社長、その溺愛は計算外です
一人称が、変わった瞬間だった。
感情が溢れた瞬間に、本音が漏れた声だった。
「俺には──」
私は、その言葉の続きを聞く前に首を振った。
聞いてしまったら、立ち止まれない。答えを保留できなくなる。それが怖かった。
「ごめんなさい」
私は彼の手を振りほどき、バーを飛び出した。
冷たい空気が頬を打つ。
足が地面についている感覚がなかった。
何かが喉に詰まっていて、息の仕方が分からなかった。それでも、足だけが動き続けた。
◇
外は、もうすっかり暗くなっていた。街灯が、寂しく道を照らしている。
後ろから、圭佑さんが追いかけてくる足音が聞こえた。
「梓さん!」
彼の声が、背中に届く。それでも私は、前だけを向いて走り続けた。
いま足を止めれば、決心が揺らいでしまう。
「待ってください!」
彼の声が背中に突き刺さり、心臓が握りつぶされそうになった。
その叫びを振り切るように、駅に着いた私は自動改札へとICカードを叩きつけた。
ゲートを通り抜けた先で、抗いきれずに首を巡らせる。
改札の向こう側に、圭佑さんが立っていた。
苦しみと、後悔と──それでも何か強いものが混じり合った目で、こちらを見つめている。
私は一度だけ彼の目を見て、ホームへ向かう階段を降りた。
電車に乗り込み、ドアが閉まる。
圭佑さんの姿は、もう見えない。
涙が、頬を伝った。