社長、その溺愛は計算外です
通話が切れた後、オフィスに静寂が戻ってきた。
疲労はピークに達しているはずなのに、不思議と体は軽かった。
戦略も、マニュアルも、今夜は一度も役に立たなかった。それなのに、これほど満たされた朝は、久しぶりだった。
──そういえば。
ふと気づいた。
「少し確認したいことがあって」と言って廊下に戻ってきた桐原さんが、結局その「確認したいこと」を一度も口にしなかった。
あの一瞬の、言葉を探すような表情。
偶然、あの場所にいたわけじゃないのかもしれない。
そう思ったら、指先がじんわりと温かくなった。
◇
スマホをバッグにしまい、私はデスクの上を片付け始めた。
洗面所で顔を洗い、髪を整えて鏡を見る。少しはマシになったかしら──そう思った時、スマホが振動した。
送り主を見て、私の動きが止まる。
『桐原圭佑』
震える手で、私はメッセージを開く。
【お疲れ様でした。君の仕事ぶり、見事でしたよ。
近くのカフェのモーニングを予約しておきました。
『カフェ・ソレイユ』というお店です。
受付で、お名前をおっしゃっていただければ大丈夫です。
しっかり朝食を摂って、元気になってください。
今度、改めてお食事のお誘いをさせていただきますね。
仕事とは関係なく、個人的に。
桐原圭佑】
メッセージを読んだ瞬間、喉の奥がつまった。
徹夜明けで、まともな食事を摂っていない。それを、ちゃんと考えていてくれたのだ。
こんなに自然に、こんなにさりげなく気遣ってくれる人がいるなんて。
「桐原さん……」
私はスマホを胸に抱きしめた。
冷え切っていた指先に、画面から伝わる微かな熱が心地よかった。