きみだけのぬくもり

た 視線の檻

朝から、落ち着かなかった。理由は分かっているのに、認めたくない。教室に入るだけで、どこにいるのか探してしまう自分がいる。

席に座る。視線を感じる。

振り向かなくても分かる。

見られている。

それも、逃がさないみたいに。

ノートを開く。文字が頭に入らない。背中がじわじわと熱を持つ。視線だけで触れられているみたいな感覚が消えない。

「七瀬」

名前を呼ばれて、はっとする。

振り向くと、いつもの笑顔がある。

それだけで少し安心する。

でも、その奥に、もう一つの視線があることを知ってしまっている。

「ぼーっとしてる」

軽く笑われる。

「ごめん」

そう返しながらも、意識は後ろに引っ張られる。

見なくても分かる。

そこにいる。

ずっと、見ている。

授業中、何度か振り返りそうになるのを堪える。見たら、何かが決まってしまう気がした。

でも。

耐えきれなくなる瞬間が来る。

ふと、顔を上げる。

視線がぶつかる。

逸らされない。

そのまま、じっと見られる。

逃げ場がない。

ゆっくりと、凛が微笑む。

その笑い方は優しいのに、縛られるみたいに動けなくなる。

ほんの数秒なのに、息が詰まる。

視線を外したとき、指先が震えていた。

昼休み。

「購買行かない?」

誘われて、立ち上がる。

いつも通りのはずなのに、背後の気配を意識してしまう。

廊下に出る。人の流れに紛れる。

なのに。

すぐ分かる。

ついてきている。

振り返らなくても、分かる。

見られているから。

「ねえ」

隣から声がする。

「今日さ、放課後空いてる?」

唐突な質問。

「うん、多分」

答えながらも、背中が落ち着かない。

「じゃあさ」

言いかけたところで。

「いいな、それ」

後ろから、声が重なる。

振り向く。

凛がいた。

自然な顔で、まるで最初からそこにいたみたいに。

「何の話?」

軽く聞いてくる。

「放課後の話」

あの人が答える。

「へえ」

少しだけ視線がこちらに向く。

「誰と行くの?」

問いかけは軽いのに、逃げ道がない。

答えを待っている。

「……まだ決めてない」

そう言うしかなかった。

すると、凛は小さく笑う。

「じゃあさ」

一歩、近づく。

「今決めよ?」

距離が近い。

人がいるのに、関係ないみたいに。

「どっち?」

その一言で、空気が止まる。

分かってしまう。

選ばされている。

冗談じゃない。

でも、冗談にできない。

「え、なにそれ」

あの人が笑う。軽く流そうとする。

「別にいいじゃん」

凛は笑ったまま言う。

でもその目は笑っていない。

「ちゃんと決めた方が、分かりやすいでしょ」

分かりやすい。

何が。

誰にとって。

答えられない。

沈黙が落ちる。

その間も、視線は外れない。

逃げられない。

「七瀬は?」

名前を呼ばれる。

心臓が跳ねる。

「どっちがいい?」

優しい声。

でも、その奥にあるものが怖い。

選んだら終わる気がする。

でも、選ばないと。

「……」

言葉が出ない。

視線が重なる。

一方は、やさしく待つ。

もう一方は、逃がさないように見ている。

息が苦しい。

「ほら」

凛が、さらに近づく。

肩が触れる。

びくっとする。

「ちゃんと見て」

低く囁かれる。

「どっちが欲しいか」

頭が真っ白になる。

欲しい、なんて言葉を使われて、思考が止まる。

「……違う」

やっと否定する。

でも弱い。

「違わないよ」

即座に返される。

「だってさ」

指先が、そっと触れる。

逃げようとしても、逃げられない位置。

「ちゃんと顔に出てる」

ぞくっとする。

見られている。

全部。

「ねえ」

さらに近づく。

「選ばないなら」

一瞬、間があった。

「こっちで決めるよ?」

その言葉に、背筋が凍る。

選ばされるか、奪われるか。

どちらにしても、逃げられない。

「……」

何も言えない。

その沈黙を、凛は受け取ったみたいに小さく笑う。

「そっか」

そのまま、距離を離す。

急に、空気が軽くなる。

「じゃあ今日は三人で行こ」

何事もなかったみたいに言う。

でも。

もう分かってしまっている。

これは提案じゃない。

決定だ。

放課後。

三人で並んで歩く。

昨日と同じはずなのに、違う。

距離も、空気も、全部。

ふと気づく。

どこにいても、視線がある。

前でも、横でも、後ろでも。

逃げ場がない。

「楽しいね」

凛が言う。

その声は本当に楽しそうだった。

だからこそ、怖い。

「ねえ」

また、呼ばれる。

「ちゃんと決めようね」

軽い言い方。

でも、確実に約束させられている。

いつか来る、その瞬間を。

選ぶ日。

壊れる日。

どちらになるのかは、まだ分からない。

でも。

その中心にいるのは、自分だということだけは、はっきりしていた。
< 4 / 16 >

この作品をシェア

pagetop