10年越しの溺愛——御曹司は私を逃さない
「10年前だ」
心臓が、強く跳ねる。
「雨の日。駅前」
その言葉だけで、胸の奥がざわつく。止めていたはずの記憶の蓋が、ゆっくりと、音を立てて開いていく。
ぼやけていた映像が、少しずつ形を持ちはじめる。冷たい雨。濡れた地面。駅前の雑踏。
その中で、ただ一人、空を見上げていた人。スーツはびしょ濡れで、どこか壊れそうに見えた。気づけば傘を差し出していた。
『大丈夫ですか?』
見知らぬ人にかけた、たった一言。
『顔色、すごく悪いですけど』
そう言って、傘を押し付けた記憶。名前も知らない、通りすがりの一瞬。それだけの出来事だったはずなのに。
「……あれ、って……」
声が震える。社長は、ほんのわずかに目を細めた。
「やっと思い出したか」
「……なんで」
言葉にならない。理解が追いつかない。
「どうして、あなたが……」
その問いに、社長はほんのわずかに間を置いてから、静かに口を開いた。
「——あのとき、初めてだった」
「……え?」
「利害も、打算もなく、他人に気にかけられたのは」
雨の音が、やけに遠くなる。部屋の空気だけが濃くなったみたいに、息がしづらい。
「原因が仕事だけならよかったんだ」
低い声が続く。
「でも、この家柄のおかげで、心の底から信頼できる人間なんて最初からいなくてな。段々と、生きてること自体がしんどくなっていた。今日こそ、飛び降りてやろうと思ってたんだよ」
言葉の意味が、遅れて落ちてくる。飛び降りる。あの人が。あの時、駅前でただ濡れて立っていた人が。