きみだけのぬくもり

蒼 触れられなかったぬくもり

最初から、分かっていた気がする。

あの距離は、ずっと同じままではいられないってこと。

三人でいる時間は、心地よかった。何も考えなくていい場所だった。笑っていれば、それでよかった。

でも、その“それでいい”は、少しずつ形を変えていった。

視線の向き。声のトーン。触れる距離。

ほんのわずかな違い。

気づかないふりをしていただけで、本当はずっと見えていた。

凛が、七瀬を見る目。

七瀬が、それに気づかないふりをする仕草。

その全部が、少しずつ重なっていく。

「ねえ」

あの時、声をかけられた瞬間。

何かが、決まった気がした。

振り向かなかった理由は、自分でもよく分からない。

でも、振り向いたら終わると思った。

終わるっていうのは、壊れるんじゃなくて。

ちゃんと形になってしまう、という意味で。

だから、見なかった。

見ないまま、進ませた。

結果は、分かっていた通りだった。

教室で見た距離。

あれはもう、“途中”じゃなかった。

完成していた。

入り込む余地なんて、最初からなかったみたいに。

それでも。

何も言わなかった。

言えなかった、じゃない。

言わなかった。

理由はいくつもある。

壊したくなかったとか、関係を守りたかったとか。

でも、本当は違う。

怖かっただけだ。

選ばれないことが。

はっきりすることが。

それを、言葉にされることが。

だから、先に引いた。

何も起きていないみたいに振る舞って。

何も失っていないふりをして。

そうすれば、少しだけ長く続くと思った。

あの時間が。

でも。

そんなこと、意味がなかった。

「優しいよね」

あの時、自分で言っていて分かっていた。

違うってこと。

優しいんじゃない。

ただ、逃げてるだけだってこと。

それでも、そう言った。

そう言うしかなかった。

あの時の七瀬の顔。

否定しようとして、できなかった顔。

あれを見た瞬間、全部終わったと思った。

もう、戻れない。

何を言っても、変わらない。

それが、はっきりした。

廊下で、最後に話した時。

本当は、言いたいことなんていくらでもあった。

どうして、とか。

なんで、とか。

全部。

でも。

一つも言わなかった。

言ったところで、意味がないと分かっていたから。

もう、選ばれている顔をしていた。

あの距離を、手放さない顔。

それを見てしまったから。

「楽しそうなら、それでいいよ」

あの言葉は、嘘じゃない。

でも、本当でもない。

そう思おうとしただけだ。

そう思えば、楽になると思った。

でも。

全然、楽にならなかった。

教室の前の席。

空いたままの場所。

誰も何も言わない。

最初からいなかったみたいに扱われる。

それが、一番きつい。

存在ごと、なかったことにされるみたいで。

でも、それを選んだのも自分だ。

何も言わなかった。

何も止めなかった。

その結果。

ちゃんと、消えた。

放課後、誰もいない教室に残ることが増えた。

理由はない。

ただ、帰る場所が少しだけ遠く感じるだけ。

机に座る。

前を見る。

あの席。

もう、何も残っていない。

でも、たまに思い出す。

どうでもいい話をしていた時間。

笑っていた顔。

三人でいた時の、あの空気。

あれは、確かにあった。

なかったことにはできない。

でも。

今は、もう触れない。

手を伸ばしても、届かない距離になっている。

それだけ。

それだけなのに。

妙に、はっきりしている。

帰り道、一人で歩く。

いつも通っていた道。

何も変わっていないのに、少しだけ長く感じる。

途中で、足を止める。

理由はない。

ただ、思い出しただけ。

あの時。

もし、何か一つでも違う選択をしていたら。

ほんの少しだけでも、踏み込んでいたら。

結果は変わっていたのか。

考える。

でも、すぐに分かる。

たぶん、変わらない。

あの二人は、ああなる。

どこかで、必ず。

だったら。

これでよかったのかもしれない。

そう思おうとする。

でも。

「……無理だな」

小さく呟く。

笑う。

少しだけ。

全然、納得なんてできていない。

それでも。

戻れない。

もう、どうやっても。

あの場所には。

あの距離には。

あの温度には。

触れられない。

それだけが、はっきり残る。

夜、ベッドに入る。

目を閉じる。

浮かぶのは、決まっている。

最後に見た顔。

手を取られた瞬間。

振り返らなかった背中。

全部、繋がっている。

消えない。

時間が経っても、たぶん消えない。

それでも。

明日は来る。

同じ場所に行って。

同じように過ごして。

何もなかったみたいに、生きていく。

そうやって、薄れていくはずなのに。

たぶん、一番薄れないのは。

触れなかった温度だ。

手を伸ばせば届いたかもしれない距離。

でも、伸ばさなかった。

その事実だけが、ずっと残る。

消えないまま。
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