10年越しの溺愛——御曹司は私を逃さない
「私、あの家から出ようと思ってるの」
ぽつりとこぼした言葉に、紗耶香の動きが止まる。目を丸くして口を開けたまま固まるその反応は、きっと普通なんだと思う。好きだと言った直後に、離れる選択を口にするなんて、自分でもおかしいと思うから。
「…この気持ちが怖いの。自分が自分じゃなくなりそうで」
ゆっくりと言葉を選びながら、自分の中にあるものを確かめるように話す。翔と出会う前は、こんなことで悩むことなんてなかった。ただ普通に働いて、普通に恋をして、いつか結婚できたらいいなって、そんなふうに思っていた。それだけでよかったはずなのに。
あの出来事をきっかけに、何かが変わってしまった。人を好きになることが、こんなにも怖いものだなんて知らなかった。自分の中の優先順位が、勝手に塗り替えられていく感覚。
仕事よりも、日常よりも、その人のことばかり考えてしまう自分がいる。それが嬉しいはずなのに、同時に恐ろしくもある。29歳にもなって、こんなことで揺らいでいる自分が情けない。将来のことを考えれば考えるほど、不安が膨らんでいく。もしこのまま、自分を見失ってしまったらどうしよう。もし、この気持ちが一方通行だったらどうしよう。そんなことばかり考えてしまう。
「好きって思うの自体は、別に悪いことじゃないと思うけどね」
紗耶香は静かにそう言って、優しく微笑んだ。
「今しんどいのって、好きなこと?それとも関係がはっきりしないこと?」
「そ、れは…」
紗耶香の言葉に、思考がぴたりと止まる。どっちなんだろう。苦しいのは、この気持ちのせい?それとも、曖昧な距離のせい?考えようとすればするほど、分からなくなる。私は、結局どうしたいんだろう。社長と、どうなりたいのかさえ、はっきり答えられない自分がいる。
「社長といるとき、自分の意思で動けてる感じある?」
「…っ、」
言葉に詰まる。考えたこともなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。社長の一言や表情に振り回されて、そのたびに気持ちが揺れて、自分で何かを選んでいる感覚なんて、ほとんどなかった気がする。
「梨沙はね…恋愛するかどうかより、ちゃんと自分で選べてるかの方が大事じゃない?」
その一言が、静かに、でも確実に胸の奥へ沈んでいく。
気づけば、何も言い返せずにただ頷くことしかできなかった。