恋の雨が降るとき 〜クールな外科医は甘く囁く~
あの夜のことが、幸子の胸の奥に浮かび上がる。
並んで歩いた帰り道、同じテーブルで過ごした時間、そして触れたぬくもり……。
どれも確かにあった出来事なのに、こうして外から見れば“ありえない話”として片付けられてしまう。

胸の奥が、静かにきしむ。

それでも幸子は息を整え、気持ちを押し込めるように背筋を伸ばした。

「倉田さん」

名前を呼ばれ、顔を上げると、同僚の視線がまっすぐに向けられていた。

「ちょっといい?」

軽い調子の声だったが、その奥にある意図は隠されていない。
周囲の空気がわずかに変わり、逃げ場はないと理解した瞬間、心臓がひとつ強く打つ。

「はい?」

「あのさ、松澤先生と、仲いいよね?」

やはり、その名前だった。
直球の問いに、一瞬だけ言葉が詰まる。
頭の中にいくつもの答えが浮かんでは消え、どれも違う気がして、選べない。

「ねえ、医院長のお嬢さんと縁談があるんだって」

声が一歩、近づく。

「どんな気持ち?」

意地悪な質問。
向けられる好奇な視線。
逃げ場はない。

幸子は一度だけ瞬きをし、ゆっくりと息を吸った。

「……松澤先生とは、仕事でお話することはありますが、それ以上は、プライベートのことですので……」

ひと呼吸置き、視線を逸らさずに言い切る。

「ご想像にお任せします」

空気が止まった。

「え、それって……どういう意味?」

ざわめきが広がる。
けれど、幸子はそれ以上答えない。

「すみません、業務に戻ります」

それだけ告げて視線を外し、パソコンに向き直る。
背中にいくつもの視線を感じるが、振り返らなかった。
 


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