社長、その溺愛は計算外です
「……っ!」
いつものきっちりとしたスーツではなく、濃紺のカシミアのタートルネックに黒のスラックスという、カジュアルな装いをしていた。
手には、ロードバイク専門誌を持っている。
オフィスで見る洗練された経営者の顔ではない。もっと自然で、親しみやすくて──どこか少年のような無防備さを感じさせる表情だった。
「桐原さん! こんなところで……」
私は手に持っていた旅行ガイドブックを、慌てて胸に抱えてしまう。
どうしよう、仕事上の緊張感が消えた素の状態で見られた。その事実に、じわりと恥ずかしさが込み上げてくる。
──こんなところで合うなんて、また偶然?
誰にも話していない、自分だけの逃げ場所のはずなのに。
それとも……もしかして。
この間も会議のあと「少し確認したいことがあって」と言いながら廊下に引き返してきた彼のことを、思い出す。
あの時も、確認したいことを最後まで口にしなかった。
「こんな時間に、一人で?」
「はい、息抜きに……」
彼の目が、私の持っているガイドブックに向けられる。
「沖縄ですか」
「ええ。いつか一人で行きたいと思っていて」
「なるほど」
桐原さんが、少し考えるような顔をした。
「一人旅の、何が好きなんですか?」
「自分のペースで、行きたい場所に行けること。計画通りにいかなくても、そのハプニングも含めて楽しめるというか」
「ハプニングを楽しむ?」
彼が首を傾けた。本気で、意味が分からないという顔で。