。

屋上の床。

そこに、見覚えのある傷がある。

三人で座っていた時に、何気なくつけたもの。

笑いながら、どうでもいい話をしていた時間。

ほんの一瞬、胸が締まる。

でも。

すぐに、その感覚は薄れていく。

隣の温度の方が、強いから。

「どうしたの」

聞かれる。

「……なんでもない」

答える。

それでいい。

それ以上、何もいらない。

記憶も。

後悔も。

全部、薄れていく。

その代わりに残るのは。

この距離と、この温度だけ。

それで満たされている。

そう思えてしまう。

「ね」

最後に、凛が囁く。

「これでよかったでしょ」

一瞬だけ、言葉が止まる。

でも。

「……うん」

笑って、答える。

ちゃんと、笑えている。

そのことに、少しだけ安心する。

どこも痛くない。

苦しくない。

ちゃんと、選べている。

そう思えている。

――だから、大丈夫。

もう戻れないことも。

何かを失ったことも。

全部、分かっているのに。

それでも。

きみのぬくもりだけが、残っている。

それだけで、いいと。

本気で思えてしまっている。
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