きみだけのぬくもり

ま 残された温度

次の日の朝、空気が少しだけ違っていた。理由は分からないはずなのに、分かってしまう。教室に入る前から胸の奥がざわついている。

扉を開ける。視線が動く。自然と、あの人を探している自分に気づく。見つけた瞬間、少しだけ安心する。

そのすぐあとに、違和感が来る。

隣にいる。凛が。距離が近い。昨日よりも、明らかに。話している。笑っている。その光景が、妙に“完成されて”見える。入り込む隙がない。

「おはよ」

声をかける。二人が同時にこちらを見る。

「おはよ」

いつも通りの声。でも、ほんの少しだけ遅れて返ってきた気がした。その“少し”が刺さる。

席に座る。視界の端に二人の距離が入る。近い。昨日、自分がいた場所。そこに、もういない。

授業が始まる。何も頭に入らない。ペンを持っているのに、ノートはほとんど白いまま。視線だけが、どうしてもそっちに引っ張られる。見たくないのに、見てしまう。

笑っている。自然に。昨日まで自分に向けられていた笑顔と同じもの。それが、今は別の方向に向いている。

――違う。

そう思おうとする。でも。

「これさ」

凛が、軽くあの人の肩に触れる。その距離、その自然さ。昨日、自分がいた場所。それが簡単に置き換わっている。音もなく、当たり前みたいに。

喉が乾く。呼吸が浅くなる。

――違う。そうじゃない。

分かっている。自分が選んだ。あの温度を、あの距離を。それでも、目の前の光景がそれを否定する。

「七瀬?」

名前を呼ばれる。はっとする。

「どうしたの?」

いつもの声。優しい声。でも、その奥に何かがある気がする。見透かされているみたいな。

「……なんでもない」

また、それしか言えない。言った瞬間、分かる。もう遅い。何もかも、もう遅い。

昼休み。一緒に食べる流れになる。断れない。断る理由がない。三人で机を寄せる。でも配置が違う。二人が並んで、向かいに自分。ほんの少しの違い。それだけで距離が決定的に変わる。

「これ美味しい」

凛が言う。

「ほんと?」

あの人が笑う。そのまま自然に同じものを共有する。距離が近い。迷いがない。それを真正面から見る。逃げ場がない。

「七瀬も食べる?」

声をかけられる。差し出される。昨日とは違う。同じ行為のはずなのに意味が違う。今は、“余りもの”みたいに見える。

「……いい」

初めて、断る。ほんの少しの沈黙。その空気がやけに重い。

「そっか」

軽く返される。それだけ。それだけなのに、胸の奥が深く抉られる。代わりなんていくらでもいる。その現実が、静かに突き刺さる。

放課後。

「帰ろ」

声がする。でも、その言葉が自分に向けられているのか分からない。一歩遅れて立ち上がる。

三人で歩く。でももう、並び方は決まっている。二人が前、自分が後ろ。昨日と同じなのに意味が違う。完全に、置いていかれている。

「ねえ」

凛の声がする。振り向かない。振り向けない。

「今日さ」

続く会話。笑い声。全部、遠い。

歩きながら、ふと気づく。手が、空いている。昨日まであった温度がない。それだけで寒い。異様に寒い。

――戻りたい。

思ってしまう。あの距離に、あの温度に。でも、それはもう、自分が手放した。

そのはずなのに。

「ねえ」

不意に、すぐ後ろで声がした。止まる。振り返る。凛がすぐそこにいた。いつの間に。

「どうしたの?」

優しく聞いてくる。その声に反射的に安心してしまう。

「……なんでもない」

また同じ言葉。でも今度は違う。本当は全部ある。全部、壊れている。

「そっか」

小さく笑う。一歩、近づく。距離が詰まる。

「顔、やばいよ」

低く囁かれる。びくっとする。

「ほら」

指先が頬に触れる。昨日と同じ。でも意味が違う。今は“救い”に見える。

「つらい?」

優しく聞かれる。答えなくても分かっているくせに、それでも聞く。

「……うん」

声が震える。初めて、認める。その瞬間、凛の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。

「いいよ」

また同じ言葉。でも今度はもっと深く刺さる。

「こっち来なよ」

手が差し出される。迷う余地なんてない。もう分かっている。ここしかない。この温度しかない。他は全部、冷たい。

ゆっくりと、その手を取る。握られる。強く。逃げられないくらいに。

その瞬間、安心してしまう。最低だと思うのに、やっと呼吸ができる。

後ろから、あの人の声がする。

「……何してるの?」

振り向く。少しだけ困った顔。でもその視線は、もうさっきまでと同じじゃない。

「別に」

凛があっさり答える。そのまま、手を離さない。

「行こ」

引かれる。歩き出す。振り返る。目が合う。その一瞬で分かる。もう戻れない。あの距離には、あの関係には。

全部、壊れてしまった。

なのに、握られている手の温度だけが、やけにあたたかい。

それに縋っている自分がいる。

壊れたまま。選んだまま。沈んでいく。誰かを置いて。自分も壊しながら。
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