社長、その溺愛は計算外です

「……冗談、ですよね?」

絞り出すような声で尋ねると、彼は笑わなかった。

「冗談じゃない」

その目に、迷いは一切なかった。ビジネスの場で即断する時と同じ、一点の曇りもない確信の色。

「……勝手すぎます」

気づけば、私はそう口にしていた。

「私、そんな単純な人間じゃありません」

声は震えているのに、目を逸らせない。

すると彼は、ほんの一瞬だけ目を見開いて──。

「……ああ、知ってる」

低く笑った。

「だから、欲しいんです」

エレベーターが一階に着き、チャイムが鳴る。

彼の手が、私の手首からゆっくりとほどける。けれど指先だけが、最後まで肌に触れていた。

「今度、お時間があるときに……」

言いかけて、彼は一瞬だけ口を閉じた。珍しく、言葉を探すような間。

「……もっと、お話できればと思います。仕事のことではなく」

ドアが開き、外の冷たい空気が流れ込む。

「それでは。また──来週、オフィスでお会いしましょう」

会議室では決して見せたことのない、どこかぎこちなく誠実な表情を残して、彼は踵を返した。

私は、ただ頷くことしかできなかった。

──この人は、口説き慣れていない。

直感的に、そう思った。
< 10 / 34 >

この作品をシェア

pagetop