10年越しの溺愛——御曹司は私を逃さない
朝のオフィスはいつもより静かで冷たく、しかし今日はその静寂の中に微妙な張りつめた空気が漂っていた。
黒崎蒼が社長として着任して以来、フロア全体に緊張が根付き、経理部の私も例外ではない。
目の前に広げた資料の数字を何度も確認する。
今日は、過去最大規模の海外取引――額にして八百億円の契約の決済日だった。
手が微かに震え、汗ばむ指先で資料を押さえながら、細心の注意を払い数字と契約書を突き合わせる。
隣の同僚も同じように無言で資料を確認しており、誰も口を開かない。
空調の音や時計の針の音さえ異様に大きく響き、胸の奥に小さな焦りが積もっていく。
海外クライアントは非常に厳格で、為替や送金タイミング、契約条項の一行一句の違反でも契約不履行とみなされる。経理部としてのミスは許されない。
それが数十億単位ではなく、八百億円という桁違いの金額であれば、緊張感は想像を超える。
部長の低い声が背後から聞こえた。
「白石、最終チェックは終わったか?」
私は軽くうなずきながら、資料をもう一度めくり、数字と照合する。
指先に力を込め、息を整えて決済用システムに入力する瞬間を迎える。
その間も、社長の鋭い視線を背後に感じる気がして、背筋が無意識に伸びる。
怖いはずなのに、目を離すことができない。彼の存在が、今目の前で動く八百億円の数字にまで重くのしかかってくる。