恋の雨が降るとき 〜クールな外科医は甘く囁く~
怖さの中に、現実が混ざる。
幸子は、小さなキットを手に取った。
大したことのない作業のはずなのに。

これで、自分の人生が少し変わるかもしれない。
そう思った瞬間、ほんのわずかに手が止まる。

「……大丈夫」

小さく、自分に言い聞かせる。
そして、迷いを振り切るように、手を動かした。

小さなキャップを閉めて、ホッと息をはく。

そのとき、足元にやわらかな気配が触れた。

「……ミルク」

視線を落とすと、小さな体がすり寄ってきた。
何も知らない瞳で、まっすぐに見上げている。
幸子はゆっくりとしゃがみ込み、その背中にそっと手を伸ばした。
やわらかな毛並みが、指先に触れる。視線を落とすと、小さな体がすり寄ってくる。

「……大丈夫だよ」

誰に言うでもなく、小さく呟く。
ミルクは安心したように喉を鳴らし、その場に丸くなった。
その温もりに触れているうちに、張りつめていた心が、ほんの少しだけほどけていく。

ふと、子どもの頃の記憶がよみがえった。

友達の家には当たり前のようにいる“お父さん”が、なぜ自分の家にはいないのか。
そう母に尋ねたことがある。

あのとき、母は少しだけ寂しそうに微笑んで、「ごめんね」と言った。

その顔を見た瞬間、幼いながらに、これ以上聞いてはいけないことだとわかった。
それ以来、父のことを口にすることはなかった。

ミルクの背中を、もう一度そっと撫でる。

あたたかい。

そのぬくもりが、ゆっくりと胸の奥へ染みていく。

「自分のルーツか……」

小さく呟く。

窓の外に目を向けると、夜はすっかり深まり、遠くに街の灯りが瞬いている。
その光を見つめながら、幸子はゆっくりと息を吐く。

もう、目をそらさない。

そう決めた自分が、今ここにいる。
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