10年越しの溺愛——御曹司は私を逃さない
紗耶香の実家から届いたというブランド牛は、見ただけで分かるくらい綺麗な霜降りで、最初は鍋の予定だったはずなのに、気づけば「これ絶対すき焼きでしょ」という流れになっていた。
ぐつぐつと甘辛い割り下が煮える音と香りが部屋中に広がる。金曜日の夜。明日の仕事を考えなくていいというだけで、こんなにも心が軽くなるなんて、久しぶりに思い出した気がする。
「社長にちゃんと連絡した?」
肉をつつきながら、何気ない口調で紗耶香が言う。
「…してない」
小さく答えると、自分でも少しだけ罪悪感が胸をよぎる。実際のところ、まだ何も伝えていない。今日帰らないことも、ここにいることも。
「え、大丈夫?それ」
「…大丈夫だと思う」
曖昧に笑ってみせるけど、内心は全然大丈夫じゃないのかもしれない。
連絡しなくても、別に問題はないはずだ。だって私たちは、恋人同士でも何でもない。ただの上司と部下で、たまたま同居しているだけ。私がどこで何をしていようと、本来なら気にされる理由なんてない。
それなのに、頭のどこかで考えてしまう。もし、帰りを待っていたら。もし、ご飯を用意してくれていたら。その光景を想像してしまう自分がいて、胸の奥が少しだけ痛くなる。
「連絡くらいしときな」
紗耶香にそう言われて、観念したようにスマホを手に取る。画面を開いて、社長の名前を見ただけで、指先が少しだけ震えた。
〈お疲れ様です。今日、紗耶香の家に泊まります〉それだけの短い文章なのに、送信ボタンを押すまでにやけに時間がかかる。