社長、その溺愛は計算外です
「仕事の場での新谷さんは、いつも目的があって動いている。書店で、行けるかどうかも分からない場所のガイドブックを眺めている姿は──違う顔だったので」
「……それは、褒めてるんですか」
「どちらでもないです。ただ、もっと知りたいと思った」
前を向いたまま、さらっと言う。
本人には、その言葉がどれだけ重いか、欠片も伝わっていない顔で。
「桐原さんって」
「はい」
「自分が今、何を言ったか分かってますか」
「事実を言いました」
「……そうですね」
私は小さく笑って、前を向いた。
信号が赤に変わり、二人で立ち止まる。
肩が、触れそうな距離にある。
街の灯りが、アスファルトに滲んでいた。
「新谷さん」
「はい」
「今夜、誘って良かったです」
信号が、青に変わった。
「私も」
二人で、また歩き出した。
人波に押されそうになる瞬間、桐原さんの歩幅がわずかに狭まり、私をそっと庇うような位置に収まった。何も言わず、ごく当然のように。
「ここです」
彼が立ち止まったのは、大通りから一本入った路地裏にあるビルの地下だった。控えめな看板に『Bar Crescent Moon』と書かれている。