きみだけのぬくもり

は ぬくもりの檻

放課後、手を引かれたまま歩いていた。どこに向かっているのか分からない。聞く余裕もない。ただ引かれるままに足が動く。振りほどこうと思えばできるはずなのに、しなかった。その理由を考えようとすると、胸の奥がざわつく。

「こっち」

静かな声に導かれて、人通りの少ない道に入る。さっきまでのざわめきが消えて、足音だけがやけに響く。止まる。手が、離れない。

「……どこ行くの」

やっと聞くと、少しだけ振り返って笑う。

「少しだけ」

曖昧な答えなのに、それ以上は聞けなかった。

近くの公園に入る。人気はない。夕焼けがすべてをやわらかく包んでいる。その中で、ようやく手が離れる。離れたはずなのに、まだ触れているみたいに感覚が残る。

「ねえ」

名前を呼ばれて顔を上げる。近い。さっきよりもずっと近い。逃げようとして一歩下がると、その分だけ距離が詰まる。逃げ場がない。

「さっきの、続き」

静かに言われる。

「覚えてる?」

選ばされたこと、踏み出したこと。忘れられるはずがない。

「……覚えてる」

小さく答えると、少しだけ満足そうに笑う。

「じゃあいい」

そのまま一歩近づく。距離がほとんどなくなる。息がかかる。心臓の音が大きくなる。

「つらかったでしょ」

優しく言われて、息が詰まる。否定したいのにできない。

「いいよ、もう無理しなくて」

その一言で、張りつめていたものが音もなく崩れる。言葉が出ない。視界が少しだけ滲む。

「ほら」

指先が頬に触れる。涙に触れる。自分でも気づいていなかった。

「ちゃんと出てる」

やさしく拭われる。その仕草が自然すぎて拒めない。

「ねえ」

さらに距離が近づく。

「こっちの方が、楽でしょ」

何がとは言わない。でも分かる。“選ばれない側”じゃない場所。今、この距離。

「……うん」

気づいたらそう答えていた。凛の目が少しだけ細くなる。

「よかった」

本当に嬉しそうに笑う。その笑顔に、安心してしまう。怖いのに、分かっているのに。

「じゃあさ」

手が、また触れる。今度はしっかりと。逃げる隙もなく包まれる。

「ちゃんとこっち来て」

引かれる。今度は迷わない。そのまま近づく。距離がゼロになる。触れている。はっきりと。温度が直接伝わる。

あたたかい。思っていたよりも、ずっと。

「ね」

耳元で囁かれる。

「もう大丈夫でしょ」

何が大丈夫なのか分からない。でもその言葉だけで安心してしまう。さっきまでの苦しさが少しずつ薄れていく。代わりに静かな安心感が満ちていく。離れたくないという感覚。

「……うん」

また頷いてしまう。その瞬間、指先が少しだけ強くなる。逃げられないくらいに。

「いいよ、そのままで」

離れない。距離も温度も全部。時間が止まったみたいに続く。頭の中が静かになる。何も考えなくていい。ここにいればいい。そう思ってしまう。

その時、一瞬だけ別の顔が浮かぶ。いつもの笑顔。優しい声。でもすぐに薄れていく。今触れている温度の方が強いから。

「ねえ」

また囁かれる。

「どっちがいい?」

同じ質問。でももう意味が違う。選ばされているんじゃない。もう、選んでしまっている。

「……こっち」

小さく答える。それで十分だった。

「知ってた」

ゆっくりと笑う。その一言で全部が確定する。

もう戻れない。選ばれたんじゃない。選んでしまった。この温度を、この距離を、この人を。どんなものか分かりきっていないまま。ただひとつだけ、はっきりしている。

離れられない。

静かに、深く、沈んでいく。あたたかさの中に。抜け出せないまま。
< 6 / 16 >

この作品をシェア

pagetop